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【ハワイ】ANAエクスプレスバスの体験レポート!乗り場とルート、時刻表を解説!

エクスプレスルート

概要 [ ] オリエント急行の起源は、(日本での通称「ワゴン・リ」社)により1883年に運行が開始された - ()間の列車(当時は一部船舶連絡)である。 その後、とを結ぶ国際寝台車会社の列車群が「オリエント急行」を名乗るようになった。 西ヨーロッパ側の起点はパリのほかのやのなどがあり、バルカン半島側の終点はイスタンブールのほかのやの、などがあった。 これらの列車は出発地や途中の経路により以下のように名付けられていた。 オリエント急行(Orient Express):1883年 - 2009年• (イスタンブール行)カレー - パリ - (シュトラスブルク) - - - - - - - - - イスタンブール(コンスタンティノープル)• (アテネ行)ニシュ - - アテネ• (ルーマニア方面行) ブダペスト - ブカレスト - コンスタンツァ• (Oostende Wien Orient Express):1900年 - 1939年• オーステンデ - - - - - リンツ(以下、オリエント急行に併結)• シンプロン・オリエント急行(Simplon Orient Express):1919年 - 1962年• (イスタンブール、アテネ行) カレー - パリ - -()- - - - - - - ベオグラード(以下、オリエント急行イスタンブール、アテネ行と同じ)• (ブカレスト行) ヴィーンコヴチ - - ブカレスト• アールベルク・オリエント急行(Arlberg Orient Express):1931年 - 1962年• カレー - パリ - - -()- - ザルツブルク(以下、オリエント急行と同じ)• バルト・オリエント急行(Balt Orient Express):1948年 - 1995年• - () -(連絡船)- オドラ・ポート(現・) - - ブダペスト - ブカレスト、ベオグラード。 のちに起点をに変更。 ダイレクト・オリエント急行(Direct Orient Express):1962年 - 1977年• パリ - イスタンブール、アテネ(経路はシンプロン・オリエント急行と同じ)• タウエルン・オリエント急行(Tauern Orient Express):1966年 - 1979年• ミュンヘン -(タウエルントンネル)- リュブリャナ(以下、ダイレクト・オリエント急行と同じ) いずれも時期によって区間や経由地は少しずつ異なり、またこのほかにも途中駅での客車の併結、分割は多数行われていた。 後は区間短縮や廃止が相次いでおり、2009年時点で残ったのはストラスブール - ウィーン間のオリエント急行のみであった。 これは国際の一列車となっていたが、2009年12月14日に廃止された。 第二次世界大戦前まで、これらの列車は原則として国際寝台車会社の客車のみで編成されており、西ヨーロッパと東ヨーロッパ・を結ぶ列車として、王侯貴族や外交官、裕福な商人や旅行者などに愛用された。 車両の豪華さに限れば、(ル・トラン・ブルー)などの西ヨーロッパ圏内の豪華列車に比べ一段劣っていたものの、西ヨーロッパ人にとっては異文化圏である「」へ向かう列車として、また東ヨーロッパやアジアの上流階層の人々にとっては彼らと西ヨーロッパを結びつけるものとして名声を得た。 第二次大戦後はの普及やのためこうした性格は失われ、列車は通常のや主体の編成に国際寝台車会社の寝台車が併結されるにすぎないものとなった。 には国際寝台車会社が寝台車事業から撤退し、寝台車は各国のが保有するものとなった。 なお、上記以外の正式名称に「オリエント」のつかない列車でも、東西ヨーロッパを結ぶ列車のことをなどが「オリエント急行」と呼ぶことがある。 一方で、1920年代から30年代の国際寝台車会社の車両を復元した観光列車が以降登場しており、これらも「オリエント急行」を名乗っている。 おもなものには以下がある(で後述)。 ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス( ベニス・シンプロン・オリエント急行、Venice Simplon Orient Express、VSOE) - オリエント・エクスプレス・ホテルズ(現・)が1982年に運行を開始した、とを結ぶ観光列車。 ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行(Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)、旧名ノスタルジー・オリエント急行(Nostalgie Orient Express、NOE) - のインターフルーク社が1977年から運行を始めた観光列車。 プルマン・オリエント急行(Pullman Orient Express、POE) - フランスのの傘下に入った国際寝台車会社が所有する列車。 寝台車はなく食堂車とラウンジカーによって編成された昼行専用である。 さらにヨーロッパの列車とは特に関係のない観光列車の名称としても用いられている。 歴史 [ ] 「」も参照 、の銀行家の息子であるはを設立した。 彼はにアメリカを旅行し、アメリカのプルマン社のに感銘を受け、ヨーロッパでの寝台車会社の設立を思い立った。 アメリカ人の大富豪、ウィリアム・ダルトン・マンもこの会社の設立を支援し、当時に進出しようとしていたとの参入競争を繰り広げていた。 西ヨーロッパとを結ぶオリエント急行は同社の看板列車として計画されており、初めにはパリ・ウィーン間でや豪華寝台車の運行が始まっていた。 開通記念列車 [ ] オリエント急行の開通記念列車は夜にパリ・ストラスブール駅(現・)を発車し、6日かけてコンスタンティノープル()に到着した。 なおでは首都の市名を「イスタンブール」と称していたが、では旧名の「コンスタンティノープル」が使われており、「オリエント急行」の行き先も旧名で表記されていた。 経路はパリ() - シュトラスブルク(、現・) - - () - - () - - - () - - コンスタンティノープル()である。 ただしこのときにはコンスタンティノープルまでの線路は全通しておらず、国際寝台車会社の車両で運行されたのはジュルジュまでで、を船で渡り、ルセ - ヴァルナ間は資本のブルガリアの鉄道の通常の客車を利用、ヴァルナ - コンスタンティノープル間はでを渡った。 記念列車は2両、1両、(兼)2両の編成であった。 寝台車と食堂車はを使用しており、国際寝台車会社創業時のやからは大幅に乗り心地が向上していた。 記念列車には沿線各国の高官や鉄道関係者、ジャーナリストなどが招待されたほか、ナゲルマケールスをはじめとする国際寝台車会社の幹部も乗車した。 途中ルーマニアでは国王自ら離宮に招待するなど、沿線各国で歓迎を受けた。 招待客の中には出身で在住の作家エドモンド・アブーと、紙のパリ特派員アンリ・ステファン・オペル・ドブラヴィッツが含まれており、新列車は彼らの筆により西ヨーロッパに紹介された。 ドブラヴィッツはさらに到着地のイスタンブールでと西ヨーロッパのジャーナリストとしては初の単独会見に成功している。 第一次世界大戦前 [ ] オリエント急行(青)と関連列車(第一次世界大戦前) 定期列車としてのオリエント急行は、1883年10月25日からパリ - ジュルジュ間で営業を開始した。 連絡する船舶などと合わせたパリからコンスタンティノープルまでの所要時間は81時間41分である。 当初は週1便の運行であったが、1885年には途中のウィーンまで毎日運行となった。 またからは当初のルートのほかブダペストから、を経由する列車(一部連絡)も運転された。 