ブロン中毒 芸能人。 僕が入院するまで

中島らも

ブロン中毒 芸能人

高校を卒業するまでは非常に順調で、卒業後も約3年ぐらいは真面目に勤めをしていました。 しかし、会社の方が合併とかいろいろな問題が重なりまして、本人も、「もう勤めるのがいやだ」というようなことで、その会社を退社しました。 そのころ、娘は千葉市の繁華街に住んでおりまして、仕事を探すにも事欠かなかったようですが、その中で人材派遣センターのようなところに勤めたんです。 その関係で、いろいろな売り子のようなことやコンパニオンなどを始めまして、友達も出来ました。 そのうち、同僚に 「悪いんだけれど、ちょっと店から出てブロンを買ってきてくれないか?」 と言う風なことから始まりまして、本人も愛用し始めたようです。 それから、深みにはまりまして、それでも私は全く気付かずに、今年の 6月ごろから「仙台ダルク家族会」に通い始めまして、それからやはり「娘は病気なんだ」と言う風なことを言われました。 それまでは、「薬なんて断ち切ることが出来るだろう」と思っていたんです。 娘はブロンの依存症。 私はニコチンの依存症ということで、1日20本ぐらいですが、家内にとっては非常に迷惑なことのようなうです。 私が仙台ダルク家族会に繋がるようになったきっかけは、東京から平成 6年に山形に越してきたんですけれど、山形へ越しまして、2年間ぐらいはまだ娘がブロンを愛用しているということには気が付きませんでした。 引越しのときに初めて、部屋の中から50本、60本の瓶を発見しまして、「それほど飲まなくてはならないものなのか?」と私は不思議に思いながらいました。 でも、まだその時点では娘も悪いこともせず、飲み続けていたんです。 それから、山形へ来まして、2年ぐらいたちまして、その2年間の間も就職活動をしたり、仕事も半年そこそこ続いたようですが、その中でやっぱり薬は止められずに続けていたようです。 あるとき、フラッと山形市街のデパートに行きまして、そこの薬売り場で初めて万引きをして、警察のお世話になりました。 その時点で、世間様に迷惑をかけるようなことを娘がやってしまったので、私も困ったんですが、警察は非常に簡単に釈放してくれるんですね。 まあ、窃盗ですが初犯ということだったんでしょう。 まあ、それが第 1回目の警察にお世話になった事件でした。 そして、そのとき警察の方に薬物依存に詳しい医者を紹介いただいたんです。 「山形では正直どうにもならない。 仙台に東北会病院というのがあるから、そういうところを紹介します。 」 とおっしゃってくれて、すがる思いで行きました。 ただ、警察へ本人の身柄のもらい下げなどは私も行きましたが、病院のほうの付き添いや手続きなどは、ほとんど家内に任せきりでした。 私は「病院に入院させて、病気が治ればいいんだろう」ぐらいにしか思っていませんでしたから。 簡単な二つ返事で、簡単に済むことだと思っていましたので、「薬物依存症」という病気に対する認識などは、私自身全くありませんでした。 娘が 36歳になるまで、異常なほどサラ金とか、あるいはお店からの借用金だとかというものもありました。 けれど、そういうものは私たち親がどうにかこうにか、お詫び方々負担してきてしまったんです。 仙台の東北会病院に入院させるまでは、確かに金銭的な面でも多少は余裕もあったんですが、徐々に私たちも底を付くようになってきまして、仙台の東北会病院に入院させるに当たっても、いろいろと病院のケースワーカーの方にも相談しました。 そして、その中で「仙台ダルク」を知ったんです。 まだ施設長さんも飯室さんではなかったころでした。 そのときから、娘は仙台のダルクにいろいろお世話になりまして、そこでも色々なことがありまして、仙台でも色々なことを起こしまして、現在は栃木県にある国の施設…刑務所の方に、来年までお世話になるという状況です。 親としては、「病気は治る」「治せる」と思っていたんです。 でも、家族会に参加するようになって、岩井さんのお話や、色々な方のお話を聞きながら、「治すことは出来ないけれど、本人が薬を止め続けて生きることは出来るんだ」ということ知り、私もそれからは本腰を入れて、家内にまかせっきりを少しでも補えるように、自分なりに勉強して、家内に負担を掛けっぱなしだった部分を、自分なりに一生懸命、負担を軽減させようかと思って家族会に通っています。 この先まだまだ、家族会の皆さんや仙台ダルクの皆さん。 色々な方面の色々な方々にもご迷惑をおかけすると思います。 娘の出所が近づくに連れて、また精神的な面でも悩みが出てくるんだろうというところが現在の気持ちです。 岩井さんの教え、家族会の仲間の教え、その中で家族、夫婦の仲は、非常に人も羨ましがるというと笑われるかもしれませんが、結構、仲の良い家族のつもりでおります。 今まで家内に苦労をさせた分、少しでも私自身恩返しが出来るように。 私自身も年ですから、いつ現在の仕事がお払い箱になるかというような状態なので、本腰を入れて、家族会の皆さんと一緒に勉強しながら、娘の行く末を眺めて行きたいと思っております。 ありがとうございました。 全国薬物依存症者家族連合会 2006〜.

次の

ブロン中毒の芸能人まとめ!オーバードーズODで死亡した有名人は?

