田中 久重。 田中久重ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

先人たちの底力 知恵泉 「田中久重」 2018年12月

田中 久重

べっこう細工師の長男として生まれた田中久重は、既に9歳にしてからくり細工をほどこした「開かずの硯箱」を作って周囲を驚かします。 1796年に出版された細川半蔵の書いた和時計やからくり人形・玩具の機械技術書「機巧図彙(からくりずい)」を読み漁っては創意工夫に情熱を燃やし、父に「私は発明工夫をもって天下に名を上げたいと思います。 家業は弟に継がせて下さい。 」と訴えて、"からくり"とともに生きる決意をします。 単に模倣のみでは満足せず、創意工夫で水圧、重力や空気圧(ポンプ)など様々な力を利用した"からくり人形"を製作します。 中でも「弓曳童子」「文字書き人形」「童子盃台」などは傑作で、からくり興行師として大阪・京都・江戸などを行脚しました。 30代半ばで大阪に移り住み、携帯用の「懐中燭台」や、いつまでも消えない「無尽灯」を製作しますが、その後南蛮貿易によってもたらされた西洋時計に興味を示し、西洋の天文暦学・数理学を学びます。 これは、天動説にそった仏教の宇宙観をひとつの時計の中で見事に表現した名品で、世界は須弥山を中心にその周りを月と太陽が回っていることを示した天体時計です。 これは、西洋の地動説が日本に伝わってきたときに、宗教的危機を感じて仏教的宇宙観を啓蒙するためにつくったと言われています。 翌年1851年には、久重の生来の技術である彫金や象眼・七宝を含む金属細工と、からくりの才を素地として、高度の天文暦学と西洋の時計技術の精髄を取り込んだ最高傑作「万年自鳴鐘」を完成させます。 これは、ほとんど彼の手作りによる1000点以上の部品で構成され、一度巻けば一年動き続けるという驚異の複雑からくり時計です。 西洋時計と和時計の他に、曜日や二十四節気、十干十二支(旧暦の日付)、月齢、天象儀(京都から見た1年間の太陽と月の動き)、打鐘の機能があり、これらすべてが底部のぜんまい動力によって連動して動作します。 特に和時計には、季節ごとの昼夜の長さの変化に対応して一刻(いっとき)の長さが変わる不定時法に、文字板のインデックスの位置・間隔を自動で変化させることで対応する画期的な機構が備わっていました。 これは虫歯車と名づけられた独創的な歯車に、互い違いに2枚の片歯車を組み合わせて歯車が回転往復運動をすることで成り立っています。 実は、万年自鳴鐘の西洋時計にはスイス製の懐中時計の脱進機部分をそのまま流用することで時計の精度を確保しており、その脱進機の動きで、この和時計の割駒式文字板と針に連動させていたのです。 「進んだ西洋技術を受け入れるだけでなく、それに日本の生活文化を融合させ、社会に役立つものとする。 」という久重の想いを、よく表しているつくりでした。 この万年時計は、久重の死後まもなく故障して長い間動いていませんでしたが、2004年の「万年時計復元複製プロジェクト」によって、分解分析・復元がなされ、久重が独自に開発した複雑機構や、工作機械を使わずに歯車やぜんまいもすべて手作りをした形跡が確認されました。 復元されたレプリカは、2005年の「愛・地球博」で展示され、その後は、東芝未来科学館に展示されています。 オリジナルは2006年重要文化財に指定され、現在は国立科学博物館に常設展示されています。 晩年の久重 1853年ペリーの黒船来航以降は、富国強兵の国防技術に関心を抱き、蒸気船や蒸気機関車の模型の製造、反射炉の設計やアームストロング砲などの開発製造に着手しました。 明治という新たな時代の幕開けを迎えると、「人々に役だってこそ技術」といっては、日本初の製氷機械や自転車、人力車、精米機など生活に密着した製品の開発に没頭します。 その後、73歳にして、通信事業で日本の近代化に貢献できる人物として政府から白羽の矢が立ち、首都東京に出てきて、高品質な通信機の開発にたちまち成功します。 1875年には、「万般の機械考案の依頼に応ず」という看板を掲げた新しい工場を構えました。 これが今日の東芝の創業とされています。 そこで、電話機を試作したり、日本全国に時報を伝える「報時機」などを生み出しました。

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田中久重ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