には念願のコンスタンティノープルまでの列車の直通運転がベオグラード・ソフィア経由で実現した。 これによりパリからコンスタンティノープルへの所要時間は67時間46分にまで短縮された。 には列車名の表記をのExpress d'Orientから式語順のOrient Expressに改めた。 またにはルーマニア国内での鉄橋が開通し、ルーマニア方面へのオリエント急行は経由行となった。 直通運転が実現したとはいえ、オリエント急行の走る東ヨーロッパの政情は不安定であり、の整備も西ヨーロッパと比べ遅れていた。 このため列車の運行にはさまざまな困難が伴った。 には盗賊団が列車を襲い、乗客をしてを要求する事件が起こった。 またにはバルカン半島でのの流行のため列車が10日間隔離された。 には、のからに至るの客車の一部がオリエント急行に併結されてコンスタンツァおよびコンスタンティノープルに直通するようになり、 オーステンデ・ウィーン・オリエント急行と名付けられた。 オーステンデではからの連絡船に接続しており、これによってイギリスからバルカン半島方面への所要時間が短縮された。 同年にはからの客車をブダペストでオリエント急行に併結させる ベルリン・ブダペスト・オリエント急行が運行を開始したが、こちらは利用者が少なく翌年には直通を中止している。 このころオリエント急行を利用できたのは、王侯貴族や高級官吏、富豪などのごく限られた人々だった。 パリ・コンスタンティノープル間の一等運賃と寝台料金の合計は当時のの給料1年分に相当したという。 第一次世界大戦 [ ] にが勃発するとオリエント急行は運休を余儀なくされた。 末のの敗北により、からイスタンブールまでがの線路でつながると、ドイツは翌1月15日からおよび - 間で「(Balkanzug)」の運転を始めた。 ドイツはかねてから国際寝台車会社の路線網がパリを中心に構成されており、オリエント急行もドイツ南部を通りすぎるのみで首都ベルリンを軽視していることに不満を抱いており、バルカン列車はオリエント急行に取って代わろうとしたものであった。 しかし10月には同盟国のでの敗退により運行を終えた。 戦間期 [ ] オーステンデ・ウィーン・オリエント急行とアールベルク・オリエント急行 休戦後、オリエント急行は1月18日からパリ - ウィーン - ブカレスト・間で「軍用豪華列車」として運行を再開したが、利用できるのはの軍人か軍の許可を得た者のみだった。 またパリ - ウィーン間の経路は領を避け、の、を経由してに入り、 を通って、に至るというものだった。 同年4月からは、パリ - ヴェネツィア間のシンプロン急行(Simplon Express)を延長する形で、パリ - ベオグラード間に シンプロン・オリエント急行(Simplon Orient-Express)が経由で運行を開始した。 オリエント急行をシンプロントンネル経由で運転することはのトンネル開通時から計画されていたが、この経路では領をまったく経由せず、も南部を通りすぎるのみだったため、両大国の反発を招き実現していなかった。 大戦後は両敗戦国の国際列車に関する発言力は低下し、そもそも領内通過自体が困難な状況であったため、シンプロントンネル経由が採用された。 シンプロン・オリエント急行は翌にはイスタンブールまで直通するようになった。 1919年6月28日に調印されたには鉄道に関する条項もあり、ドイツは連合国から直通する国際列車を国内の最速列車と同様の待遇で通過させることが義務づけられた。 ほかの同盟国と連合国との講和条約にも同様の条項があった。 とはいえドイツ国内の線路の荒廃やの不足、さらにフランスとドイツの間で勃発したのためオリエント急行のドイツ領通過はまだ困難だった。 ストラスブール、ミュンヘン経由のオリエント急行は5月にまで再開されたものの、運行は不安定であり、からはドイツ領を迂回しアールベルクトンネル経由となった。 ミュンヘン経由のオリエント急行が復活したのは11月のことである。 またアールベルクトンネル経由の経路は5月から アールベルク・オリエント急行(Arlberg Orient-Express)と名付けられた。 はオリエント急行の最盛期であり、シンプロン・オリエント急行がおよびパリからおよびまで毎日運行、オリエント急行(ストラスブール経由)が週3便カレー・パリからイスタンブール(ベオグラードからはシンプロン・オリエント急行と併結)・ブカレストへ、アールベルク・オリエント急行が週3便(オリエント急行とは別の日)にカレー・パリからブカレスト・アテネへ運行された。 このほか、オーステンデ、ベルリン、などからの客車が途中駅から併結されることもあった。 またこの時期、イスタンブールでの終着駅であるの対岸の側にあるからは、オリエント急行に接続してがやまで(の全通までは一部連絡)運行されており、さらに列車や自動車を乗り継いでやまで連絡していた。 当時のではからテヘラン、までの時刻が1枚の表に収められていた。 の勃発により、これらの列車はまずとの領域内のみに短縮され、さらに全列車が運休となった。 第二次世界大戦後 [ ] 第二次世界大戦後のオリエント急行 の終戦後、まず11月にシンプロン・オリエント急行がソフィアまで運行を再開し、1947年にはイスタンブールまでの直通が復活した。 また1946年にはオリエント急行がパリ - ウィーン間で、アールベルク・オリエント急行がパリ - イスタンブール・ブカレスト間で運行を再開した。 アテネへの直通は1950年に再開している。 ただし、これらの列車はやを含む編成となっており、国際寝台車会社の個室寝台車のみで構成された最盛期の姿は蘇らなかった。 時代の到来やの性能向上により、オリエント急行を利用する長距離旅客は減少していた。 またの影響もあり、国境駅での厳格な手荷物検査などが運行の障害となり、所要時間は戦前より大きく延びていた。 この時期「オリエント急行」を名乗った列車には、沿岸からのみを通ってバルカン半島に向かう「バルト・オリエント急行」や、からの()を通ってバルカンに向かう「タウエルン・オリエント急行」があった。 には国際列車の再編が行われ、シンプロン・オリエント急行とアールベルク・オリエント急行はイスタンブール・アテネへの直通を中止し、列車名から「オリエント」の字を外した。 これに代わり、パリからバルカン半島方面への座席急行列車に直通の寝台車を連結する形で ダイレクト・オリエント急行(Direct Orient Express、直通オリエント急行)がイスタンブールおよびアテネへ各週2便運行されるようになった。 ただしダイレクト・オリエント急行の実態は各国のローカル列車に老朽化した寝台車がわずかに連結されているのみであり、停車駅が多く時間調整のための長時間停車もあった。 は一部区間でしか連結されず、当時の旅行記では食事の確保にすら苦労した様子が描かれている。 無論、全線を乗り通す乗客は少なかった。 は国際寝台車会社が寝台車の営業から撤退し、その車両はヨーロッパ寝台車プール(TEN)に引き継がれた。 にはダイレクト・オリエント急行が廃止され、パリ発5月19日、イスタンブール発5月22日の列車が最終列車となった。 これによりパリ - イスタンブール間の直通列車は消滅した。 イスタンブール直通廃止後 [ ] ストラスブール・ウィーン経由のオリエント急行は、からパリからブダペストまたはブカレストへの国際夜行列車となっていた。 ダイレクト・オリエント急行の廃止後もブカレストへのオリエント急行は運行されていたが、6月のダイヤ改正で運行区間をパリ - ウィーン()間に短縮し、262・263列車となった。 これによりスピードアップが図られたが、の連結は取りやめられた。 2002年11月6日、パリ発ウィーン行きの列車がフランス国内のナンシー駅発車後、寝台車で火災が発生し12名が死亡する事故が起きた。 