ブロン中毒 芸能人

高校を卒業するまでは非常に順調で、卒業後も約3年ぐらいは真面目に勤めをしていました。 しかし、会社の方が合併とかいろいろな問題が重なりまして、本人も、「もう勤めるのがいやだ」というようなことで、その会社を退社しました。 そのころ、娘は千葉市の繁華街に住んでおりまして、仕事を探すにも事欠かなかったようですが、その中で人材派遣センターのようなところに勤めたんです。 その関係で、いろいろな売り子のようなことやコンパニオンなどを始めまして、友達も出来ました。 そのうち、同僚に 「悪いんだけれど、ちょっと店から出てブロンを買ってきてくれないか?」 と言う風なことから始まりまして、本人も愛用し始めたようです。 それから、深みにはまりまして、それでも私は全く気付かずに、今年の 6月ごろから「仙台ダルク家族会」に通い始めまして、それからやはり「娘は病気なんだ」と言う風なことを言われました。 それまでは、「薬なんて断ち切ることが出来るだろう」と思っていたんです。 娘はブロンの依存症。 私はニコチンの依存症ということで、1日20本ぐらいですが、家内にとっては非常に迷惑なことのようなうです。 私が仙台ダルク家族会に繋がるようになったきっかけは、東京から平成 6年に山形に越してきたんですけれど、山形へ越しまして、2年間ぐらいはまだ娘がブロンを愛用しているということには気が付きませんでした。 引越しのときに初めて、部屋の中から50本、60本の瓶を発見しまして、「それほど飲まなくてはならないものなのか?」と私は不思議に思いながらいました。 でも、まだその時点では娘も悪いこともせず、飲み続けていたんです。 それから、山形へ来まして、2年ぐらいたちまして、その2年間の間も就職活動をしたり、仕事も半年そこそこ続いたようですが、その中でやっぱり薬は止められずに続けていたようです。 あるとき、フラッと山形市街のデパートに行きまして、そこの薬売り場で初めて万引きをして、警察のお世話になりました。 その時点で、世間様に迷惑をかけるようなことを娘がやってしまったので、私も困ったんですが、警察は非常に簡単に釈放してくれるんですね。 まあ、窃盗ですが初犯ということだったんでしょう。 まあ、それが第 1回目の警察にお世話になった事件でした。 そして、そのとき警察の方に薬物依存に詳しい医者を紹介いただいたんです。 「山形では正直どうにもならない。 仙台に東北会病院というのがあるから、そういうところを紹介します。 」 とおっしゃってくれて、すがる思いで行きました。 ただ、警察へ本人の身柄のもらい下げなどは私も行きましたが、病院のほうの付き添いや手続きなどは、ほとんど家内に任せきりでした。 私は「病院に入院させて、病気が治ればいいんだろう」ぐらいにしか思っていませんでしたから。 簡単な二つ返事で、簡単に済むことだと思っていましたので、「薬物依存症」という病気に対する認識などは、私自身全くありませんでした。 娘が 36歳になるまで、異常なほどサラ金とか、あるいはお店からの借用金だとかというものもありました。 けれど、そういうものは私たち親がどうにかこうにか、お詫び方々負担してきてしまったんです。 仙台の東北会病院に入院させるまでは、確かに金銭的な面でも多少は余裕もあったんですが、徐々に私たちも底を付くようになってきまして、仙台の東北会病院に入院させるに当たっても、いろいろと病院のケースワーカーの方にも相談しました。 そして、その中で「仙台ダルク」を知ったんです。 まだ施設長さんも飯室さんではなかったころでした。 そのときから、娘は仙台のダルクにいろいろお世話になりまして、そこでも色々なことがありまして、仙台でも色々なことを起こしまして、現在は栃木県にある国の施設…刑務所の方に、来年までお世話になるという状況です。 親としては、「病気は治る」「治せる」と思っていたんです。 でも、家族会に参加するようになって、岩井さんのお話や、色々な方のお話を聞きながら、「治すことは出来ないけれど、本人が薬を止め続けて生きることは出来るんだ」ということ知り、私もそれからは本腰を入れて、家内にまかせっきりを少しでも補えるように、自分なりに勉強して、家内に負担を掛けっぱなしだった部分を、自分なりに一生懸命、負担を軽減させようかと思って家族会に通っています。 この先まだまだ、家族会の皆さんや仙台ダルクの皆さん。 色々な方面の色々な方々にもご迷惑をおかけすると思います。 娘の出所が近づくに連れて、また精神的な面でも悩みが出てくるんだろうというところが現在の気持ちです。 岩井さんの教え、家族会の仲間の教え、その中で家族、夫婦の仲は、非常に人も羨ましがるというと笑われるかもしれませんが、結構、仲の良い家族のつもりでおります。 今まで家内に苦労をさせた分、少しでも私自身恩返しが出来るように。 私自身も年ですから、いつ現在の仕事がお払い箱になるかというような状態なので、本腰を入れて、家族会の皆さんと一緒に勉強しながら、娘の行く末を眺めて行きたいと思っております。 ありがとうございました。 全国薬物依存症者家族連合会 2006〜.

次の

創価学会の芸能人・有名人総勢57名!意外なあの人も創価学会員だった?

