小田原 城 城主。 小田原城の歴史を簡単に!北条が残した総構が際立つ名城!

小田原城の歴史|北条氏の本拠、巨大要塞

小田原 城 城主

北條氏政 は、1538年、相模の北条家第3代当主・ 主 の次男として生まれた。 母は の娘 瑞渓院 で、1535年頃に の正室となっていた。 兄・新九郎がいたが、夭折したために 政が世子となり、北条新九郎氏政と名乗った。 他の通称は左京大夫。 隠居後は相模守、截流斎と号している。 1554年12月、父・北条氏康が ・ と甲相駿三国同盟を成立させると、武田信玄の娘・黄梅院を正室に迎えた。 黄梅院は、僅か12歳で北条氏政16歳に嫁いだが、その輿入れ行列は、武田家臣の小山田有信が取り仕切り、10000人もの供が付き従って国境の上野原付近まで警護したが、大変豪華であったと伝えられている。 なお、夫婦仲は極めて良好であったとされる。 1559年、父・北条氏康 45歳 が北条氏政 22歳 に家督を譲った。 これは永禄の飢饉で疲弊した関東を救う為 不満が続出した為? 、 の実施する為に、代が変わったと言うお祝い事 責任を取った形 にする狙いがあったようだ。 北条家は民意を重視している為、検地や徳政を行うためなどの内政事情によって代替わりすることは、北条家の手法と言える。 その為、北条氏康は、家督を譲った後も、小田原城の本丸にて「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握し続け、北条氏政を後見した為「ニ御屋形」「御両殿」と呼ばれた。 この時、北条氏政は「小田原衆所領役帳」をまとめた家臣管理や検地を行い、6月には貨幣法ともいうべき代物法度を改定して、精銭と地悪銭の法定混合比率を7対3に確立するなど、民政面でも能力を発揮した。 北条家には「家臣や民を慈しみ、人心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように」 という家訓が代々伝わっていたのも大きいだろう。 1560年5月、 で今川義元が討たれると、越後の は8000にて関東に侵攻した。 名目上は を奉じて侵攻したのだが、各地で略奪行為をしているので、飢饉に耐えかねて、食糧確保の為侵攻したと言える。 上杉謙信は、小川城・ ・明間城・ ・岩下城・白井城・那波城・ など北条方の諸城を次々に攻略。 上総の の本拠地・ を囲んでいた北条氏康は、包囲を解いて9月に に出陣し、10月には松山城に入って籠城した。 上杉謙信は厩橋城にて年越したが、破竹の勢いに関東の諸将は次々に味方した。 下記参照 上野の白井長尾氏、惣社長尾氏、箕輪長野衆、沼田衆、岩下斎藤氏、金山横瀬氏、桐生佐野氏。 下野の足利長尾氏、小山氏、宇都宮氏、佐野氏。 下総の簗田氏、小金高城氏。 武蔵の忍成田氏、羽生広田氏、藤田衆、深谷上杉氏、岩付太田氏、勝沼三田氏。 常陸では、 、真壁氏、下妻多賀谷氏、下館水谷氏。 安房の里見氏。 上総の東金酒井氏、飯櫃城山室氏。 遅れて佐竹氏が参陣。 北条家側は上野の館林赤井氏、武蔵の松山上田氏。 下野の那須氏。 下総の結城氏、下総守護千葉氏、臼井原氏。 上総の土気酒井氏。 常陸の大掾氏が協力。 しかし、野戦は不利と判断し、 に を配置し、 ・河越城には北条氏堯、 ・ ・由井城に 、 に 、 は内藤康行が守備した。 年が明けた1561年、上杉謙信は10万とも言われる大軍で上野国から武蔵国へ進撃。 2月には松山城と が攻略され、3月3日までには 市の当麻に上杉勢の先鋒が着陣。 上杉謙信、 、 、小山秀綱、里見義弘、 、那須資胤、 、 、成田長泰らは3月下旬頃には小田原城を包囲し、小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢を仕掛け、北条氏は窮地に陥った。 しかし、上杉家に味方した関東諸将も、飢餓に苦しんでおり兵糧が不足。 小田原城の防衛も優れていた事や、佐竹氏など諸豪族が撤兵を要求し、一部の豪族は勝手に陣を引き払う事態にまでなった事から、上杉謙信は小田原城から撤退して鎌倉に入った。 鎌倉では閏3月に にて への就任式を断行している。 その後、武田信玄に扇動された一向一揆が越中で蜂起したこともあり、上杉謙信は各地で略奪・放火を行いながら、6月に越後国へ戻った。 1562年、北条氏政 北條氏政 の嫡男・ が誕生している。 越後に撤退した上杉謙信が、第4次川中島の戦いで武田信玄と戦って甚大な被害を受けると、北条氏康・北条氏政は北関東方面に侵攻し、奪われた領土を徐々に取り戻し、 の 、上野の佐野直綱と下野の などを降伏させた。 