3月時点でのパリ - ウィーン間直通の編成は次のようなものであった。 寝台車1両 - クシェット(簡易寝台車)2両 - 3両 その他に、パリ - ストラスブール間と - ウィーン間でおよび2等座席車が増結されていた。 6月10日にが開業したことにともない、運転区間が現行のストラスブール - ウィーン間に短縮され、ストラスブールでに接続するダイヤに改められたほか、停車駅の大幅な削減が実施された。 12月のダイヤ改正でオリエント急行の列車番号は468・469と改められた。 この時点での停車駅は以下の通りである• 中央駅• 中央駅• 中央駅• 中央駅• 中央駅• 中央駅• 中央駅• コスト高や網の発展により、この列車も8時59分ストラスブール着の列車を最後に廃止された。 車両・編成 [ ] 登場時のオリエント急行は2両、1両、(兼乗務員車)2両の編成で、寝台車には4人用個室3室と2人用個室4室があった。 寝台車と食堂車はで、荷物車はであった。 ボギー車は1880年代までのヨーロッパではあまり普及しておらず、本格的に採用したのはオリエント急行が初めてであった。 車体はいずれも木製であるが、材を使用し当時の一般的な車両よりも頑丈な構造であった。 また車齢4年以上の客車は使用しないと宣伝していた。 初頭まで国際寝台車の客車には特に決まった形式というものはなく、車両ごとに仕様は少しずつ異なっていた。 1898年ごろに投入された新型寝台車では4人個室1室、2人個室7室の構成であった。 から国際寝台車会社は同社初の標準型寝台車であるR型の製造を始め、オリエント急行にも使用した。 R型は2人用個室9室からなり、ほかに洗面室3室を備えていた。 にはR型の増備にともない、オリエント急行の寝台車は3両に増えた。 また荷物車もこのころまでに大型のボギー車になった。 第一次世界大戦後、国際寝台車会社は1922年から製のS型寝台車の製造を始めたが、これはまずなど西ヨーロッパの列車に用いられ、オリエント急行で使われたのはからである。 これ以降Z型、Y型、LX型などの新型車両が登場し、これらもオリエント急行に用いられた。 ただしY型の使用は後であり、LX型はシンプロン・オリエント急行のフランスからスイス、イタリアにかけての一部区間で連結されたにとどまる。 第二次世界大戦後のオリエント急行は沿線各国の鉄道の保有する、などを主体とした編成に、国際寝台車会社の寝台車が数両連結される編成となった。 ヨーロッパではじめて(クシェット)を連結したのはオリエント急行である。 オリエント急行を復元した観光列車 [ ] 旧国際寝台車会社の客車(食堂車) 後のオリエント急行は戦前のような豪華列車ではなくなった。 特に東欧圏の駅停車時には検問が行われ、客離れが進み、出稼ぎの労働者が多く利用するようになった。 一方、以降、旧国際寝台車会社の客車などを使用し戦前のオリエント急行を復元した観光列車が運行されている。 古くはに国際寝台車会社自身が「まだひとつのヨーロッパがあったとき」と題して豪華列車によるツアーを募集した例があるが、このときは料金が高すぎたために客が集まらず実現に至らなかった。 3月にはのWalter Finkbohnerの企画により、「特別シンプロン・オリエント急行」と名付けられた列車が - 間を走った。 同年10月にはFinkbohnerの友人のスイス人実業家アルバート・グラッツが - イスタンブール間で「特別アールベルク・オリエント急行」と名付けた列車を走らせた。 これはのちのノスタルジー・オリエント急行の基になっている。 末から初頭の時点においてヨーロッパで運行されている「オリエント急行」を名乗る観光列車には以下の3つがある。 ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行(Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)、旧名ノスタルジー・オリエント急行(Nostalgie Orient Express、NOE) - スイスの旅行会社インターフルーク社が1977年から運行を始めた列車。 ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス( ベニス・シンプロン・オリエント急行、Venice Simplon Orient Express、VSOE) - オリエント・エクスプレス・ホテルズ社(現・)が1982年に運行を始めた列車。 プルマン・オリエント急行(Pullman Orient Express、POE) - フランスのの傘下に入ったワゴン・リ社が所有する列車。 寝台車はなく昼行専用である。 なお、これらの観光列車で用いられている車両は1930年前後に製造されたものであり、スペースや室内設備の機能性などの面では、の新型列車の個室寝台に見劣りするところもある。 しかしながら調度品の質や人的なサービスの充実、車内でのイベント出席の際のドレスコードが設けられているなど、演出としての豪華さのみならず、列車の格調や風格、ステイタス性に関してはほかのいかなる観光列車と比べても際立っている。 また、NIOE、VSOEとも寝台車はLx型を使用しているが、Lx型は本来など西ヨーロッパ圏内の列車で用いられていた車両であり、国際寝台車会社のオリエント急行では一部区間でのみ連結されていた。 プルマン・カー(サロン・カー)も同様である。 ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行 [ ] 詳細は「」を参照 スイスのに本社を置いていたインターフルーク社(REISEBURO INTRAFRUG. G-イントラフルーク、イントラフラッグと呼ぶ記述も存在した)は、かつての国際寝台車会社の寝台車を購入・復元し、から観光列車として運転していた。 1977年にはこの列車に 「ノスタルジー・オリエント急行(Nostalgie Orient Express、NOE)」と名付けた。 「ノスタルジー」を冠したのは定期列車のオリエント急行と区別するためである。 ノスタルジー・オリエント急行としての初の走行は、1977年3月から4月にかけてのチューリッヒ - イスタンブール間であった。 その後は主としてチューリッヒを起点にツアー列車としてヨーロッパ各地を走行した。 1983年にはベニス・シンプロン・オリエント急行との区別のため名を 「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行(Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)」と改めた。 NIOEの車両を使用して運行された特別列車のうち、著名なものには以下がある。 1983年10月 - オリエント急行100周年記念列車「Le Centenaire」としてパリ - イスタンブール間を走行。 1988年9月 - パリから経由まで、および国内を走行。 詳細はを参照。 1992年 - のヨーロッパツアーに際し、その専用列車となる。 、インターフルーク社は経営難のためにNIOEを手放した。 客車は同じスイスの旅行会社「ライズビューロー・ミッテルスルガウ」社に引き取られたほか、一部は企業などに渡った。 2002年、ライズビューロー・ミッテルスルガウ社は経営統合にともなってNIOEを手放し、スイスの鉄道旅行会社「Trans Europ Eisenbahn AG(TEAG)」に買い取られ、で設立されたOrient Express Train de Luxe AGが窓口となって主に団体向けのチャーター列車として運用された。 この時期のNIOEは旧国際寝台車会社の客車のほか、「」用の客車などより新しい客車も混ざった編成で運行されていた。 