ブロン中毒 芸能人

中島 らも 誕生 中島 裕之(なかじま ゆうし) ・ 死没 2004-07-26 (52歳没) 日本・兵庫県 職業 、、、 、など 言語 最終学歴 芸術学部放送学科 活動期間 - ジャンル 、、、 、台本、 代表作 『今夜、すべてのバーで』 『ガダラの豚』 『バンド・オブ・ザ・ナイト』 主な受賞歴 第13回 第47回 デビュー作 コラム:『明るい悩み相談室』シリーズ 小説:『頭の中がカユいんだ』 子供 中島 らも(なかじま らも、 - )は、の、、、プランナー、、、。 本名は 中島 裕之(なかじま ゆうし)。 の由来は、時代の、から。 活動当初は「羅門」「Ramon」「らもん」等のペンネームで雑誌にの投稿をしており、仲間内でも「らもん」を名乗っていたが「読者に名前を覚えてもらいやすいように」とに「らも」に改名した。 本稿では名の表記を、原則として「らも」で統一する。 社員の としてキャリアをスタートさせ、劇団・を主宰し、としても活動した ほか、自主的団体「全国まずいもの連盟」会長 を自称した。 一男一女の父で、長女は作家の。 経歴 [ ] 生い立ち [ ] 兵庫県尼崎市の国鉄(現)近く で、2人兄弟の次男として生を受ける。 後にらもは「躁鬱病は父親から、アル中は伯父から受け継いだ」と語っている。 父親は開業をしていた。 後のらもと同じく、父親も躁鬱病を患っていたといい、それに起因すると思われる奇行を度々繰り返していた(小学生だったらもに突然「裕ちゃん、今日は太陽が西から昇る」と言い出しそのまま入院する、自宅の庭にローラースケート場やプール を突発的に自作する、大量の砂糖を備蓄する、弓を始める、突然宗派を変えるなど)。 また伯父(父の実兄)は酒販店を経営していたが失敗して「浮浪者同然 」になり、泥酔して中島家に金の無心に来て断られては玄関先で暴れていたという。 に入学。 10歳の時、母親の勧めでに転入。 スポーツ嫌いで、友人の野球の誘いを断ってを読むような子供だったという。 また、将来は漫画家になりたいと思っていた。 成長につれ、を通じ、などのや、などの小説に親しむ。 学生時代 [ ] 名門進学校のに、約150人の全合格者中8位 の高成績で合格。 しかし、ある教師の一言から、自分を取り巻いている環境に幻滅し、「親や教師に言われるままの勉強 」になっていたことに気付いたらもは、灘中学校から在学中にかけ、以下の趣味に没頭した。 演奏および活動 14歳から16歳にかけて組んでいた最初のバンド名は、関西弁で「死んでしまえ」を意味する「ごねさらせ」であったという。 また、弾き語りでラジオ番組『』に出演し 、「ジンとクスリ 」という曲目を披露した。 同時にこのころ、アルバイトでのの弾き語り出演 や、大阪・の「課長」の専属 などを経験している。 投稿 24ページの長編劇画 で雑誌『』の新人マンガ賞の入賞が内定したものの、編集者に「長いのでページ数を半分にしてくれ 」と言われて「コンが尽き」、掲載を断念している。 本の そして、の『』 や、 に衝撃を受け、、、そしてにも手を出し始める。 これらの「悪さ 」のために、成績が急降下。 授業もテストも受けずに「番外地 」で灘高校を卒業することになった。 の受講生となるも、同校に顔を出したのは数回で、同校が所在するの繁華街・のやへと足繁く通うようになり、ジャズ喫茶にたむろする「フーテン」と共に、 、・ 、 に耽溺。 論、についてするなどして過ごす。 らもはこの頃のことを、「ずいぶんいろんな面白い体験をしてるはずなのだが」、将来に対するから「あまり覚えていない」「あまりに憂うつだったので、無意識に記憶を消し去ろうとしている」と述べている。 1年間のフーテン生活の後、らもはフーテン友達による芸術学部放送学科の受験に同行し、合格。 同校への入学を決める。 授業にあまり出なかったため、友人はほとんどおらず、何もせず芝生に寝転がり、トンビをながめたり 、構内に迷い込んできた犬の世話をする などして時間を潰していたという。 この頃から急に饒舌になったかと思うと、翌日には寡黙になる、といった不安定さを見せたという。 大学時代は高校在籍時から伸ばした髪が、腰まで届くほどのになる。 に大学を卒業。 のテーマは「放送倫理規定 」であった。 この間の、の学生だった(のち、のとなる )長谷部美代子と、三宮のジャズ喫茶「バンビ」で知り合い 、4年間の交際の末、 に結婚。 2LDKのアパート で新婚生活をスタートさせた。 らもは学生との兼業をこなしていたが 、夫人の妊娠のため、就職の必要が生じた。 しかし、らもは大学卒業間際になってもをしておらず、慌しくなる周囲を傍観しているだけであり、見かねたの叔父の紹介 により、 4月 、会社 の株式会社大津屋 に。 同社で5年間勤める。 営業マン時代 [ ] 大津屋入社後、数ヶ月で仕事のシステムを覚え、広告の制作・を担当。 新規開拓の飛び込み営業、受発注、、、の、、印刷ミスによると何でもこなした。 受け持った得意先は建築会社やボイラー会社などであった。 酒が強かったらもは、にやにお供として連れられ、日付が変わってからの帰宅がほとんどであった。 酒の席で社長が得意先の社員の頭を太鼓に見立てて叩いたのを見たらもは、「あんな奴でも社長になれるんや」と夫人にボヤいたという。 のある日 、会社で上司が経理の女子社員にを嗅がせ、泣かせたのを見て「この会社は長くない」と感じたらもは、取引先の社員 と一緒に雑誌『』主催のに通い、 、らに師事。 