1563年には、厩橋城や を奪還し、成田氏・小山氏・結城氏・小田氏を降伏させている。 1564年の第2次国府台合戦にて、遠山綱景などの有力武将を多く失ったが、北条氏政は北条綱成と共に里見義弘の背後を攻撃して勝利。 上総の土気城主・酒井胤治らが一時的ながら北条氏政に帰順した。 また、同年、武蔵の 主・太田資正の長男・ を調略して大田資正を武蔵から追放させる事に成功。 北条家は50000の大軍で、上杉謙信の武蔵拠点である松山城を攻略した。 これに対し上杉謙信は関東に出陣。 上杉謙信は小田朝興が守備する を攻め落とし、武蔵 主・成田長泰、 主・佐野昌綱、、、結城城主・結城晴朝を降伏させるなど、関東の諸城を次々に攻略した。 北条家は武田信玄の援軍も得て、上野・厩橋城を奪還。 上杉謙信は閏12月に上野和田城を攻めるも失敗し、この年も厩橋城で越年。 1564年1月、上杉謙信は北条方へ寝返った小田氏治を討伐するため常陸国へ攻め入り、1月28日に山王堂の戦いで小田氏治を破り、 を攻略した。 その後、唐沢山城主・佐野昌綱を総攻撃し、3月に越後へ帰国。 1565年3月、北条氏康らは 主・簗田晴助を攻撃したが、上杉謙信が救援の為出陣し、常陸の も援軍を出して来たため、北条氏康らは撤退。 6月には武田信玄が上杉方の 主・ を攻略。 上杉謙信は、武田勢の関東拠点である和田城を攻めたが落とせず、以後、上杉謙信は関東での影響力を弱める結果となった。 1566年、上野・厩橋城の上杉家直臣・ が北条家に寝返った事により、上杉勢は関東より大幅な撤退を余儀なくされ、この頃から父・北条氏康は実質的に隠居し、北条氏政・北条氏照・ ・ ら自分の子供に、合戦も任せる事が多くなった。 1567年、里見義堯・里見義弘父子が上総奪還を目指して侵攻した為、北条氏政・北条氏照は上総東部の低山である三舟山 君津市 に着陣。 しかし、正木氏などの国人が里見に通じたことなどがあり、北条氏政は里見勢に裏をかかれて太田氏資が討死するなど大敗し、北条家は上総南半分を失った。 1568年12月、武田信玄は駿河の今川領への侵攻し、3国同盟は破たん。 北条家は今川家との同盟を優先して武田勢に対抗した為、北条家と武田家の同盟関係も崩れた。 父・北条氏康は駿河侵攻に激怒し、武田信玄の娘・黄梅院を離縁させ、子供を残したまま甲斐に送り返した。 この時、北条氏政は堪忍分として16貫文余を与えたと言う。 黄梅院は傷心の故か翌年、27歳で死去した。 北条氏政は、継室に鳳翔院殿 ほうしょういんどの を迎えているが、時期や出自などは伝えられていない。 北条氏政は、 に籠城していた 北条氏政の妹・ の夫 を救出する為、三河の徳川家康と和睦。 武田信玄に対抗する為、上杉謙信とも和睦し、弟の北条三郎 後の上杉景虎 を上杉謙信の養子 人質 として越後に送り、上杉家からは家臣・柿崎景家の実子・柿崎晴家が人質として小田原城に入った。 1569年9月、武田信玄は を越えて関東に侵攻し南下。 で北条氏邦が防衛すると、 からは の別働隊も進入し、北条氏照は滝山城で武田信玄を迎え撃ったが、武田信玄はそのまま小田原城へ進み包囲した。 この時、北条氏政は父・北条氏康と共に小田原城に籠城。 武田信玄は約3日間で撤退開始し、その帰路の途中、激戦として知られる になった。 北条氏照・北条氏邦・北条綱成らは、武田重臣の や浦野重秀らを討ち取ったが、北条氏政・北条氏康の本隊が到着する前に津久井から迅速に甲斐へと撤退した。 以後、 、深沢城など駿河諸城は武田家に奪われ、1570年には のみが北条家の駿河配下となった。 北条氏政の父・北条氏康 北條氏康 は1570年8月頃から中風とみられる病を得ており、1571年10月に病没した。 享年57。 「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したとされており、死後の12月27日、北条氏政 34歳 は武田信玄と再同盟し、上杉謙信との越相同盟を破棄した。 この時、北条氏政は、 の塔頭に同じく黄梅院を建立し、亡くなっていた愛妻・黄梅院の分骨を譲り受けて供養している。 1572年、武田信玄の三河・織田領国への侵攻 西上作戦 の際には、諸足軽衆の大藤秀信や伊豆衆筆頭で怪力の持ち主とされる清水太郎左衛門など2000を援軍として武田軍に参加させている。 1574年、上杉謙信が再び上野に進出すると北条氏政も出陣して利根川で対陣した。 北条氏政は閏11月、念願であった簗田晴助の関宿城を攻め落とし、1575年には小山秀綱の下野 を攻め落とし、関東より上杉勢勢力ほぼ一掃した。 