しかし、登録されていた「オリエントエクスプレス」という名称の使用権に纏わる権利問題が生じ、オリエントエクスプレス・ホテルズ社とフランス国鉄から訴訟を起こされることとなったため、2007年以降はNIOEという名称での運行はしておらず、Orient Express Train de Luxe AGのウェブページも閉鎖されている。 ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス [ ] VSOEのブリティッシュ・プルマン編成 であるシーコンテナ社社長のジェームズ・シャーウッドはにで国際寝台車会社の寝台車を落札し、その後も車両を買い増して、社という子会社を設立しから 「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(VSOE)」として運行を始めた。 VSOEはツアー列車としてのとの(ベニス)の間を結んでいる。 ロンドン - ()間は元のイギリス法人が保有していた座席車(ブリティッシュ・プルマン)を使用する。 はかつては船で渡っていたが、2009年時点では専用バスに乗り換えてによりに至る。 カレー からは元国際寝台車会社の車両による編成となり、を経由しに至る。 なお、運行開始時にはパリ - ヴェネツィア間はかつてのシンプロン・オリエント急行の経路をたどり、を経由していたが、のちにアールベルク・オリエント急行の経路の一部をたどって()、に至り、そこから経由でイタリアに向かう経路に変更された。 これはこの経路の方が遠回りではあるものの、沿線の景色がよいためである。 このほかまで運行されることもあり、またや、などへ特別運行されることもある。 ブリティッシュ・プルマン編成はVSOEのほかイギリス国内のツアー列車にも用いられる。 2003年から2006年にかけて旧国際寝台車会社の車輌の更新改造が施され、時速160キロ走行に対応した新しい台車に交換されている。 大陸側では1泊2日の旅だが、ディナーのは指定、乗客の要望に対応するが同乗するうえ、記念として列車内にあるからを出すことが可能である。 プルマン・オリエント急行 [ ] 「プルマン・オリエント急行(Pullman Orient Express)」はフランスのグループ傘下となったワゴン・リ社が保有する編成である。 編成は食堂車とサロンカーが主体であり、寝台車はない。 おもにフランス国内で日帰りのツアー列車として運行されている。 2008年現在、シンガポールからバンコクを2泊3日、バンコクからシンガポールを3泊4日、そしてタイのバンコクからを周遊するコースが通年で運行されている。 コースの中にはやアルヒル桟道橋を通過する区間が含まれる。 いずれもヨーロッパの「オリエント急行」と同系列で雰囲気やサービス、食事も豪華そのものである。 なお使用される車両はで使われていた日本製の「」を改装したものである。 チャイナ・オリエント急行 [ ] では、沿いで 「チャイナ・オリエント急行」が運行されている。 これは、の旅行会社が中国国鉄の元貴賓車を観光用に貸し切り、ととの間で運行を行うツアーの名称で、から行われている。 ロイヤル・オリエント・トレイン [ ] また、では豪族マハーラージャの専用列車を復元した宮殿列車がから 「」の名前で運行されている。 これは、からに面したマハーラージャゆかりの各地までの約1,400キロを7泊8日かけて往復する観光列車で、途中各地で下車しての観光が組まれている。 北アメリカの観光列車 [ ] 「オリエント急行」の名前を冠した観光列車は北アメリカにも存在する。 これらは東洋には関係がないが、かつての鉄道黄金時代の車両を復元したという点でヨーロッパの「オリエント急行」と似ている。 北アメリカの「オリエント急行」は2列車存在する。 アメリカン・オリエント急行 ひとつは、オレゴン・レイルホールディングス社が所有する 「アメリカン・オリエント急行」である。 前後に運行されていたアメリカの客車を改造し観光列車に仕立てたもので、の「」で運用されていた流線形やミルウォーキー鉄道で運用されていたスーパードーム車など、アメリカの鉄道黄金時代の各鉄道の有名な客車が組み込まれている。 北はカナダ、南はメキシコまで足を伸ばすが、走行するルートはほぼ決まっており、季節に応じたツアーが設定されている。 しかし、2008年ごろに運営していた企業が経営破綻し、運行休止を余儀なくされた。 その後、アメリカン・オリエント急行で使用されていた客車は、新たな運営企業の元で「 グランドルクス・エクスプレス(Grand Luxe Express)」として現在も使用されている。 現在、おもなコースとしてとを結ぶルートで運行されている。 サウス・オリエント急行 もう一つは、 「サウス・オリエント急行」である。 「シエラマドレ急行」が正式な名称。 「アメリカン・オリエント急行」ほどは知られていないが、やはりかつての流線形車両を復元し、の息をのむような景色を眺めることを目当てとした観光列車で、1980年代から2009年までメキシコ北部で運行を行った。 その他の「オリエント急行」 [ ] オリエントを冠した列車としては、上記の一連の「オリエント急行」のほか、のひとつである(現・)の 「オリエンタル特急()」という列車を挙げることができる。 この列車は、から1930年代にかけて - 間で運行されていたが、シアトルではの太平洋航路に連絡しており、アメリカと東洋を結ぶ列車として機能していた。 このほかにも施設として利用されたものとして、かつてに存在したに「オリエント急行ホテル」が存在した。 旧西ドイツの蒸気機関車と、ワゴン・リのLXタイプ寝台車が数両線路の上に乗った状態で、ホテル敷地内の宿泊施設として使用されていたが、のちに老朽化のためすべて解体撤去されてしまった。 ホテルもその後に廃業している。 この施設はの書籍にも紹介されたことがある。 年表 [ ]• - 設立。 - 発コンスタンチノープル(現・)行き(一部船舶連絡)「オリエント急行」開通記念列車運転。 - 定期列車として運行開始。 - コンスタンチノープルまでの直通運転が実現する。 - のため運行休止。 - 「軍用豪華列車」として運行再開。 4月 - 「シンプロン・オリエント急行」、パリ - 間で運行開始。 - 「シンプロン・オリエント急行」、イスタンブールまでの直通運転開始。 - 経由の「オリエント急行」運行再開。 - 「アールベルク・オリエント急行」登場。 中、運行休止。 11月 - 「シンプロン・オリエント急行」運行再開。 - 「オリエント急行」、「アールベルク・オリエント急行」運行再開。 - 「シンプロン・オリエント急行」、「アールベルク・オリエント急行」は区間短縮のうえ「シンプロン急行」、「アールベルク急行」と改名。 パリ - イスタンブール、間で「ダイレクト・オリエント急行」運行開始。 - 国際寝台車会社、鉄道事業から撤退。 ヨーロッパ寝台車プール発足。 - スイスのインターフルーク社の「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行(NIOE)」運行開始。 5月 - 「ダイレクト・オリエント急行」廃止。 パリ - イスタンブール間の定期列車全廃。 - オリエント・エクスプレス・ホテルズ社の「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(VSOE)が運行開始。 - ORIENT EXPRESS '88 運転。 NIOEがパリ - 香港間および日本のJR線を走行。 6月 - 定期列車の「オリエント急行」、パリ - 間に短縮。 6月 - 定期列車、 - ウィーン間に短縮。 12月 - 定期列車廃止。 オリエント急行を題材にした作品 [ ] イスタンブール直通の「オリエント急行」は、上流貴顕の乗車が多く、東洋に連なる列車であることから、エキゾチシズムを伴った豪奢な乗り物というイメージが世界的に広く敷衍していた。 