大槻 玄沢。 医学をめぐる漢字の不思議|漢字文化資料館

大槻磐渓

大槻 玄沢

18指定 公開状況 非公開 大槻玄沢〈おおつきげんたく〉は、江戸時代中期の蘭学者であり、わが国最初の蘭学塾を開くとともに、多数の著・訳書を著わし、日本の蘭学の発展に多大な足跡を残した人物です。 文政10年 1827 3月20日、71歳でその生涯を閉じ、高輪東禅寺に葬られました。 なお現在の墓は、墓地内の所々にあった大槻家の墓を、明治年間になって一か所に集めたものであり、玄沢の墓の周りには、妻や子の玄幹〈げんかん〉 蘭方医 ・盤渓〈ばんけい〉 儒者・砲術家 、孫の文彦 国語学者 など大槻家代々の墓が並んでいます。 大槻茂質〈しげかた〉、号盤水 玄沢は通称 は、宝暦7年 1757 9月28日、陸奥国磐井郡中里 現在の岩手県一関市 に生まれました。 大槻家は代々医者の家柄であり、父は一関藩医でした。 13歳の時から医学を学び、安永7年 1778 江戸に出て、杉田玄白に師事し、オランダ医学の研究を始め、前野良沢についてオランダ語を学び、天明5年 1785 には長崎に遊学してさらにオランダ語の学識を深めました。 玄沢は蘭学の普及にも熱心であり、天明6年に仙台藩医員となって江戸京橋に移り住むと、ここに日本最初の蘭学塾である「芝蘭堂〈しらんどう〉」を開きました。 橋本宗吉・稲村三伯・宇田川玄真ら多くの蘭学者を育てるとともに、天明8年には、オランダ語の初学者のための手引書である『蘭学階梯』を刊行しました。 玄沢は、師杉田玄白のあとを継いで蘭学書の翻訳を続け、寛政10年には、玄白の命により『解体新書』の重訂をほぼ完成し、後に『重訂解体新書』として出版されましたが、単なる原著の翻訳ではなく、多くの蘭学書を読み、それらをまとめたものであり、玄沢の深い学識を示すとともに、江戸時代の解剖学書として重要なものの一つです。 蘭学の先駆者である杉田玄白・前野良沢らの跡を継ぎ、日本の蘭学を隆盛に導いた功績は非常に大きなものです。

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大槻玄沢埋葬の地

大槻 玄沢

『今年は大槻玄沢生誕250周年』 一関市医師会 氷 室 一 彦 一関駅を降りると正面に大槻三賢人の胸像が目に止まる。 今年は大槻三賢人の祖、 大槻玄沢の生誕250周年にあたる。 そこで一関出身で医学の先達、大槻玄沢を紹介してみたい。 杉田玄白と前野良沢が日本で最初の実用的翻訳解剖書 『解体新書』を著わした 1774年。 これを弟子の大槻玄沢が翻訳をやり直し、 「重訂解体新書」を出版した 1826年。 この大槻玄沢が一関 田村 藩の出身なのである。 清庵なくして玄沢は語れない。 名医の誉れ高き 清庵は、長年、西洋医学に懐いていた疑問を書状にしたため、門人の衣関順庵に託し、江戸に旅立たせた 1770年。 その書状が杉田玄白に届き 1773年 、一関の清庵と玄白とに書簡交流が始まった。 このことは 「和蘭医事問答」に述べられている 1795年。 また、清庵は 『民間備荒録』を著わし 1775年 、領内の飢饉に苦しむ人々を救った医者でもあった。 さて、 大槻玄沢である。 彼は、清庵の薦めにより、杉田玄白と前野良沢について蘭学を学ぶため江戸に旅立った。 その後、二人の仕事を引継ぎ蘭学入門書の 「蘭学階梯」や 「重訂解体新書」そのほか多くの翻訳や著書を手がけ、日本の医学の発展に貢献した。 シーボルトとの交流もあったという。 玄沢が開講した江戸の 「芝蘭堂」には全国各地から蘭学を志すものが多数訪れている。 彼のもとから多くの蘭学者が育ったことも有名である。 当時の玄沢は、まさに日本の蘭学の頂点にあり、その後の日本の医学の発展に多大な貢献をしたのである。 玄沢生存の時期に一関藩でも、杉田玄白らの腑分け 解剖 から15年後の1785年に、処刑場で藩医らにより賊の人体解剖が行われている。 現在、『豊吉の墓』として東北線沿いに弔われている。