1577年、北条氏政は上総に侵攻すると宿敵・里見義弘と和睦。 北条氏政の娘 鶴姫、龍寿院 が に嫁いだ。 なお、この戦いには、元服した嫡男・北条氏直が初陣として加わっている。 この年、北条氏康の娘・ が に嫁いだ。 1578年、上杉謙信が死去すると、その後継者をめぐって上杉謙信の甥・ と、北条氏政の弟で上杉謙信の養子として上杉家に入っていた上杉景虎の間で後継者争いである が勃発。 北条氏政は下野にて佐竹氏・宇都宮氏と対陣中であったため武田勝頼に援軍を依頼した。 しかし、武田勝頼は、すでに上杉景勝より大量の金品を貰っており、上杉家と同盟を結んだ為、援軍を送らず、北条氏政は武田との同盟を破棄。 5月になって、兄弟の中でも武勇の誉れの高い北条氏照と北条氏邦の2人を、上杉景虎の援軍に向かわせるも、坂戸城で らの抵抗に合い撤退。 1579年に上杉景勝が勝利し、上杉景虎は自害した。 上杉景虎の敗死を受けて、北条氏政は上杉との同盟を破棄し、三河の徳川家康と同盟を結んで武田勝頼に対抗した。 1580年には、武田家の らが上野に侵攻し、北条家は支配権を失っている。 しかし、この頃には巨大な勢力となりつつあった の台頭を受けて、北条氏政は織田家に臣従を申し出た。 1580年8月19日には、武田勝頼と黄瀬川にて対峙する陣中で、嫡男・北条氏直 19歳 に家督を譲って隠居したが、父に見習い北条家の政治・軍事の実権は引き続き掌握し「御隠居様」などと敬称され、北条氏直の政務を後見した。 この家督相続は、これまでの武田家とは断絶し、改めて織田家・徳川家と、武田を撃滅する姿勢を示したものとみられる。 1582年2月、織田信長の嫡男・ を総大将に、 を軍監とした織田家の大軍が、武田勝頼討伐の為の甲州征伐に出陣。 北条家は織田家に臣従していたことから、出陣要請を受けて甲斐に侵攻した。 しかし、織田家や徳川家からは進軍予定などの連絡も無かった為、主だった行動は取れないうちに武田勝頼と北条夫人 19歳 は自害。 甲斐はそのまま織田家の領地となってしまった。 しかも、上野には滝川一益が関東管領として入り、 から に拠点を移すなどした為、北条氏政は織田信長に対して関東一括統治を嘆願したが、織田信長は無視した。 そんな中、1582年6月2日、 の謀反により織田信長が で横死。 北条氏政は、上野を奪還すべく、軍を発して深谷まで進めた。 すると滝川一益も出陣し、 となり、滝川一益を破った。 滝川一益は僅かな家臣と共に、本拠地・伊勢に逃亡したが、北条氏政は ・ ・諏訪頼忠などを取り込み、 らを討って を占拠。 一方、同じく、徳川家康も甲斐・信濃を狙って出陣しており、依田信蕃を通して真田昌幸を調略し北条勢と対立した。 前線は当主の北条氏直と軍事に精通する弟の北条氏照・北条氏邦に任せて、北条氏政は小田原城より補給と募兵に尽力した。 北条氏照・北条氏邦は、徳川家康と甲斐の若神子において対陣 若神子の戦い。 北条氏政の弟 ・ 北条氏政の甥 10000の援軍が、御坂峠を越えて黒駒 御坂町 にて徳川勢の ・ らと合戦となり敗北した事もあり、不利となった北条氏直は、徳川家康の娘・ を正室に迎える事で和睦した。 この結果、信濃・甲斐は徳川領、上野は北条領と言う事で合意したが、真田昌幸が上野・沼田城を北条家に明け渡す事を拒んで上杉景勝に寝返り、 ・沼田城にて徳川と北条と抗戦することとなった。 織田家で 以降、 を滅ぼし実権を握った羽柴秀吉 が台頭し、上杉景勝がいち早く豊臣秀吉と同盟していた事もあり、相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石を領した北条家も、やがて豊臣秀吉に従属か、徹底抗戦かを迫られる事態となった。 1588年、豊臣秀吉は、北条氏政・北条氏直親子の 行幸への列席を求められたが、上洛することはすなわち豊臣に臣従すると言う事から、北条氏政・北条氏照・北条氏邦は拒否。 北条氏直や北条氏規との間で意見が対立し、8月に名代として北条氏規が上洛したが、以後、北条家は城の改修など軍事力強化を急ぎ臨戦態勢を取った。 1589年2月、小田原評定衆である が上洛し、沼田問題の解決を豊臣秀吉に要請。 豊臣秀吉は沼田領の3分の2を北条側に還付する沼田裁定をおこない北条方に引き渡された。 北条氏政も上洛の約束をするも、延期を申し出た為、また関係は悪化し、1589年10月に北条氏邦の家臣・ による が起きた。 猪俣邦憲は真田昌幸の名胡桃城を、城主・ の家臣を買収して、誘き出したところを狙い城を乗っ取った。 