田中 久重

べっこう細工師の長男として生まれた田中久重は、既に9歳にしてからくり細工をほどこした「開かずの硯箱」を作って周囲を驚かします。 1796年に出版された細川半蔵の書いた和時計やからくり人形・玩具の機械技術書「機巧図彙(からくりずい)」を読み漁っては創意工夫に情熱を燃やし、父に「私は発明工夫をもって天下に名を上げたいと思います。 家業は弟に継がせて下さい。 」と訴えて、"からくり"とともに生きる決意をします。 単に模倣のみでは満足せず、創意工夫で水圧、重力や空気圧(ポンプ)など様々な力を利用した"からくり人形"を製作します。 中でも「弓曳童子」「文字書き人形」「童子盃台」などは傑作で、からくり興行師として大阪・京都・江戸などを行脚しました。 30代半ばで大阪に移り住み、携帯用の「懐中燭台」や、いつまでも消えない「無尽灯」を製作しますが、その後南蛮貿易によってもたらされた西洋時計に興味を示し、西洋の天文暦学・数理学を学びます。 これは、天動説にそった仏教の宇宙観をひとつの時計の中で見事に表現した名品で、世界は須弥山を中心にその周りを月と太陽が回っていることを示した天体時計です。 これは、西洋の地動説が日本に伝わってきたときに、宗教的危機を感じて仏教的宇宙観を啓蒙するためにつくったと言われています。 翌年1851年には、久重の生来の技術である彫金や象眼・七宝を含む金属細工と、からくりの才を素地として、高度の天文暦学と西洋の時計技術の精髄を取り込んだ最高傑作「万年自鳴鐘」を完成させます。 これは、ほとんど彼の手作りによる1000点以上の部品で構成され、一度巻けば一年動き続けるという驚異の複雑からくり時計です。 西洋時計と和時計の他に、曜日や二十四節気、十干十二支(旧暦の日付)、月齢、天象儀(京都から見た1年間の太陽と月の動き)、打鐘の機能があり、これらすべてが底部のぜんまい動力によって連動して動作します。 特に和時計には、季節ごとの昼夜の長さの変化に対応して一刻(いっとき)の長さが変わる不定時法に、文字板のインデックスの位置・間隔を自動で変化させることで対応する画期的な機構が備わっていました。 これは虫歯車と名づけられた独創的な歯車に、互い違いに2枚の片歯車を組み合わせて歯車が回転往復運動をすることで成り立っています。 実は、万年自鳴鐘の西洋時計にはスイス製の懐中時計の脱進機部分をそのまま流用することで時計の精度を確保しており、その脱進機の動きで、この和時計の割駒式文字板と針に連動させていたのです。 「進んだ西洋技術を受け入れるだけでなく、それに日本の生活文化を融合させ、社会に役立つものとする。 」という久重の想いを、よく表しているつくりでした。 この万年時計は、久重の死後まもなく故障して長い間動いていませんでしたが、2004年の「万年時計復元複製プロジェクト」によって、分解分析・復元がなされ、久重が独自に開発した複雑機構や、工作機械を使わずに歯車やぜんまいもすべて手作りをした形跡が確認されました。 復元されたレプリカは、2005年の「愛・地球博」で展示され、その後は、東芝未来科学館に展示されています。 オリジナルは2006年重要文化財に指定され、現在は国立科学博物館に常設展示されています。 晩年の久重 1853年ペリーの黒船来航以降は、富国強兵の国防技術に関心を抱き、蒸気船や蒸気機関車の模型の製造、反射炉の設計やアームストロング砲などの開発製造に着手しました。 明治という新たな時代の幕開けを迎えると、「人々に役だってこそ技術」といっては、日本初の製氷機械や自転車、人力車、精米機など生活に密着した製品の開発に没頭します。 その後、73歳にして、通信事業で日本の近代化に貢献できる人物として政府から白羽の矢が立ち、首都東京に出てきて、高品質な通信機の開発にたちまち成功します。 1875年には、「万般の機械考案の依頼に応ず」という看板を掲げた新しい工場を構えました。 これが今日の東芝の創業とされています。 そこで、電話機を試作したり、日本全国に時報を伝える「報時機」などを生み出しました。

