枕草子 特徴。 清少納言の枕草子について...

にげなきもの

枕草子 特徴

中学を卒業してから20年近くが経ちました。 今でも清少納言の枕草子の 「春はあけぼの〜」という文章を覚えています。 中学生にとって清少納言の枕草子は 意味はよく分からないけど 皆が知っている的な存在ですよね。 枕草子は書かれてから 瞬く間に平安時代の貴族にとっても ベストセラーになったんですよ。 その理由は枕草子が明るくて 毒舌で言いたいことがザバサバ 書かれているからです。 今までよく分からなかった枕草子を 新鮮な気持ちで読めると思います。 枕草子の作者・時代背景は?枕草子の特徴を簡単解説! 清少納言の父親は清原元輔です。 父親も祖父も才能ある有名な歌人でした。 清少納言は超インテリ一家に誕生したのです。 小さい頃から和歌や漢字の 英才教育を受けていたそうです。 当時漢字を学ぶのは大半が男性で 女性は珍しかったそうです。 清少納言は平安時代の女性には 大変珍しいタイプだったんです。 この時代は女性は従順でおとなしいのが良いと されていました。 結婚した男性とは一生を添い遂げるのが 当たり前の時代だったんですね。 ところが清少納言は15歳の時に結婚し 男の子をもうけたのですが 10年後に離婚しているのです。 離婚の理由は「性格の不一致」です。 当時にとっては大変斬新な離婚理由です 清少納言は離婚後にすぐに再婚し 今度は女の子を出産しました。 男の子も女の子も成長し歌人になっています。 その後、清少納言は頭の良さが認められ 宮中に一条天皇の妻である定子様の 教育係として招かれました。 27〜29歳くらいの時のようですね。 さて定子様にお仕えする 教育係としてやってきた清少納言でしたが かなり異色のタイプだったようです。 清少納言は平安時代の宮中にいる女性とは かなりタイプが違いましたからね。 男性にはモテモテだったとの噂もあります。 清少納言の特徴を簡単にまとめました。 ・宮中で一番頭が良い ・明るく男勝りの性格 ・鋭い観察力でズバズバとしたものの言い方をする この性格は宮中の男性には好評でした。 お仕えしていた定子様にも かわいがられたそうです。 ところが宮中に仕える女性達からは 妬みやひがみをかってしまいました -. -; 清少納言はなんとイジメにあってしまうんです。 そして清少納言は心を病んで里に帰ってしまいます。 そんな清少納言に定子様が 「好きな文章を書いてみたら?」と 高級品である紙を送ったそうです。 その紙に宮中での定子様との生活を綴ったのが 枕草子だと言われています。 清少納言の性格や時代を理解してから読むと 枕草子は面白いですよ〜 スポンサーリンク 枕草子作者「清少納言」から習える美学とは? 私達は清少納言から どんな事を学ぶことが出来るのでしょうか? 枕草子からは 「どんな環境にあっても 明るく前向きに生きることの大切さ」を 学ぶことができます。 でも清少納言は定子様から贈られてきた紙に 恨みつらみや愚痴は一切書きませんでした。 その紙に清少納言は定子様と過ごした日常を 明るく楽しくつづりました。 楽しく読めるエッセイとして完成すると 瞬く間に宮中の貴族に人気が広まったそうです。 今まで見えなかった 新発見がたくさんあるはずです。 最後までお読みいただきありがとうございました。