豊臣秀吉は北条氏政の上洛・出仕の拒否を従属拒否であるとみなし、名胡桃城奪取は に違反したとして、1589年12月23日、諸大名に正式に北条追討の陣触れを発した。 豊臣秀吉の に関しては「」のページにて詳細を記載しているので、ここでは省かせて頂く。 北条氏政・北条氏直は小田原城に籠城。 、松井田城、玉縄城、岩槻城、鉢形城、 、津久井城などは次々と落城し、小田原城の目の前に石垣山一夜城を築かれると、22万の豊臣軍の前に の和睦交渉を受け入れ 1 武蔵・相模・伊豆のみを領地とする、 2 北条氏直に上洛をさせる と言う条件で、北条家は降伏することを了承した。 しかし、豊臣秀吉は和睦の条件を破り、北条氏政・北条氏照に切腹を命じ、北条氏直らを に追放する事を決定。 7月5日、北条氏直が自分の命と引き換えに全ての将兵の助命嘆願して降伏。 北条氏直の舅である徳川家康も北条氏政の助命を願い出たが、豊臣秀吉は主戦派であった北条氏政・北条氏照及び宿老の松田憲秀・ に切腹を命じた。 北條氏政 の情報では一時は助命されるという見通しもあったが、7月11日に北条氏政と北条氏照が、弟・北条氏規の介錯にて、医師・田村安栖の宿所で切腹。 北条氏政 享年53歳。 ここに としての小田原北条氏は滅んだ。 北条氏政は享年53。 小田原駅近くに、静岡県富士市の源立寺に首塚がある。 なお、小田原攻めの最中である1590年6月12日に、北条氏政の母・瑞渓院と、継室・鳳翔院殿の2人が、同じ日に死去している。 同日であることから、2人は自害した可能性もあるのではと指摘されている。 が小田原に到着した頃の出来事であった。 父である北条氏康が偉大だったこともあり、北条氏政の評価はイマイチだが、北条氏康時代以上に勢力を拡大した能力や、兄弟でも抗争する に兄弟仲が非常に良く北条氏照らと協力し、内部崩壊もなく良き家臣と共に合戦でも武功を挙げているなど評価できる点が多く、北条氏政も決して無能な武将というわけではない。 126• 762• 111• 108• 128• 115• 113• 208• 162• 156 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。 他サイトご利用の際にはご留意願います。

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【小田原 観光】小田原城へ遊びに行ってきました[前半]

小田原 城 城主

江戸時代には幕府がおかれた東京ですが、近郊を見渡しても、大きな城はあまり多くありません。 城を探して都心から西に向かってみると、最初に現れるのが小田原城です。 小田原城は戦国時代最後の合戦の舞台となって以来、江戸を守るかなめの城となりました。 今回は東京の歴史に深く関わり、大きな価値をもつ小田原城をご紹介します。 小田原城とは? その概要と歴史 小田原城は戦国時代に関東一円を支配した、北条氏の城でした。 後に北条早雲(ほうじょう そううん)として国内に名をとどろかせた伊勢宗瑞(いせ そうずい)が、15世紀末に支配下においたと伝わっています。 早雲に続き、氏綱、氏康、氏政、氏直と、五代約100年にわたり、北条家の拠点となりました。 豊臣秀吉の来攻に備えた戦国時代末期の小田原城。 八幡山から相模湾の全長9キロにわたって堀と土塁をめぐらせ、町を守りました。 これにはかの豊臣秀吉も攻めあぐね、小田原城は「難攻不落の城」として知られるようになります。 小田原市内の各所には、今でも様々な城跡が残っています。 これに対して豊臣秀吉も黙ってはいません。 色々と策を練り、最終的には小田原城の南西にそびえる石垣山に一夜城を築城。 1590年、小田原城は秀吉の奇策により落城し、戦国時代に終わりを告げたのです。 江戸時代には、春日局(かすがのつぼね)の血を引く稲葉氏、そして、徳川家最古参の家臣である大久保氏が城主として小田原城に入城し、関東地方防御の要となった箱根の関所などを管理しました。 明治維新後の1870年に廃城となり、その多くが解体されます。 1923年9月の関東大震災の際には、石垣を含めてほぼ全壊してしまいました。 1960年には、小田原市民の強い希望によって天守閣が復興。 廃城以来、90年ぶりのことでした。 続いて1971年に「常盤木門(ときわぎもん)」、1997年には「銅門(あかがねもん)」、2009年には「馬出門(うまだしもん)」が復元され、歴史的な景観が次々に復活しつつあります。 