また国際的な紛争多発地域であるを経由ルートとしており、第二次世界大戦後の東西下にはイデオロギーの相違する多数の国々を貫通して運行された。 このような特徴は、古くから興味深い題材として作家たちの関心を集めることにもなり、しばしばの「走る舞台」に取り上げられた。 の『寝台車のマドンナ』()にはオリエント急行をはじめとする寝台列車が登場する。 による群像劇的な小説『スタンブール特急』()は、イスタンブール行のオーステンデ・ウィーン・オリエント急行が舞台である。 または、である夫が中東方面に赴く際に、たびたびシンプロン・オリエント急行に同伴して乗車したといい、同急行を舞台とした『』をに発表している。 この作品はに監督でされており、蒸気機関車はフランス国鉄が動態保存していた230G-353を利用した。 この機関車は既述の通り、1988年に日本まで走ったノスタルジー・イスタンブール・オリエントエクスプレスのパリ発車時のスタートを飾る機関車として、その大役を果たしている。 一方、東ヨーロッパ側からは、オリエント急行を批判的に描いた作品も存在する。 ブルガリアの作家アーレコ・イワニコフ・コンスタンティノフの小説『バイ・ガーニュ』()はオリエント急行に乗った商人を風刺的に描いている。 第二次世界大戦後には、が「シリーズ」のひとつとして『ロシアから愛をこめて』()を書いている。 作中ではイスタンブールからまでシンプロン・オリエント急行に乗車する。 この小説はのちにに主演で『』として映画化されており、「オリエント急行」でのシーンも見せ場のひとつとして描かれている。 また、この列車を題材とした音楽としては、イギリスの作曲家 による編成の作品『オリエント急行(Orient Express)』()が広く知られる。 この曲はスパークの代表曲のひとつとされ、(EBU)のNew Music for Band Competitionで第1位を獲得した。 急行列車の出発から到着までの様々な場面を音楽によって描いた、輝かしい曲想を特徴とするである。 曲は、出発時・走行時・到着時等におけるの走行音、の音、の笛の音などが描写され、旅情を伝える一方、中間部では、故郷への郷愁を想起させるようなやや感傷的な旋律も登場する。 10分足らずの単一楽章の楽曲で、オリエント急行の旅を描くこの曲は、のちに作曲者スパーク自身の手によって編成へもされており、日本国内においても各種学校から市民バンドに至るまで多くの楽団によってコンサートやなどの場にて頻繁に演奏され、人気がある。 日本国内で発行された漫画『』(・、作画・)では、物語の舞台となる夜行列車「幻夜号」の車両や接客サービスの参考にされている。 また、オリエント急行を舞台としたサスペンス仕立ての漫画『』()もある。 ギャンブル漫画『』(、原案協力・)の第65話(熱闘!! オリエント急行!! の巻)から第71話では、オリエント急行内での対決が描かれている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• The Independent. 2009年8月23日閲覧。 平井 pp. 269-271• 「オリエント急行百年の歴史」 教育社編『オリエント急行』• Guizol, p. 88 - 89• Koschinski p. 「『ブルーのプリマドンナ』へ愛をこめて」 『オリエント急行』 新潮社• Malaspina p. 112• - イギリス・インディペンデント紙 電子版 - 2002年11月6日作成・2020年4月29日閲覧• トーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表 2009年冬・春号• 平井 pp. 261-263• Malaspina p. 76-77• 77-79• 2010年11月15日閲覧。 2010年11月15日閲覧。 Koschinski p. - American-rails. com - 2020年4月29日閲覧 参考文献 [ ]• Koschinski, Konrad 2008. 125 Jahre Orient-Express. Eisenbahn Journal Sonder-Ausgabe. Verlangsgruppe Bahn GmbH. 『オリエント急行の時代』〈〉、2006年。 Malaspina, Jean-Pierre 2006. Trains d'Europe -Tome 2-. Paris: La Vie du Rail. Guizol, Alban 2005. La Compagnie International des Wagons-lits. 『オリエント急行の旅』、1997年。 『オリエント急行』教育社、教育社〈Comon sense books〉、東村山、1985年8月。 窪田太郎 他『オリエント急行』〈とんぼの本〉、東京、1984年1月。 マイケル・バースレイ『旅愁オリエント急行』河合伸訳、世紀社、東京、1978年(原著1966年)。 関連項目 [ ]• (イスタンブールにおけるオリエント急行の終着駅) 外部リンク [ ]• (日本語)• 『』 -.

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エクスプレスルート

ExpressRouteとは、オンプレ環境~Azure 間を専用線で接続する帯域保証型サービスです。 よって、安心・安全・高品質な回線を利用できます。 保証帯域は、下記速度から選択可能。 [50Mbps,100Mbps,200Mbps,500Mbps,1Gbps,2Gbps,5Gbps,10Gbps] また、 Azureからの「送信データ転送量」を[無制限] or [従量課金]から選択。 【ExpressRoute 物理構成図】 L2接続プロバイダー:CEとMSEEを直接接続する構成。 CEルータを自身で設定できるので、自由にルーティング設計ができる。 L3接続プロバイダー:CEは、PEと接続するだけでOK。 ルーティング設定は、プロバイダーにおまかせできる。 Azureバックボーンへの接続もここを経由して行われる。 【ExpressRoute ピアリング 接続図】 Privateピアリング ・IaaS環境へ接続。 プライベートでも可。 オンプレミス~Privateピアリング間の通信 VnetのIPセグメントがオンプレミス ルータに伝播される。 送信元のプライベートIPをNAT用パブリックIPにてSNAT PAT します。 宛先となるNAT用パブリックIPをIPフォワードでDNATします。 Privateピアリング~Microsoftピアリング間の通信 両方のルートはPEにて集約されるため、PE経由となる。 【仮想ネットワークとの接続】 構成に特徴があるので、図を用いて説明します。 ・Microsoft Enterprise Edge Router MSEE は冗長化されている ・オンプレ1~オンプレ2間の通信は、ExpressRoute Global Reachで可能 ・VNet01は、オンプレ1とオンプレ2、Vnet10に対して通信可能 ・バックボーンには帯域保証が無い 【ジオリージョン】 [北米] 米国東部、米国西部、米国東部 2、米国中部、米国中南部、米国中北部、米国中西部、カナダ中部、カナダ東部 [ヨーロッパ] フランス中部、フランス南部、北ヨーロッパ、西ヨーロッパ、英国西部、英国南部 [アジア] 東アジア、東南アジア [日本] 西日本、東日本 [韓国] 韓国中部、韓国南部 [オーストラリア] オーストラリア東部、オーストラリア南東部 [インド] インド西部、インド中部、インド南部 [南アフリカ] 南アフリカ西部、南アフリカ北部 [南アメリカ] ブラジル南部.