半年の受講で「一等賞」を8回受賞し、賞状と「の時計」をもらって講座を修了した。 この間、4月 に長男が誕生。 に長女を授かる。 「食うに困らないように 」との願いを込め、息子には「穂」、娘には「苗」の字を含めた。 ヘルハウス時代 [ ] 大津屋時代の、 に月2万7千円の30年 で一戸建ての邸宅を購入している。 5月 、「フリーのコピーライターで食っていく覚悟をきめ 」大津屋を退職。 その後、この宝塚の自宅は、「中島が暇らしい」と押しかけた友人知人の他に、「自称、、スキゾ、フーテン、、、、不良」のたまり場となり、学生時代の薬物遊びが再燃。 知り合いのからを入手してハイミナールを集めたり、酒やを飲んでヨタ話をしギターを弾いたり、夫婦で居候達とをしたりして過ごすうちに、この家は外国人らの間で「ドラッグが回ってくる家」として口コミで広がるなどし、やがて「ヘルハウス 」と呼ばれる。 ただ、この頃のらもはなどの違法薬物の持ち込みには厳しく、持ち込んだ者に対して「家族を巻き込むな! 」と叱責してもいる。 「ヘルハウス」の1ヶ月の累計宿泊者は、100人を超えた時もあり、の汲み取り口から排泄物が溢れそうになったという。 このほか、顔にを塗って夜の道路を徘徊したとか、に睡眠薬を飲ませたら翌朝、飼っていたが首だけになっていた 、といったエピソードが残っている。 このころの生活は、に出版された自伝的な小説『バンド・オブ・ザ・ナイト』の元になった。 また、「で一発、当てるつもりで 」ロックバンド・を結成。 仲間からレコーディング費用を集めるも、レコーディング直前に費用を女に騙し取られたため頓挫した。 コピーライター時代 [ ] 3月 、らもは藤島克彦の紹介での株式会社日広エージェンシーに再就職。 社長の宮前賢一は、藤島の時代の1年先輩に当たる人物で、卒業後も親交があった。 宮前はらもの灘中高卒業という経歴に惹かれ、「カバン持ちにして連れ回したら優越感にひたれる」という理由で採用を決めた。 日広エージェンシーはその年に設立されたばかりで、宮前をふくめ、経理の女性とらもの3人 しかいない会社であった。 宮前はらもをほぼ毎日、夜のに連れ出して飲み歩かせ、業務に関しては「なんぼ失敗してもええぞ。 全部責任はわしがとったる」と告げ、放任した。 らもはそんな宮前から「の切り方」を学んだという。 らもは当初、得意先を回る営業を担当した が、やがて自発的に広告・テレビ・新製品 の制作企画を兼務するようになり、のちに「企画課長」の肩書を与えられた。 あまりにも仕事が暇だった(自分で営業をかけない限り仕事がなかった)ため、から次の電柱まで歩く気力が無くなり「これはだ」と直感、最寄のに飛び込み、渋る医師を説得してを処方してもらうことで一旦したものの、依存を断ち切るために断薬し、症状を再発させている また、在籍末期には気味になり、・にあった支所(の一室)にこもって仕事をおこなった。 灘高校時代の同級生、村上健 が常務を務めていた(のちに代表取締役社長)、かねてつ食品(のちの)をに、雑誌『』に同社の広告シリーズとして『』を企画・制作。 らもは『啓蒙かまぼこ新聞』で準新人賞を受賞した。 同年、のあまりの下らなさに激怒したらもは、広告・CMのとして書き溜めていた台本を「成仏させるため」に用に書き直した。 このコント原稿はテレビ番組『』として結実した。 から大阪本社版日曜版「若い広場」で、独特のを交えたコーナー『』連載が始まる。 焼きじゃがいも事件 同連載において「祖母から焼きにをつけて食べると死ぬと言われたが事実か? 」との投書に「焼きじゃがいもに味噌をつけて食べた大多数の者が高確率でいずれに至る」とこの投書を事実であると回答。 「人間なのだから、焼きじゃがいもに味噌を付けたものを食べようが食べまいがいずれ死ぬのは当たり前」という意図での回答だったが、それを理解出来なかった読者から「好物なのに死ぬのか」「怖い」「に決まっている」と不安と疑問の声が寄せられる。 これらの投書にらもは「じゃがいもに味噌をつけて食べると確実に死ぬ。 誰も避けられない(但しその時期には「個人差」がある)。 」と火に油を注ぐ。 朝日新聞社側が事態収束のため焼きじゃがいもに味噌をつけて食べるようらもに迫り、折れたらもが実際に食して騒動は沈静化する。 6月 には、知人の関係するのあまりの下らなさに激怒して、「」を、キッチュ(現・)、、若木え芙(現・)、、、らと結成、執筆のほか、自ら出演もこなした。 作家活動 [ ] 、らもは宮前に独立を申し出て、快諾を受け、日広エージェンシーを退社 (宮前の回想では、宮前の側から独立を促したとしている )。 同年7月、「有限会社中島らも事務所」を設立 し作家活動を本格化させる。 宝塚の自宅には全く帰らなくなり、事務所で寝泊りするようになる。 、エッセイ、小説、、バラエティ番組の脚本やコントなどを、多数執筆する。 その「ひねくれたユーモア感覚」で、「独特のおかしさ」や「市井の奇人や奇現象」などを描き、多くの読者、ファンを獲得。 元来、責任感が強い上に営業マン時代のクセで依頼された仕事を片っ端から引き受けていたらもは「仕事を断る仕事」として女性を電話番に雇う。 多忙な人気作家となるも、飲酒や薬物の摂取がもたらす酩酊から着想を得ていたらもは、やがて連続飲酒を繰り返すようになる。 