城内では一年を通じて様々なイベントが開催されており、小田原城址公園内であれば無料で自由に散策できるとあって、多くの人がこの地を訪れるようになりました。 都心からアクセスもよい小田原城 都心から交通機関を利用して行く場合、小田原城の最寄り駅は小田原駅。 東京駅から新幹線で約35分、新宿から小田急ロマンスカーで約1時間15分の近さです。 小田原駅の東口を出たら、錦通り入口の交差点を右折。 お堀端(おほりばた)通りを南に歩いていると、小田原城「二の丸東堀」が目に入ります。 小田原駅から徒歩約10分で到着です。 小田原城の見どころ 小田原白の見どころは以下の通りです。 1 「正規登城ルート」が設定される小田原城址公園 小田原城「二の丸東堀」に沿ってお堀端通りを歩くと、小田原城の建築物として最初に見えるのは「学橋(まなびばし)」です。 鮮やかな朱色の橋がとても印象的で、この橋を渡ると常盤木門に通じます。 学橋から常盤木門を通っていけば天守閣への近道なのですが、「正規登城ルート」と記された観光ガイドに則って、小田原城を紹介していきます。 2 「正規登城ルート」では馬出門が公園の入口 学橋を通り過ぎ、「二の丸東堀」を横目に100メートルほど歩くと、城址公園に向かって「馬出門土橋」が架けられています。 この橋を渡った先に建つ馬出門が、正規ルートでいう小田原城への入口です。 「馬出門」をくぐると正面は堀となっているため、直進することはできません。 左右には土塀が築かれていますので、「馬屋曲輪(うまやくるわ)」「二の丸」へは「内冠木門(うちかぶきもん)」を通っていきましょう。 門や塀で四角い空間を作る門構えを「枡形門(ますがたもん)」と呼んでいます。 戦国時代末期から江戸時代にかけて用いられた城郭建築の様式で、小田原城にはこの様式で築かれた門が多数あります。 3 二の丸の正門の役割を担う「銅門」 馬屋曲輪を堀に沿ってL字を描きながら進み、住吉橋を渡ると二の丸エリアに入ります。 二の丸で正門の役割を担っている銅門。 住吉橋の正面にある内仕切門(うちじきりもん)をくぐると、また土塀に囲まれた枡形の空間に出てきます。 二の丸に行くには、左の方に直角に曲がり「渡櫓門(わたりやぐらもん)」をくぐります。 渡櫓門には名前の由来となった、銅板の装飾が施されています。 櫓の中には敵の侵入を防ぐ「石落とし」のしかけが設けられています。 ここから石を落とし、枡形の空間に閉じ込められた敵兵に攻撃を加えるという戦法です。 土・日曜日および祝日には銅門内部の特別公開(10:00~15:00)が行われています。 小田原評定の模様がリアルに再現されている場所もあります。 北条家五代にわたって家臣や国人の裏切りがほとんどなかったのは、北条氏に仕える「評定衆」らが自ら戦術などを練ったからだとされています。 城主が一方的に命令を下すのではなく、人々の意思で策を決めたことが、裏切り行為を防いだのでしょう。 4 堅固な門構えで本丸、天守閣を守る「常盤木門」 二の丸広場跡を右手に見ながら少し進むと、小高い丘の上に堂々とした構えの門が見えてきます。 この常盤木門は本丸の正門にあたり、多聞櫓(たもんやぐら)と渡櫓門をもちます。 城の防衛において極めて重要な役割をもつため、場内の門の中では最も大きく、堅固に作られました。 多聞櫓は武器などを保管する場所として使われていたのだそうです。 常盤木門のそばには緑の葉がきれいな松が植えられています。 松は緑の葉を一年中失うことなく力強く育つということで、その姿に永久不変に繁栄する小田原城を重ね、「常盤木門」と名づけられたと言われています。 5 甲冑や刀剣などの武具が展示される「常盤木門SAMURAI館」 常盤木門の2階は「常盤木門SAMURAI館」として公開されています。 2016年にリニューアルオープンした展示室では、甲冑や刀剣などの武具に絞った展示を行い、武具がもつ独特の芸術性や、武士の精神性を紹介しています。 6 3重4階の複合式天守閣 「常盤木門SAMURAI館」を出ると、本丸越しに小田原城のシンボル、天守閣が見えます。 こちらの天守閣は3重4階の天守櫓(てんしゅやぐら)・付櫓(つけやぐら)、渡櫓 わたりやぐら を付しており、複合式天守閣と呼ばれています。 江戸時代の雛型や、宝永年間に改修された際に作られた引き図をもとに、江戸時代の姿が復元されました。 白壁が清々しさを感じさせる一方で、堂々とした風格を漂わせています。 鉄筋コンクリート造りで、地上38. 7メートルの天守閣。 1960年に約8千万円の総工費をかけ、市制20周年記念事業として復興されました。 