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名古屋市の軽貨物運送会社 株式会社ルートエクスプレス

エクスプレスルート

概要 [ ] オリエント急行の起源は、(日本での通称「ワゴン・リ」社)により1883年に運行が開始された - ()間の列車(当時は一部船舶連絡)である。 その後、とを結ぶ国際寝台車会社の列車群が「オリエント急行」を名乗るようになった。 西ヨーロッパ側の起点はパリのほかのやのなどがあり、バルカン半島側の終点はイスタンブールのほかのやの、などがあった。 これらの列車は出発地や途中の経路により以下のように名付けられていた。 オリエント急行(Orient Express):1883年 - 2009年• (イスタンブール行)カレー - パリ - (シュトラスブルク) - - - - - - - - - イスタンブール(コンスタンティノープル)• (アテネ行)ニシュ - - アテネ• (ルーマニア方面行) ブダペスト - ブカレスト - コンスタンツァ• (Oostende Wien Orient Express):1900年 - 1939年• オーステンデ - - - - - リンツ(以下、オリエント急行に併結)• シンプロン・オリエント急行(Simplon Orient Express):1919年 - 1962年• (イスタンブール、アテネ行) カレー - パリ - -()- - - - - - - ベオグラード(以下、オリエント急行イスタンブール、アテネ行と同じ)• (ブカレスト行) ヴィーンコヴチ - - ブカレスト• アールベルク・オリエント急行(Arlberg Orient Express):1931年 - 1962年• カレー - パリ - - -()- - ザルツブルク(以下、オリエント急行と同じ)• バルト・オリエント急行(Balt Orient Express):1948年 - 1995年• - () -(連絡船)- オドラ・ポート(現・) - - ブダペスト - ブカレスト、ベオグラード。 のちに起点をに変更。 ダイレクト・オリエント急行(Direct Orient Express):1962年 - 1977年• パリ - イスタンブール、アテネ(経路はシンプロン・オリエント急行と同じ)• タウエルン・オリエント急行(Tauern Orient Express):1966年 - 1979年• ミュンヘン -(タウエルントンネル)- リュブリャナ(以下、ダイレクト・オリエント急行と同じ) いずれも時期によって区間や経由地は少しずつ異なり、またこのほかにも途中駅での客車の併結、分割は多数行われていた。 後は区間短縮や廃止が相次いでおり、2009年時点で残ったのはストラスブール - ウィーン間のオリエント急行のみであった。 これは国際の一列車となっていたが、2009年12月14日に廃止された。 第二次世界大戦前まで、これらの列車は原則として国際寝台車会社の客車のみで編成されており、西ヨーロッパと東ヨーロッパ・を結ぶ列車として、王侯貴族や外交官、裕福な商人や旅行者などに愛用された。 車両の豪華さに限れば、(ル・トラン・ブルー)などの西ヨーロッパ圏内の豪華列車に比べ一段劣っていたものの、西ヨーロッパ人にとっては異文化圏である「」へ向かう列車として、また東ヨーロッパやアジアの上流階層の人々にとっては彼らと西ヨーロッパを結びつけるものとして名声を得た。 第二次大戦後はの普及やのためこうした性格は失われ、列車は通常のや主体の編成に国際寝台車会社の寝台車が併結されるにすぎないものとなった。 には国際寝台車会社が寝台車事業から撤退し、寝台車は各国のが保有するものとなった。 なお、上記以外の正式名称に「オリエント」のつかない列車でも、東西ヨーロッパを結ぶ列車のことをなどが「オリエント急行」と呼ぶことがある。 一方で、1920年代から30年代の国際寝台車会社の車両を復元した観光列車が以降登場しており、これらも「オリエント急行」を名乗っている。 おもなものには以下がある(で後述)。 ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス( ベニス・シンプロン・オリエント急行、Venice Simplon Orient Express、VSOE) - オリエント・エクスプレス・ホテルズ(現・)が1982年に運行を開始した、とを結ぶ観光列車。 ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行(Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)、旧名ノスタルジー・オリエント急行(Nostalgie Orient Express、NOE) - のインターフルーク社が1977年から運行を始めた観光列車。 プルマン・オリエント急行(Pullman Orient Express、POE) - フランスのの傘下に入った国際寝台車会社が所有する列車。 寝台車はなく食堂車とラウンジカーによって編成された昼行専用である。 さらにヨーロッパの列車とは特に関係のない観光列車の名称としても用いられている。 歴史 [ ] 「」も参照 、の銀行家の息子であるはを設立した。 彼はにアメリカを旅行し、アメリカのプルマン社のに感銘を受け、ヨーロッパでの寝台車会社の設立を思い立った。 アメリカ人の大富豪、ウィリアム・ダルトン・マンもこの会社の設立を支援し、当時に進出しようとしていたとの参入競争を繰り広げていた。 西ヨーロッパとを結ぶオリエント急行は同社の看板列車として計画されており、初めにはパリ・ウィーン間でや豪華寝台車の運行が始まっていた。 開通記念列車 [ ] オリエント急行の開通記念列車は夜にパリ・ストラスブール駅(現・)を発車し、6日かけてコンスタンティノープル()に到着した。 なおでは首都の市名を「イスタンブール」と称していたが、では旧名の「コンスタンティノープル」が使われており、「オリエント急行」の行き先も旧名で表記されていた。 経路はパリ() - シュトラスブルク(、現・) - - () - - () - - - () - - コンスタンティノープル()である。 ただしこのときにはコンスタンティノープルまでの線路は全通しておらず、国際寝台車会社の車両で運行されたのはジュルジュまでで、を船で渡り、ルセ - ヴァルナ間は資本のブルガリアの鉄道の通常の客車を利用、ヴァルナ - コンスタンティノープル間はでを渡った。 記念列車は2両、1両、(兼)2両の編成であった。 寝台車と食堂車はを使用しており、国際寝台車会社創業時のやからは大幅に乗り心地が向上していた。 記念列車には沿線各国の高官や鉄道関係者、ジャーナリストなどが招待されたほか、ナゲルマケールスをはじめとする国際寝台車会社の幹部も乗車した。 途中ルーマニアでは国王自ら離宮に招待するなど、沿線各国で歓迎を受けた。 招待客の中には出身で在住の作家エドモンド・アブーと、紙のパリ特派員アンリ・ステファン・オペル・ドブラヴィッツが含まれており、新列車は彼らの筆により西ヨーロッパに紹介された。 