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橋本宗吉

大槻 玄沢

生涯 [編集 ] 一関藩の医師でのちにとなった大槻玄梁の長子として中里に生まれる。 玄沢9歳の時、オランダ流外科の開業医であった父が藩医となり、翌年一関に転居する。 13歳の時、同じ郷里の医師に師事し、早くから医学・語学に才能を示した。 7年()、22歳の時、への遊学を許されて、清庵と手紙のやり取りをしていた杉田玄白の・に学び、医術を修めるかたわら、前野良沢にを学んだ。 9年()には、良沢のもとを訪れた仙台藩江戸詰の藩医と知り合った。 玄沢の遊学期間が終わりに近づいていることを師の良沢が惜しんでいることを知った工藤平助は、藩主に遊学延長を願い、その結果期間が天明4年(1784年)まで2年延長され、玄沢の学問は大いに進展したといわれている。 28歳になったこの年、父が死去し家督を継ぐことになった。 翌5年()10月、玄沢は遊学を許され、江戸・大阪を経て長崎に到着した。 その地でオランダ通詞のに寄寓し、4ヶ月あまり滞在し、良永やらと交わって語学力を磨き、翌年5月に江戸に戻った。 天明6年(1786年)、玄沢は本藩の仙台藩医に抜擢されて江戸定詰を命じられたが、玄沢を本藩に推薦し、その実現に尽力したのも平助であった。 こうしたことが機縁となり、のちに玄沢と工藤家とは親戚同様の交際をもつようになる。 江戸詰になったのを機に、寛政元年(1789年)、玄沢は江戸三十間堀に・をひらいて多くの人材育成に当たった。 弟子としては、、、、の4人は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」と称された。 ほかの弟子として、、らがいる。 玄沢は、天明8年()、蘭学の入門書『』を記したことで、蘭学界での地位を確立した。 師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、寛政2年(1790年)改訂に着手した。 10年(1798年)の『』がそれで、改訂作業は元年()にいちおう完了した (刊行は9年())。 寛政6年()のヘイスベルト・ヘンミー( Gijsbert Hemmij)の江戸出府の際、一行を定宿の長崎屋に初めて訪れ、対談した玄沢は、これを機にこの年の閏11月11日がでに当たることから、多くの蘭学者やオランダの文物の愛好家を芝蘭堂に招き、「」と呼ばれる西洋の暦に合わせたを開いた。 オランダ正月はそののち数十年にわたって毎年開かれ、に漂流したのち帰還したなども招待された。 また、オランダ商館長参府一行との対談は、以後、数回にわたっておこなわれ、これらは『西賓対晤』としてまとめられた。 文化8年()のに出仕して『』の訳業に参加した。 これは、のを翻訳するというもので、のちにそのをひそかに仙台藩の書庫に収めた。 これは『生計纂要』(宮城県指定有形文化財 )という名称で現在まで伝えられている。 12年()に工藤平助が没すると、玄沢は困窮した工藤家を救うために負債の後始末を含めた援助に尽力をして、文化13年()に刊行された平助の医書『』には序を書いている。 10年()死去。 墓所は江戸の。 著訳書 [編集 ] 著訳書はたいへん多く、300余巻におよぶといわれる。 『六物新志』• 『瘍医新書』• 『蘭 畹摘要』• 『大西徽瘡方』 などの医書やのほか、• 『』…安永10年起草、天明3年完成、天明8年刊行 などの語学書・蘭学入門書があり、上述の『生計纂要』、『西賓対晤』(せいひんたいご)、への献策書『捕影問答』(ほえいもんどう)、および、仙台藩の依頼でロシア船で送り返された同藩の漂流民に事情聴取した際の記録『環海異聞』などがある。 大槻三賢人 [編集 ]• 27-28• 岡田俊裕 2011年 208ページ• - 宮城県• 関(2008)p. 175• Lorenz Heister の外科書の翻訳。 文政8年(1825年)完成。 『ダ・ダ・スコ』p25-29 関連文献 [編集 ]• 『大槻玄沢の研究』(洋学史研究会編、、1991年)• 『、その江戸と北陸 大槻玄沢と長崎浩斎』( 1993年)• 『槻弓の春 大槻玄沢の横顔』(大島英介、、1999年)• 『遂げずばやまじ 日本の近代化に尽くした大槻三賢人』(大島英介、、2008年)• 『大槻三賢人』(阿曽沼要、高橋印刷株式会社、2005年)• 『磐水存響 乾・坤』(大槻茂雄編 思文閣出版 1991年)、編者は子孫。 『環海異聞』(志村弘強編/池田晧訳、海外渡航記叢書 1989年)• 『初めて世界一周した日本人』(、、1993年)、詳しく紹介した章がある。 岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典[ 近世編 ]』 2011年 ISBN 978-4-562-04694-2 出典 [編集 ]• 『只野真葛』、2008年11月。 ISBN 4-642-05248-8 外部リンク [編集 ]• (コトバンク).

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