復興の実現に向け、「瓦一枚運動」という募金活動がはじまります。 寄付をすると瓦に名前が記されるということで、数多くの市民から寄付がよせられました。 天守閣の内部は、歴史資料の展示施設として一般公開されています。 甲冑、刀剣、絵図、古文書など、小田原の歴史を物語る資料や、武家の文化に関する資料などが多数展示されています。 1階では「江戸時代の小田原城」をテーマとし、江戸の西で幕府を支えた小田原城の役割や歴代城主の足跡を紹介しています。 展示コーナーの一画に設けられたシアターでは、戦国時代の終盤に落城する前夜の小田原城内の様子がディスプレイに映し出され、とてもリアルに当時の様子を見ることができます。 2階では「戦国時代の小田原城」をテーマに、小田原城を拠点として関東の広い地域を治めた戦国大名、小田原北条氏の足跡が紹介されています。 3階では小田原ゆかりの美術工芸品を展示。 小田原城の発掘調査の成果を様々な角度から見ることができるのも、大変興味深いものです。 4階のテーマは「その後の小田原城」。 明治時代から現代までの小田原城の歴史を紹介しています。 5階は天守閣の最上階にあたり、江戸時代の天守に祀られていたと伝わる摩利支天像(まりしてんぞう)が安置されています。 高欄(こうらん)付きの廻縁(まわりぶち)からは、相模湾が一望できるばかりでなく、天候がよければ房総半島まで望むことができます。 7 小田原の名産品が並ぶ天守閣内のミュージアムショップ 天守閣1Fにはミュージアムショップが併設されています。 店内には小田原城を模したグッズの他、提灯や寄木細工(よせぎざいく)など、小田原の名産品をお土産に購入すると喜ばれそうです。 8 風魔忍者(ふうまにんじゃ)をモチーフにした体験型ガイダンス施設の「小田原城歴史見聞館」 小田原城歴史見聞館は、2019年4月20日にリニューアルオープンします。 戦国時代には、小田原城主であった北条氏を陰で支えた風魔忍者の歴史や文化を学ぶことができる、体験型のガイダンス施設(NINJA館)が登場します。 一般的な映像や展示という手法だけではなく、触れたり動かしたりできる体験型の展示手法が採用され、子どもや外国の方でも楽しめるように工夫されています。 9 二の丸小峰曲輪の一画に社殿を構える「報徳二宮神社」 小田原城天守閣の南西の二の丸小峰曲輪(こみねぐるわ)の一画に、「報徳二宮神社(ほうとくにのみやじんじゃ)」が社殿を構えています。 二宮尊徳の生誕地が小田原であったことから、1894年に報徳社の総意により、翁(おきな)を御祭神として建立されました。 社殿には神明造りの様式が採用されています。 拝殿の礎石には、江戸時代末期の天保年間に、米蔵の礎石となっていた石が用いられています。 天保の大飢餓(てんぽうのだいききん)の際、藩主大久保公の指示により小田原城内の米蔵を開き、米を領民に配布しました。 この判断により、小田原11万石の領内には、一人の餓死者も出さなかったと伝わっています。 境内に設けられた「きんじろうカフェ」は自然の緑に溶け合いながら、おしゃれな雰囲気を漂わせています。 10 小さな子供の歓声がこだまする「こども遊園地」 報徳二宮神社の北側から城址公園内に進むと、左手に「こども遊園地」があります。 園内には豆汽車やバッテリーカーなどの遊具を備え、小さな子どもの歓声がこだましています。 園内からは真正面に小田原城が。 小田原城をもっと楽しむヒント 小田原城をもっと楽しむヒントを紹介します。 1 城址公園内のガイドをお願いできる「二の丸観光案内所」 小田原城址公園内の南端に、二の丸観光案内所が設置されています。 城址公園や市内観光のガイドを依頼すれば、小田原の興味深い歴史を知ることができます。 事前予約の場合は有料となりますが、当日空いている場合は無料でお願いできます。 専門のガイドの案内を聞きながら城内をめぐると、小田原城に関するおもしろい歴史や逸話を知ることができ、見聞を広げることができます。 2 武士やお姫様、忍者に変身できる「甲冑着付け体験」 常盤木門SAMURAI館の1階では、甲冑の着付け体験が可能です。 甲冑の他にも打掛(うちかけ)、忍者衣装、陣羽織などを貸し出しているので、武士やお姫様、忍者に変身して、小田原城をバックに記念写真を撮影してみてください! 4. 3 便利なレンタサイクル「ぐるりん小田原」 小田原市内には、「ぐるりん小田原」というレンタサイクルのサービスがあります。 小田原城址公園内では小田原城歴史見聞館の横にレンタサイクル・スポットがあり、ここで自転車が借りられます。 