を自覚していたらもは極度の疲労感、食欲の減退、体重減少、嘔吐、失禁、異常な尿の色、を自覚するようになり、秋 、と診断され、大阪府内の病院に50日間入院。 後にこの体験を基に、小説『今夜、すべてのバーで』を書いている。 、単行本版『微笑家族』のあとがき において「広告屋としての自分は、正直に言ってあまりモノにならなかった」「雑文や脚本、小説、落語などを書いて口を糊しているが(略)広告屋の看板が降ろせない。 が、これは考えてみればどちらのフィールドの人にとっても気分の悪いことだろう」として、「コピーライターの看板を降ろす」と表明した。 同文章では、「僕は広告を信じない。 信じない人間に広告が作れるわけはない」ともしている。 晩年 [ ] 、かつて頓挫したPISSを再結成し、ボーカルとギターを担当。 その一方、リリパットアーミーを に「あほらしくなって 」退団している。 『バンド・オブ・ザ・ナイト』上梓後の一時期、処方されていた薬ののため目のかすみがひどくなり、自分で文字を書き、原稿を読み返すことに支障をきたすようになったため、夫人の手を借り、口述筆記で執筆をおこなった(のちに、らもの処方箋を見た歯科医の実兄が副作用が激し過ぎると教え、減薬を行い、本が読めるまで回復)。 また、持病のに加え、を発症。 これらの症状のため、時間概念の喪失、運動障害、躁状態がもたらす万能感からくる支離滅裂の言動がたびたび見られた。 減薬と入院治療により、ある程度の回復を繰り返すも、飲酒は続けていた。 2003年2月 に「で尻から煙が出るほど大麻を吸ってきた」と大阪のラジオ番組で公言。 この数日後、 に違反、違反で。 この時の家宅捜索で、大麻のほか、から干からびたが見つかる。 での初公判ではから自重するよう求められていたにも関わらず持論の「大麻開放論」を展開。 同年5月26日に10ヶ月、3年の判決を受ける。 同年の夏、自らの獄中体験をつづったエッセイ『牢屋でやせるダイエット』を出版、姿でサイン会を開くなど精力的に活動を再開した。 7月15日 、神戸市内で行われた、のライブに飛び入り参加。 終演後に三上寛と酒を酌み交わし別れた後、翌16日未明、飲食店の階段から転落して全身と頭部を強打。 による外傷性脳内のため神戸市内のに入院、15時間に及ぶ手術を行うも、脳への重篤なダメージにより深刻な状態が続き、自発呼吸さえ出来ない状態に陥る。 入院時から意識が戻ることはなく、事前の本人の希望 に基づき、を停止。 同月26日 8時16分死去。 52歳没。 死後 [ ] 故人の生前の希望で葬式は身内と近親者のみでとして行われた。 遺骨は夫人の手でされ 、墓は建てていない。 同年12月に中島らも事務所閉所。 親交のあった人物らによる追悼イベントがたびたび行われている()。 作風・執筆傾向 [ ]• 敬愛する作家について、、、、、、などを挙げている。 一番好きな作家はだという。 ヘロインによる影響下で書かれたバロウズの『』に触発され、らもは『頭の中がカユいんだ』を泥酔状態で書き上げた [ ]。 著作 [ ] 広告 [ ] 新聞広告• おせち料理用練り物(1983年 - 1984年) [ ]• 「父の日」全面広告 - 神戸新聞広告賞受賞 雑誌広告• 『』() - TCC賞準新人賞、OCC賞受賞• 『微笑家族』() テレビCM企画構成• おせち料理用練り物(1983年 - 1984年)• はも板• クラブスティック• ほたて風味フライ• [ ]• 「すくすく編」• 大島屋 [ ]• 大島屋のり• [ ] キャッチコピー• 映画『』 「こんなヒーロー見たことない! 空飛べない。 変身しない。 でも、イザとなったら卑怯者! ハッタリかまして泣く子も笑う、ニューヒーローの誕生だ!! 市制70周年記念 「ぼくがすきな まちをすきな きみがすき」 [ ] 放送番組構成 [ ]• () 単著 [ ] 詩集• 限定復刊版(文藝春秋 2000年12月 ) 広告集• 啓蒙かまぼこ新聞( 1987年12月)• 微笑家族(ビレッジプレス 1991年8月)• ネリモノ広告大全 ちくわ編 (双葉文庫 1996年7月 )• ネリモノ広告大全 ごぼてん編 (双葉文庫 1996年7月 )• 定本 啓蒙かまぼこ新聞( 2008年8月 )• 株式会社日広エージェンシー企画課長中島裕之(双葉社 2005年7月 ) 同社に保存されていた上記広告などの企画書および、テレビCMの絵コンテ(不採用作品を含む)集。 エッセイ• 舌先の格闘技 必殺へらず口大研究( 1986年7月)• 舌先の格闘技(改題新版 アニマ2001 1990年3月)• 1996年10月• 中島らものたまらん人々( 1987年8月)• 1991年8月• 双葉文庫 1995年11月• 2009年4月• 恋は底ぢから( 1987年10月)• 1992年7月• 獏の食べのこし(宝島社 1989年3月)• 集英社文庫 1993年1月• 僕に踏まれた町と僕が踏まれた町( 1989年6月)• 増補版 1994年7月• 集英社文庫 1997年8月• ( 1989年11月)• 双葉文庫 1995年11月• ビジネス・ナンセンス事典( 1990年4月)• 新版(講談社 1993年6月)• 集英社文庫 1998年3月• しりとりえっせい( 1990年12月)• 講談社文庫 1993年12月• とほほのほ(双葉社 1991年2月)• 双葉文庫 1995年11月• こらっ( 1991年4月)• 集英社文庫 