ドブラヴィッツはさらに到着地のイスタンブールでと西ヨーロッパのジャーナリストとしては初の単独会見に成功している。 第一次世界大戦前 [ ] オリエント急行(青)と関連列車(第一次世界大戦前) 定期列車としてのオリエント急行は、1883年10月25日からパリ - ジュルジュ間で営業を開始した。 連絡する船舶などと合わせたパリからコンスタンティノープルまでの所要時間は81時間41分である。 当初は週1便の運行であったが、1885年には途中のウィーンまで毎日運行となった。 またからは当初のルートのほかブダペストから、を経由する列車(一部連絡)も運転された。 には念願のコンスタンティノープルまでの列車の直通運転がベオグラード・ソフィア経由で実現した。 これによりパリからコンスタンティノープルへの所要時間は67時間46分にまで短縮された。 には列車名の表記をのExpress d'Orientから式語順のOrient Expressに改めた。 またにはルーマニア国内での鉄橋が開通し、ルーマニア方面へのオリエント急行は経由行となった。 直通運転が実現したとはいえ、オリエント急行の走る東ヨーロッパの政情は不安定であり、の整備も西ヨーロッパと比べ遅れていた。 このため列車の運行にはさまざまな困難が伴った。 には盗賊団が列車を襲い、乗客をしてを要求する事件が起こった。 またにはバルカン半島でのの流行のため列車が10日間隔離された。 には、のからに至るの客車の一部がオリエント急行に併結されてコンスタンツァおよびコンスタンティノープルに直通するようになり、 オーステンデ・ウィーン・オリエント急行と名付けられた。 オーステンデではからの連絡船に接続しており、これによってイギリスからバルカン半島方面への所要時間が短縮された。 同年にはからの客車をブダペストでオリエント急行に併結させる ベルリン・ブダペスト・オリエント急行が運行を開始したが、こちらは利用者が少なく翌年には直通を中止している。 このころオリエント急行を利用できたのは、王侯貴族や高級官吏、富豪などのごく限られた人々だった。 パリ・コンスタンティノープル間の一等運賃と寝台料金の合計は当時のの給料1年分に相当したという。 第一次世界大戦 [ ] にが勃発するとオリエント急行は運休を余儀なくされた。 末のの敗北により、からイスタンブールまでがの線路でつながると、ドイツは翌1月15日からおよび - 間で「(Balkanzug)」の運転を始めた。 ドイツはかねてから国際寝台車会社の路線網がパリを中心に構成されており、オリエント急行もドイツ南部を通りすぎるのみで首都ベルリンを軽視していることに不満を抱いており、バルカン列車はオリエント急行に取って代わろうとしたものであった。 しかし10月には同盟国のでの敗退により運行を終えた。 戦間期 [ ] オーステンデ・ウィーン・オリエント急行とアールベルク・オリエント急行 休戦後、オリエント急行は1月18日からパリ - ウィーン - ブカレスト・間で「軍用豪華列車」として運行を再開したが、利用できるのはの軍人か軍の許可を得た者のみだった。 またパリ - ウィーン間の経路は領を避け、の、を経由してに入り、 を通って、に至るというものだった。 同年4月からは、パリ - ヴェネツィア間のシンプロン急行(Simplon Express)を延長する形で、パリ - ベオグラード間に シンプロン・オリエント急行(Simplon Orient-Express)が経由で運行を開始した。 オリエント急行をシンプロントンネル経由で運転することはのトンネル開通時から計画されていたが、この経路では領をまったく経由せず、も南部を通りすぎるのみだったため、両大国の反発を招き実現していなかった。 大戦後は両敗戦国の国際列車に関する発言力は低下し、そもそも領内通過自体が困難な状況であったため、シンプロントンネル経由が採用された。 シンプロン・オリエント急行は翌にはイスタンブールまで直通するようになった。 1919年6月28日に調印されたには鉄道に関する条項もあり、ドイツは連合国から直通する国際列車を国内の最速列車と同様の待遇で通過させることが義務づけられた。 ほかの同盟国と連合国との講和条約にも同様の条項があった。 とはいえドイツ国内の線路の荒廃やの不足、さらにフランスとドイツの間で勃発したのためオリエント急行のドイツ領通過はまだ困難だった。 ストラスブール、ミュンヘン経由のオリエント急行は5月にまで再開されたものの、運行は不安定であり、からはドイツ領を迂回しアールベルクトンネル経由となった。 ミュンヘン経由のオリエント急行が復活したのは11月のことである。 またアールベルクトンネル経由の経路は5月から アールベルク・オリエント急行(Arlberg Orient-Express)と名付けられた。 はオリエント急行の最盛期であり、シンプロン・オリエント急行がおよびパリからおよびまで毎日運行、オリエント急行(ストラスブール経由)が週3便カレー・パリからイスタンブール(ベオグラードからはシンプロン・オリエント急行と併結)・ブカレストへ、アールベルク・オリエント急行が週3便(オリエント急行とは別の日)にカレー・パリからブカレスト・アテネへ運行された。 このほか、オーステンデ、ベルリン、などからの客車が途中駅から併結されることもあった。 またこの時期、イスタンブールでの終着駅であるの対岸の側にあるからは、オリエント急行に接続してがやまで(の全通までは一部連絡)運行されており、さらに列車や自動車を乗り継いでやまで連絡していた。 当時のではからテヘラン、までの時刻が1枚の表に収められていた。 の勃発により、これらの列車はまずとの領域内のみに短縮され、さらに全列車が運休となった。 第二次世界大戦後 [ ] 第二次世界大戦後のオリエント急行 の終戦後、まず11月にシンプロン・オリエント急行がソフィアまで運行を再開し、1947年にはイスタンブールまでの直通が復活した。 また1946年にはオリエント急行がパリ - ウィーン間で、アールベルク・オリエント急行がパリ - イスタンブール・ブカレスト間で運行を再開した。 アテネへの直通は1950年に再開している。 ただし、これらの列車はやを含む編成となっており、国際寝台車会社の個室寝台車のみで構成された最盛期の姿は蘇らなかった。 時代の到来やの性能向上により、オリエント急行を利用する長距離旅客は減少していた。 またの影響もあり、国境駅での厳格な手荷物検査などが運行の障害となり、所要時間は戦前より大きく延びていた。 この時期「オリエント急行」を名乗った列車には、沿岸からのみを通ってバルカン半島に向かう「バルト・オリエント急行」や、からの()を通ってバルカンに向かう「タウエルン・オリエント急行」があった。 には国際列車の再編が行われ、シンプロン・オリエント急行とアールベルク・オリエント急行はイスタンブール・アテネへの直通を中止し、列車名から「オリエント」の字を外した。 これに代わり、パリからバルカン半島方面への座席急行列車に直通の寝台車を連結する形で ダイレクト・オリエント急行(Direct Orient Express、直通オリエント急行)がイスタンブールおよびアテネへ各週2便運行されるようになった。 