小田原駅東口にもスポットがあり、小田原城との往復や市内の観光スポット、名所・史跡めぐりに利用できます。 普通自転車のレンタルであれば1日500円とリーズナブルで、効率よく観光することができます。 小田原城のグルメ情報 小田原城のグルメ情報は以下の通りです。 1 北条五代にちなむメニューがあるお食事処「本丸茶屋」 本丸茶屋は小田原城址公園内で唯一のお食事処。 本丸の北側に設置されています。 広々とした店内には10卓ほどのテーブルが。 落ち着いてお食事が楽しめます。 1日10食限定の「小田原丼」は、小田原戦国武将の茶漬け丼。 無農薬米を使った茶飯のおにぎりに、鰹の一番だしを使ったお茶漬け丼で、だしの中にはたっぷりのネギやミョウガがトッピングされています。 幻の「杉田梅」という自家製の梅干は、一般的な梅に比べてクエン酸が数倍高いという健康食品です。 他にも北条うどん、早雲そばなど、北条五代にちなんだメニューを準備しています。 2 小田原の名産品が揃う本丸売店 本丸茶屋の東隣には本丸売店があります。 店内には天守閣内のミュージアムショップ同様、小田原城に関するグッズや、提灯や寄木細工など、小田原の名産品が並びます。 小田原城は、北条五代の城として規模を拡張しました。 戦国時代の最後を告げる舞台となり、歴史の流れの中で全壊したこともありますが、1960年に天守閣が復興され、往時の姿をとり戻しつつあります。 東京からのアクセスもよい小田原城。 ぜひ現地を訪れて、歴史をしのんでみてください。 小田原城の基本情報• 神奈川県小田原市城内6-1• 営業時間• 【通常】9:00~17:00(入館は16:30まで)• 【桜まつり・ゴールデンウィーク・あじさい花菖蒲まつり・夏季の土日祝日などイベント開催時】9:00~19:00• 入館料• <天守閣>一般:500円、小中学生:200円• <常盤木門>一般:200円、小中学生:60円• <歴史見聞館>一般:300円、小中学生:100円• <天守閣・常盤木門2館共通券>一般:600円、小中学生:220円• 駐車場• 一般駐車場はありません。 周辺の有料駐車場を利用。 休館日• 12月第2水曜日(天守閣)、12月31日、1月1日• 車でのアクセス• 小田原厚木道路、荻窪ICより約10分• 西湘バイパス、小田原ICより約5分• 東名高速道路、大井松田ICより約40分• 電車のアクセス• JR・小田急小田原駅下車、徒歩約10分• HP:.

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【小田原 観光】小田原城へ遊びに行ってきました[前半]

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小田原城の歴史を紐解く 小田原城の立地 相模国(神奈川県)の西端にあり、南は相模湾、西は箱根連山、その山を隔てて駿河国(静岡県)と接している。 また、東国と西国を結ぶ主要な幹線道であった東海道に沿い、中世には小田原関所の存在も確認されるなど、交通の要衝でもあった。 この海と山を天然の要害とし、交通の要衝でもある場所に、は建てられている。 大森氏の時代 小田原城の創建年代は明らかになっていないが、15世紀中頃に大森氏によって造られたと考えられている。 大森氏は北駿地域と呼ばれる現在の静岡県裾野市・御殿場市あたりを本拠としていたが、関東の争乱で次第に勢力を拡大。 さらに相模国や武蔵国で公方足利氏と関東管領上杉氏(長尾氏)による争乱が起こるなどの政治状況により、箱根を越えて小田原へ本拠を移したと思われる。 その頃の小田原は町場も独自に発展し、永享4年(1432)の関東公方足利持氏の御教書で「小田原関所」が見られるように、室町時代中期には関所も設けられていた。 小田原を支配下に置いた大森氏は、関守として交通の要衝も抑えていたことになる。 大森氏時代の小田原及び城について詳細は知られていないが、従来の町場もとりこみ、後の小田原城下の原点ともいうべき開発をすすめたと思われる。 この頃の小田原城は現在の八幡山古郭が中心といわれていたが、発掘調査によって八幡山から天正年間(北条氏政・氏直の時代)以前の出土品がないことから、大森氏の時代から小田原城の中心地は現在の城址公園の範囲にあったとも考えられている。 ただし、宗瑞は相模進出後も駿河国(静岡県伊豆の国市)に在城しており、小田原城を本城としたのは宗瑞の後を継いだ氏綱からだった。 氏綱は名字を「伊勢」から「北条」に改称し、虎の印判を用いた虎朱印状を始め、一定の地域の支配を管轄する拠点(=城)を取り立てる支城制を整えていくなど、後の北条氏代々にも続く基本の体制を作り上げた。 