次の

『源氏物語』と『枕草子』の「あはれ」と「をかし」を数えてみました

枕草子 特徴

スポンサーリンク 枕草子とは? 『 枕草子 まくらのそうし 』は、平安時代の中頃に 清少納言により執筆されたといわれる随筆です。 もともとは、「まくらそうし」と呼ばれていました。 枕草子は、『源氏物語』と並んで平安時代の文学を代表する作品で、、後の俳諧や仮名草子 かなぞうし に大きな影響を与えたといわれています。 では、枕草子について詳しくみていきましょう。 枕草子の冒頭 原 文 春は、あけぼの。 やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて、 紫だちたる雲の 細くたなびきたる。 現代語訳 春は、夜が明ける頃 がいい。 だんだんと白くなっていく 山際が少し明るくなり、 紫がかった雲が 細くたなびいている のがいい。 作者 清少納言 せいしょうなごん=966年頃~1025年頃 は、平安時代の歌人、作家であり、博学で才気あふれる女性であったといわれています。 「清少納言」は女房 にょうぼう=貴族の侍女 としての名前で、 清は「清原」という姓に由来しますが、 少納言の由来は不明です。 実名が「諾子 なぎこ 」という説もありますが、実証されてはいません。 ライバルが『源氏物語』を書いた 紫式部 むらさきしきぶ であったといわれますが、2人は面識がなかったというのが現在では定説になっています。 成立時期 跋文 ばつぶん=あとがき には、996年頃に源経房 みなもとのつねふさ が作者の家から初稿を持ち出して世に広めたと記載されています。 しかし、その後も加筆されていたと考えられています。 スポンサーリンク 方丈記とは? 『 方丈記 ほうじょうき 』は、鎌倉時代に 鴨長明 かものちょうめい が執筆したもので、中世文学の代表的な随筆とされています。 方丈記の冒頭 原 文 ゆく河の流れは絶えずして、 しかももとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、 かつ消えかつ結びて、 久しくとどまりたる ためしなし。 現代語訳 川の流れは絶えることがなく、 しかも元の水ではない。 淀みに浮かんでいる泡は、 一方で消えては 他方で生じたりと 長い間そのままでいることは ない。 作者 鴨長明 かものちょうめい、かものながあきら=1155年~1216年7月26日 は、平安時代末から鎌倉時代にかけての歌人で、随筆家といわれることもあります。 神職において出世が叶わなかったことから出家して閑居しました。 出家してからは「連胤 れんいん 」という名前を名乗りましたが、俗名を音読みした 鴨長明 かものちょうめい の名前で知られています。 成立時期 方丈記の末尾に「于時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これをしるす」と書かれていることから、1212年 建暦2年 に成立したとされています。 特徴 仮名と漢字の混じった 和漢混淆文 わかんこんこうぶん で書かれた文学作品としては最初のものです。 冒頭で移りゆくもののはかなさを、その後に生きた時代の災厄を、後半では草庵での生活について記述しています。 これらの内容から、「 無常観の文学」「 隠棲文学の祖」ともいわれます。 徒然草とは? 『 徒然草 つれづれぐさ 』、 吉田兼好 (よしだけんこう=兼好法師、兼好、卜部兼好)が書いたとされている随筆です。 執筆後の約一世紀は注目されませんでしたが、江戸時代になってから親しみやすい古典文学として愛読されるようになり、その後の文化に大きな影響を与えました。 徒然草の冒頭 原 文 つれづれなるままに、 日ぐらし硯に向かひて、 心にうつりゆく よしなしごとを そこはかとなく書き付くれば、 あやしうこそ物狂ほしけれ。 現代語訳 やることもなく手持無沙汰に、 一日中硯 すずり に向かって、 心に浮かんでは消える とりとめもないことを これといったつもりもなく 書いていると、 何ともおかしくなってしまう 作者 吉田兼好 よしだ けんこう は、鎌倉時代の末から南北朝時代にかけての官人で、歌人、随筆家です。 本名は卜部兼好 うらべ かねよ、うらべのかねよし です。 出家したことから兼好法師 けんこうほうし とも呼ばれ、兼好ということもあります。 一般には1283年 弘安6年 頃に生まれ、30歳前後で出家したとされています。 しかし、その生涯について明らかでない部分もあります。 成立時期 徒然草の成立時期については多くの説があります。 主流となっているのは、鎌倉時代末の 1330年8月~1331年9月頃にまとめられたとする説です。 しかし確証はなく、 兼好が書いたことを疑う説もあります。 特徴 序段を含め244段からなる徒然草の内容は多岐にわたっています。 これは、兼好が歌人、能書家、古典学者などであったことによります。 また、仁和寺 にんなじ に関した説話が多く含まれています。 和漢混淆文と仮名文字中心の和文が混在していて、文学上は 隠者文学の一つに位置付けられています。

次の

清少納言の作品【枕草子】とはどんなモノなの?わかりやすくカンタンに!

枕草子 特徴

定子の父親である藤原道隆は、関白として天皇に代わり権力を握っていました。 これが摂関政治です。 道隆が亡くなると定子の叔父が関白職を継承。 しかしその叔父も急死してしまいます。 そこで政権は藤原道長に移行。 有力な後ろ盾を失った定子は、一条天皇の后という立場であるにも関わらず、宮中で居場所を失ってしまうのです。 次々と不幸にみまわれた中宮定子は出家することに。 このとき定子は一条天皇の子供を身ごもっていました。 子供を産んだ定子は、一条天皇の強い願いで宮中に帰ります。 しかし、定子の境遇は以前のように恵まれたものではありませんでした。 摂関政治で栄華をほこる藤原道長との勢力争いに敗れた立場を象徴するのが、まさに定子のサロンだったのです。

次の