1994年2月• 西方冗土 カンサイ帝国の栄光と衰退( 1991年7月)• 集英社文庫 1994年7月• 愛をひっかけるための釘( 1992年5月)• 集英社文庫 1995年7月• 僕にはわからない( 1992年12月)• 双葉文庫 1995年11月• 空からぎろちん(双葉社 1995年2月)• 双葉文庫 1999年6月• アマニタ・パンセリナ(集英社 1995年12月)• 集英社文庫 1999年3月• 固いおとうふ(双葉社 1997年7月)• 双葉文庫 2000年5月• エキゾティカ(双葉社 1998年5月)• 双葉文庫 2002年1月• さかだち日記(講談社 1999年4月)• 講談社文庫 2002年5月• 砂をつかんで立ち上がれ( 1999年11月 )• 集英社文庫 2003年9月• とらちゃん的日常( 2001年10月)• 2004年2月• 世界で一番美しい病気( 2002年6月 )• 心が雨漏りする日には( 2002年10月)• 2005年6月• 牢屋でやせるダイエット(青春出版社 2003年7月)• 青春文庫 2005年6月• 休みの国(講談社 2003年9月 )• 講談社文庫 2006年8月• ロバに耳打ち(双葉社 2003年10月)• 双葉文庫 2005年7月• 異人伝 中島らものやり口( 2004年6月 )• 講談社文庫 2007年6月• 人生のエッセイ 中島らも その日の天使( 2010年6月 ) 小説• 頭の中がカユいんだ( 1986年2月)• 徳間文庫 1990年2月• 双葉文庫 1995年11月• 集英社文庫 2008年1月• 中島らものぷるぷる・ぴいぷる 異能作品集( 1988年12月 )• ぷるぷる・ぴぃぷる(集英社文庫 1995年3月 )• ( 1989年12月)• 集英社文庫 1993年6月• ( 1990年8月)• 1993年3月• 今夜、すべてのバーで(講談社 1991年3月)第13回、第10回大賞特別大賞受賞• 講談社文庫 1994年3月• 人体模型の夜(集英社 1991年11月)• 集英社文庫 1995年11月• ガダラの豚( 1993年3月)第47回受賞• 文庫版1 (集英社文庫 1996年5月 )• 文庫版2 (集英社文庫 1996年5月 )• 文庫版3 (集英社文庫 1996年5月 ) アフリカ・シーンのモデルは、人類学者ので、長島は当作の文庫版の解説も書いている。 (講談社 1994年8月)• 講談社文庫 1997年8月• 永遠(とわ)も半ばを過ぎて(文藝春秋 1994年9月)• 文春文庫 1997年9月• 水に似た感情(集英社 1996年9月)• 集英社文庫 2000年5月• (講談社 1998年10月)• 講談社文庫 2001年10月• バンド・オブ・ザ・ナイト(講談社 2000年5月)• 講談社文庫 2004年2月• 空のオルゴール( 2002年4月 )• 新潮文庫 2005年1月• こどもの一生(集英社 2003年12月 )• 集英社文庫 2006年7月• 酒気帯び車椅子(集英社 2004年12月 )• 集英社文庫 2008年7月• ロカ(実業之日本社 2005年4月 )• 講談社文庫 2014年7月• 君はフィクション(集英社 2006年7月 )• 集英社文庫 2009年7月 コント・戯曲• X線の午後( 2001年8月 )• 中島らも戯曲選 1 こどもの一生/ベイビーさん( 2011年11月 ) 新作落語集• らも咄(角川書店 1991年12月)• 角川文庫 1994年10月• らも咄2(角川書店 1993年5月 )• 牛乳時代 らも咄(角川文庫 1996年5月 ) 対談集 共著者は括弧内。 訊く(講談社 1996年4月)• 講談社文庫 1999年5月 )• 逢う(講談社 1996年9月)• 講談社文庫 1999年8月 、チチ松村、、、、松尾貴史、、と。 イッツ・オンリー・ア・トークショー(鮫肌文殊、メディアファクトリー 2003年3月 ) ガンジー石原、、、松尾貴史、、、野坂昭如と。 It's Only a Talkshow 2 ひそひそくすくす大爆笑(鮫肌文殊、メディアファクトリー 2004年2月 ) 、、、、、、と。 なれずもの( 2004年10月 )• 2015年1月 、、、、本上まなみ、松尾貴史と。 It's Only a Talkshow 3 中島らもの誰に言うでもない、さようなら(鮫肌文殊、メディアファクトリー 2005年3月) 、、、、ガンジー石原、松尾貴史、、大槻ケンヂと。 明るい悩み相談室シリーズ• 中島らもの明るい悩み相談室( 1987年1月)• 1996年7月• 中島らものもっと明るい悩み相談室(朝日新聞社 1988年12月)• 朝日文芸文庫 1996年7月• 中島らものさらに明るい悩み相談室(朝日新聞社 1990年9月)• 朝日文芸文庫 1996年8月• 中島らものますます明るい悩み相談室(朝日新聞社 1991年10月)• 朝日文芸文庫 1996年9月• 中島らものばしっと明るい悩み相談室(朝日新聞社 1992年10月)• 朝日文芸文庫 1996年10月• 中島らものつくづく明るい悩み相談室(朝日新聞社 1994年1月)• 朝日文芸文庫 1996年11月• 中島らものやっぱり明るい悩み相談室(朝日新聞社 1995年6月)• 朝日文芸文庫 1996年12月• 中島らもの特選明るい悩み相談室 その1・ニッポンの家庭篇(集英社文庫 2002年8月 )• 中島らもの特選明るい悩み相談室 その2・ニッポンの常識篇(集英社文庫 2002年9月 )• 中島らもの特選明るい悩み相談室 その3・ニッポンの未来篇(集英社文庫 2002年11月 )• 中島らもの置き土産 明るい悩み相談室(朝日文庫 2013年7月 ) その他の作品集• あの娘は石ころ(双葉社 1999年6月)• 双葉文庫 2002年4月 歌詞集、エッセイおよび戯曲『ハードロックじじい』収録。 