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田中久重(たなかひさしげ)はどんな人?Weblio辞書

田中 久重

筑後国久留米生まれ 久重が創設した田中製造所は 後年『東芝』となる。 幼名は「儀右衛門」 幼い頃から才能を発揮し 久留米・五穀神社の祭礼では 当時流行していたからくり人形の 新しい仕掛けを次々と考案して 大評判を呼ぶ。 この間九州各地や大阪・京都 ・江戸でも興行を行い その成功により全国に その名を知られる。 その後京都へ移り 天文学や蘭学などの西洋の文化技術を学ぶ。 嘉永4年 1851 には 「万年自鳴鐘」を完成させた。 現在国の重要文化財に指定 『万年自鳴鐘』 「万年時計」として知られるこの時計は 平成16年 2004 に 東芝、セイコーなどの研究者によって 分析・復元されレプリカが 平成17年 2005年 の愛 ・地球博で展示された。 この復元作業には100人の技術者が携わり 最新の機材を投入したが、 解析に時間がかかり、 愛・地球博に展示されたレプリカは 完璧な復元には至らなかった。 原品は国立科学博物館に寄託され、 平成19年 2007 には 機械遺産に認定された。 文久3年 1863 佐賀藩の反射炉で 初の国産アームストロング砲を完成させ 佐賀藩の興隆に尽くす。 元治元年 1864 には久留米藩に帰り 藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり 殖産興業等にも貢献した。 明治8年 1875 に東京・銀座に 電信機関係の「田中製造所」を設立。 明治14年 1881 発明に全てを捧げた82年の 生涯に幕を閉じた。 久重亡き後、 養子の2代目久重が会社を受け継ぎ これが現在の東芝の基礎となった。 「知識は失敗より学ぶ。 ゼンマイ仕掛けのからくり人形づくりから 和時計の最高傑作、蒸気機関、 電話機までも開発します。 「からくり儀右衛門」は 人を喜ばせることに何よりも 生甲斐を感じ、 人々の必要としているもの、 生活を豊かにするものを考え、 そのアイデアを次々と 形にしていきました。 『久留米かすり』の創始者・井上伝の 「定番のかすりを素材とする 工芸だからこそ、 今までにない模様で差をつけたい」 との願いに応え、従来とは違う 花や鳥の美しい模様を織り上げた。 久留米の文化発展・継承にも一役買った。 水力や重力、空気圧など、 様々な力を利用した"からくり人形"が、 彼の十八番である。 童子盃台、文字書き人形など、 行く先々の人々をおおいに驚かせ、 楽しませたのである。 その見せ物の一つが「弓射り 曳 童子」。 4本の矢のうち、 1本だけ射的を失敗するよう 精巧なからくりにあえてミスの演出を加えた。 こうした久重のユーモアのセンスは 興行を成功させた理由の一つであった。 そこで久重は実用品の製作 ・販売を始めるために、 天保8年(1834)に 大阪に移り住むことにした。 そこで売り出し、注目を集めたのが、 真鍮製の「携帯用懐中燭台」。 「夜の帳簿つけに 便利だ」という商人をはじめ、 夜間医療の現場でも活躍する中で、 「人々の役に立ち、 かつ新しいモノを作り続ける」 という彼のポリシーを、 名実ともに、世に知らしめた。 一面焼け野原と化した逆境の中でも、 久重は、さらに新たな発明に取り組んでいた。 「いつまでも消えない灯り」と 商人を中心に大人気を博した "無尽灯"が発明された。 空気の圧力を利用し、 菜種油が管をつたって灯心に昇る その仕掛けは、長時間安定した灯りを供給し、 商売や生活水準の向上に一役買ったのである。 自らの興味のために、 西洋の天文・数理を学ぶ。 三両あれば一年暮らせると言われた時代に 五十両の大金を握り締め 天文暦学の京都梅小路 ・土御門家の門戸を叩く。 弘化4年(1847)田中久重数え四十九歳。 なおも向学心を磨く。 齢五十を過ぎた嘉永3年(1850) 当時の時計の 概念を根底から覆したといわれる 和時計・須弥山儀 (しゅみせんぎ)を完成させる。 須弥山儀は天動説に即し 仏教の宇宙観を 一つの時計の中で表現した名品。 また京都の蘭学者 ・広瀬元恭の「時習堂」に入門。 医学や物理学、 化学、兵学、砲術などを吸収した。 猛烈な雷鳴により突然発狂したらしい。 時は元治元年(1864)です。 息子・孫の不慮の死により 田中久重は弟子の田中大吉を養子に迎え その子に久重を名乗らせたそうです。

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