本城となった小田原城も整備、拡大されていったと考えられる。 ちなみに、小田原の代表的な商人として知られる外郎(ういろう)宇野氏は、氏綱の代に京から小田原へ移住したとも伝えられており、資料的な裏付けはないが、この頃に本格的に城下町の造成が進められ、小田原城に商人や職人が集まり始めたとも推定できる。 余談だが、宇野氏は現在も小田原城近くに店舗を構え「ういろう」として薬局兼和菓子販売を行っている。 氏康の時代には、小田原城の様子を記した記録がいくつか見られるようになる。 天文20年(1551)4月に小田原を訪れた京都南禅寺の僧である東嶺智旺の記したところによると、小田原の町の小路には塵一つなく、東南は海で麓に海があると記す。 なお、小田原城址公園内の御用米曲輪跡での発掘調査により庭園と思われる遺構が発見され、主君の居館はこの近辺にあったと考えられる。 だが、永禄4年(1561)に長尾景虎(上杉謙信)が襲来、氏康の跡を継いだ氏政の代である永禄12年には武田信玄も攻めてきて、2度とも小田原城は籠城。 当時の最外郭だった二ノ丸の門まで迫って囲まれ、城下は破壊・放火された。 小田原城でよく知られる広大な「総構(大外郭)」が作られるのは天正17年(1589)からで、氏政が隠居し氏直が当主の時である。 この総構は豊臣秀吉との戦が避けられない状況になったことから始められ、現在の小田原市街地が大部分入る広さを囲って空堀と土塁を築き、小田原は城郭都市ともいえる様相になる。 翌天正18年の小田原合戦では、総構が功を奏したか3ヶ月もの籠城戦となった。 この時は当主である氏直が本城に、氏政は八幡山へ別に構えた隠居城にいたという説もある。 江戸時代 小田原合戦の後は、徳川家康が三河にいた頃からの重臣である大久保忠世が小田原城に入るが、後を継いだ忠隣が失脚し、近江へ配流。 後の小田原城は、途中に5年間だけ阿部氏が城主となった期間はあるものの、しばらくは幕府直轄の番城となる。 それ以前から箱根を隔てて交通の要衝であった小田原は、江戸幕府にとっても重要視されていた。 ちなみに、江戸時代に設置された箱根関所の役人も、小田原藩から交代で赴任している。 寛永9年(1632)に稲葉正勝が城主になると小田原城の整備が始められるが、開始直後の寛永10年に大地震で城は被害を受け、その復旧も兼ねての大規模な工事を開始。 以後も延宝3年(1675)年頃までの約40年間にわたる整備が進められ、現在の小田原城に見られる近世的な城郭の形となった。 貞享3年(1686)、再び大久保氏が城主となり、以後は明治維新まで大久保氏が城主となる。 しかし、この期間には大地震や富士山の噴火など度重なる災害で小田原城も被害を受け、稲葉氏の時代に建てられたとされる三代将軍家光を迎えた豪華な建物は、ことごとく崩壊、消失した。 再建や改築がされるものの、本丸御殿は再建されず、桃山風の色を残していたとされる天守閣は、白い漆喰が塗り込められた姿となった。 明治時代以後 明治6年(1873年)に全国へ廃城令が出されるが、小田原藩はそれより前の明治3年に廃城届を提出。 財政の窮乏を補填するため、天守閣など城の払い下げを行った。 この時にほとんどの建物は取り壊されている。 その後の城内には県庁などが設置され明治23年に二の丸跡へ御用邸が建てられるが、大正12年(1923)の関東大震災による被害を受けて小田原の御用邸は廃止。 この時、江戸時代から残っていた石垣も多くが崩壊した。 ほどなく石垣の積み直しなど復興されるものの、以前より規模は小さくなっている。 戦後の昭和25年(1950)に城内に動物園と遊園地を建設。 昭和35年(1960)には天守閣を再建。 天守閣は平成27(2015)年から1年かけ、耐震補強などの大改修を行い、現在に至る。 小田原城址公園内で見られる遺構 現在の小田原城は城址公園となり、後期大久保時代にあたる江戸時代末期の姿への復元に取り組み、史跡整備が行われている。 再建・復元された建物の他、城址公園内で城FAN的におすすめの見どころは、天守閣と隣接する報徳二宮神社の間のエリア。 ここには関東大震災で崩壊した江戸時代の石垣の一部がそのままの姿で残されている。 また、現在神社がある場所も元は小田原城の小峰曲輪の一角であるため、城址公園から神社へ入る通路から曲輪間の掘跡をわずかながら見ることができる。

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