何がおかしい 笑いの評論とコント・対談集( 2006年8月 ) 対談集は、、と。 付属CDには、未放送となった『の対談番組』中島らも出演の2回分が収録。 ポケットが一杯だった頃 単行本未収録原稿〈エッセイ、対談集〉(白夜書房 2007年7月 )• 対談集は、、、、と。 付属CDには、『中島らもの月光通信』のラジオコント30本が収録。 オムニバス• 輝きの一瞬 短くて心に残る30編(、) - 『ココナッツ・クラッシュ』を収録。 日本の名随筆 別巻78 毒薬(、) - 自著の『哀しみの鋳型』の他、25人の随筆を収録。 他メディア化作品 [ ] 映画化• Lie lie Lie(1997年、東映、原作「永遠も半ばを過ぎて」) 監督: 出演:、、• (2004年、シネカノン)• (2006年、角川映画) テレビ化• 真・中島らも劇場 掌(1996年、、原作「人体模型の夜」) 監督: 出演:、、• 「日の出通り商店街いきいきデー」(2008年4月、) 監督: 出演:、、 漫画化• ガダラの豚(2000年、双葉社、・画、1巻:、2巻:、3巻:) 共著 [ ]• なにわのアホぢから(関西人撲滅協会編集、ひさうちみちお・鮫肌文殊、 1986年3月 )• 復刻版(講談社 1992年6月 )• 講談社文庫 1995年5月• (大阪オールスターズ編、チャンネルゼロ編集、JICC出版局 1988年8月)• じんかくのふいっち(、 1992年9月)• 双葉文庫 1996年10月• 流星シャンハイ(、双葉社 1994年12月 )• じんかくのふいっち2(わかぎえふ、マガジンハウス 1996年1月)• 双葉文庫 1999年6月ISBN 4575711330• リリパット・アーミー(わかぎえふ、角川書店 1995年12月)• リリパット・アーミー しこみ篇(角川文庫 1999年1月 )• リリパット・アーミー ばらし篇(角川文庫 1999年1月 )• しりとり対談(ひさうちみちお、講談社文庫 1997年5月 )• その辺の問題(、1998年2月 メディアファクトリー)• 角川文庫 2001年4月• 新潮文庫 2013年9月• 名作コミックを読む(他25名、 1998年7月 )• 夢見るごもくごはん(中島らも事務所編、チチ松村・ひさうちみちお他、双葉社 1999年6月 )• クマと闘ったヒト(、メディアファクトリー 2000年8月 )• らもチチ わたしの半生青春篇(チチ松村、講談社 2001年12月)• 講談社文庫 2004年11月• らもチチ わたしの半生中年篇(チチ松村、講談社 2002年2月)• 講談社文庫 2004年11月• 探偵が行く(、文藝春秋 2003年10月 ) 出演 [ ] テレビ• (読売テレビ)• (読売テレビ) - 司会、コント出演• (読売テレビ)• 「」(・制作)• () - チチ松村()と共演• (朝日放送) - 特別顧問として数回ゲスト出演• (NHK大阪)• シリーズ 逆境からの脱出「酒に呑まれた日々 中島らものアルコール格闘記」(NHK教育)• 「メキシコ・グアテマラの旅 中島らも」()• 「マンガが時代を映してきた 60年代から90年代へ」 第1回 カウンター・カルチャーの旗手たち 「カムイ伝」の衝撃(NHK教育)• () ラジオ• (1984年 - 1988年、)• サウンドライン ラジウム音線(エフエム大阪)• 中島らも事務所プロデュース・眠れるラジオ(1992年 - 1993年、エフエム大阪)• らもチチ魔界ツアーズ(1997年 - 2000年、・)• () - ゲスト出演• らもチチ魔界クルーズ(2000年 - 不明、) 映画• (1985年、) - チンピラ役• (1998年、) - 木村伝兵衛役• お父さんのバックドロップ(2004年、シネカノン) - 散髪屋役 音楽活動 [ ] ライブ• 1997年• 4月6日:のオープニングアクト• 4月25日:「」• 5月3日:「春一番」• 1999年• 5月5日:「春一番1999」• 12月31日:カウントダウン• 2000年• 5月4日:「春一番2000」• 6月3日:サナエProdused「Flying Tackle!! 」PISS出演• 11月6日、10日:CD「PISS FACTORY」発売記念ライブ• 2002年• 5月4日:「春一番2001」• 5月5日:「春一番2002」• 5月18日:電車• 8月3日:MOTHER'S BOYS、大阪・ハードレインにて初ライヴ• 第一回ゲスト:、第二回ゲスト:大槻ケンヂ、第三回ゲスト:ムッシュかまやつ• 10月16日:「伝説とピック」怒濤のギターライブ• 2003年• 8月27日:大槻ケンヂLIVE『プライベート・アンプラグド』• 10月4日:BONE IDOL発売記念『空が落ちる日』〜おまえらをすすってやる〜 バンド [ ]• PISS(、、、、)• MOTHER'S BOYS(、、、)• FATHER'S GIRLS(、、、) 評伝 [ ]• 中島らも烈伝(、 2005年1月 ) - 著者はフランス文学者、翻訳家。 らもとは学生時代からの友人で、らもの著作に「エス」「鈴木」「sou」という名で登場している。 KAWADE夢ムック 別冊文藝 中島らも(河出書房新社 2005年2月 )• 中島らも Rockin' Forever(白夜書房 2005年10月 )• らも 中島らもとの三十五年(中島美代子、集英社 2007年7月 )- 中島らもと連れ添った未亡人の回想録。 中島らもについて( 2008年2月)• らぶれたあ オレと中島らもの6945日 鮫肌文殊 講談社 2016年11月23日 追悼イベント [ ]• 2004年• 8月27日:大槻ケンヂLIVE『プライベート・アンプラグド』• 10月14日:中島らも追悼ライブ• 「うたっておどってさわいでくれ〜RAMO REAL PARTY〜」 2014年7月に『中島らもメモリアルWEEK 2014』と題して親交のあった芸能関係者を招いたコント、朗読会、トークショー、音楽ライブ、落語会、らも原作・出演の映画上演会などが行われた。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 『あの娘は石ころ』(双葉文庫)p. 108では1975年としている。 の殺虫剤「キンチョール」の「トンデレラ・シンデレラ」などで知られる大阪支社所属のコピーライター。 ので死去。 大津屋はらもの退社後約1年で倒産したという。 『株式会社日広エージェンシー企画課長中島裕之』には、味の異なるディップを穴に注入して噛むチューイングガム「ティップ・リップ」(pp. 49-54)や、風呂に浮かべて湯沸かしアラームとして使えるビニール風船の人形「おふろワラシ君」(p. 6)などの、日広で保存されていた企画書原稿が掲載されているが、宮前によればいずれも採用に至らなかった。 、は、うつ病の治療薬からリタリンを除外している。 夫人の証言によれば、本人は生前から「俺は階段から落ちて死ぬ」「植物状態になったら、すぐに殺してほしい」と語っていたという。 なお、らもは生前、「遠からず死ぬな、と思っていた。 それも、ラリって階段から転げ落ちるか何か」と書いている。 出典 [ ]• 252-267. , p. 140. 中島らも 『逢う』 講談社〈講談社文庫〉、1999年8月、筒井康隆との対談より。 『とほほのほ』(双葉文庫)、『のほほん行進曲』(文春文庫)内の東海林とらもの対談など。 美食を追求する風潮に抵抗し、飲食店として致命的な不味さの料理を愛でて批評する会。 会員は発起人の本人のみであった。 18-19. 54-55. 48-51. 184. , pp. 32-34. , pp. 37-38. 71-73. , pp. 174-176. , pp. 178-182. , pp. 144-146. , p. , p. , p. , p. 188. , pp. 134-148. , pp. 16-26. , pp. 149-161. , p. 190. , pp. 202-211. , p. 214. , p. 222. 227-228. 4-5. 103-105. 134-137. , pp. 220-223. , p. 106. , pp. 96-97. , p. , pp. 37-38. 中島美代子 『らも 中島らもとの三十五年』 集英社、2007年7月。 [ ]• 『人生情報バラエティ「R30」』(2008年2月放送分)より。 10-17. , p. 146. 22-27. , pp. 27-29. 152-153. 中島らも 『啓蒙かまぼこ新聞』 ブレッジプレス版 [ — ]、p. , p. 86-94. 中島らも 『微笑家族』 ビレッジプレス、1991年9月、180-181頁。 , p. 141. , p. 159. , p. , p. 147. 企画書、絵コンテおよび宮前賢一のインタビュー. 参考文献 [ ]• 中島らも『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』朝日新聞社〈朝日文芸文庫〉、1994年7月、増補版。 中島らも『アマニタ・パンセリナ』集英社、1999年3月。 中島らも『あの娘は石ころ』双葉社〈双葉文庫〉、2002年4月。 中島らも『株式会社日広エージェンシー企画課長中島裕之』双葉社、2005年7月。 中島らも『異人伝』講談社〈講談社文庫〉、2007年6月。 関連項目 [ ]• - 候補になった『人体模型の夜』『ガダラの豚』『永遠も半ばを過ぎて』の3作で選外。 作風が当時の選考委員の好みに合わなかったことが一因と言われ、らもは事務所の社員から「オッチー」というあだ名を授かった。 関連人物• - らもの大麻入手を幇助。 ともに有罪判決を受ける。 - コントを共同制作。 - コントを共同制作。 - 俳優、ミュージシャン。 ライブでらもの曲「いいんだぜ」をカバー。 オリジナルの歌詞が過激なため、一部改変している。 - 作家。 ライブで共演。 のちにアルバムでらもの曲「kyoko」をカバーしたほか、追悼ライブにも出演。 - ギタリスト。 ライブで共演。 - コントを共同制作。 外部リンク [ ]• - らもの緑内障に対しての治療目的での大麻所持に関する裁判記録等• RAMOoffice -•

次の