ただしダイレクト・オリエント急行の実態は各国のローカル列車に老朽化した寝台車がわずかに連結されているのみであり、停車駅が多く時間調整のための長時間停車もあった。 は一部区間でしか連結されず、当時の旅行記では食事の確保にすら苦労した様子が描かれている。 無論、全線を乗り通す乗客は少なかった。 は国際寝台車会社が寝台車の営業から撤退し、その車両はヨーロッパ寝台車プール(TEN)に引き継がれた。 にはダイレクト・オリエント急行が廃止され、パリ発5月19日、イスタンブール発5月22日の列車が最終列車となった。 これによりパリ - イスタンブール間の直通列車は消滅した。 イスタンブール直通廃止後 [ ] ストラスブール・ウィーン経由のオリエント急行は、からパリからブダペストまたはブカレストへの国際夜行列車となっていた。 ダイレクト・オリエント急行の廃止後もブカレストへのオリエント急行は運行されていたが、6月のダイヤ改正で運行区間をパリ - ウィーン()間に短縮し、262・263列車となった。 これによりスピードアップが図られたが、の連結は取りやめられた。 2002年11月6日、パリ発ウィーン行きの列車がフランス国内のナンシー駅発車後、寝台車で火災が発生し12名が死亡する事故が起きた。 3月時点でのパリ - ウィーン間直通の編成は次のようなものであった。 寝台車1両 - クシェット(簡易寝台車)2両 - 3両 その他に、パリ - ストラスブール間と - ウィーン間でおよび2等座席車が増結されていた。 6月10日にが開業したことにともない、運転区間が現行のストラスブール - ウィーン間に短縮され、ストラスブールでに接続するダイヤに改められたほか、停車駅の大幅な削減が実施された。 12月のダイヤ改正でオリエント急行の列車番号は468・469と改められた。 この時点での停車駅は以下の通りである• 中央駅• 中央駅• 中央駅• 中央駅• 中央駅• 中央駅• 中央駅• コスト高や網の発展により、この列車も8時59分ストラスブール着の列車を最後に廃止された。 車両・編成 [ ] 登場時のオリエント急行は2両、1両、(兼乗務員車)2両の編成で、寝台車には4人用個室3室と2人用個室4室があった。 寝台車と食堂車はで、荷物車はであった。 ボギー車は1880年代までのヨーロッパではあまり普及しておらず、本格的に採用したのはオリエント急行が初めてであった。 車体はいずれも木製であるが、材を使用し当時の一般的な車両よりも頑丈な構造であった。 また車齢4年以上の客車は使用しないと宣伝していた。 初頭まで国際寝台車の客車には特に決まった形式というものはなく、車両ごとに仕様は少しずつ異なっていた。 1898年ごろに投入された新型寝台車では4人個室1室、2人個室7室の構成であった。 から国際寝台車会社は同社初の標準型寝台車であるR型の製造を始め、オリエント急行にも使用した。 R型は2人用個室9室からなり、ほかに洗面室3室を備えていた。 にはR型の増備にともない、オリエント急行の寝台車は3両に増えた。 また荷物車もこのころまでに大型のボギー車になった。 第一次世界大戦後、国際寝台車会社は1922年から製のS型寝台車の製造を始めたが、これはまずなど西ヨーロッパの列車に用いられ、オリエント急行で使われたのはからである。 これ以降Z型、Y型、LX型などの新型車両が登場し、これらもオリエント急行に用いられた。 ただしY型の使用は後であり、LX型はシンプロン・オリエント急行のフランスからスイス、イタリアにかけての一部区間で連結されたにとどまる。 第二次世界大戦後のオリエント急行は沿線各国の鉄道の保有する、などを主体とした編成に、国際寝台車会社の寝台車が数両連結される編成となった。 ヨーロッパではじめて(クシェット)を連結したのはオリエント急行である。 オリエント急行を復元した観光列車 [ ] 旧国際寝台車会社の客車(食堂車) 後のオリエント急行は戦前のような豪華列車ではなくなった。 特に東欧圏の駅停車時には検問が行われ、客離れが進み、出稼ぎの労働者が多く利用するようになった。 一方、以降、旧国際寝台車会社の客車などを使用し戦前のオリエント急行を復元した観光列車が運行されている。 古くはに国際寝台車会社自身が「まだひとつのヨーロッパがあったとき」と題して豪華列車によるツアーを募集した例があるが、このときは料金が高すぎたために客が集まらず実現に至らなかった。 3月にはのWalter Finkbohnerの企画により、「特別シンプロン・オリエント急行」と名付けられた列車が - 間を走った。 同年10月にはFinkbohnerの友人のスイス人実業家アルバート・グラッツが - イスタンブール間で「特別アールベルク・オリエント急行」と名付けた列車を走らせた。 これはのちのノスタルジー・オリエント急行の基になっている。 末から初頭の時点においてヨーロッパで運行されている「オリエント急行」を名乗る観光列車には以下の3つがある。 ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行(Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)、旧名ノスタルジー・オリエント急行(Nostalgie Orient Express、NOE) - スイスの旅行会社インターフルーク社が1977年から運行を始めた列車。 ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス( ベニス・シンプロン・オリエント急行、Venice Simplon Orient Express、VSOE) - オリエント・エクスプレス・ホテルズ社(現・)が1982年に運行を始めた列車。 プルマン・オリエント急行(Pullman Orient Express、POE) - フランスのの傘下に入ったワゴン・リ社が所有する列車。 寝台車はなく昼行専用である。 なお、これらの観光列車で用いられている車両は1930年前後に製造されたものであり、スペースや室内設備の機能性などの面では、の新型列車の個室寝台に見劣りするところもある。 しかしながら調度品の質や人的なサービスの充実、車内でのイベント出席の際のドレスコードが設けられているなど、演出としての豪華さのみならず、列車の格調や風格、ステイタス性に関してはほかのいかなる観光列車と比べても際立っている。 また、NIOE、VSOEとも寝台車はLx型を使用しているが、Lx型は本来など西ヨーロッパ圏内の列車で用いられていた車両であり、国際寝台車会社のオリエント急行では一部区間でのみ連結されていた。 プルマン・カー(サロン・カー)も同様である。 ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行 [ ] 詳細は「」を参照 スイスのに本社を置いていたインターフルーク社(REISEBURO INTRAFRUG. G-イントラフルーク、イントラフラッグと呼ぶ記述も存在した)は、かつての国際寝台車会社の寝台車を購入・復元し、から観光列車として運転していた。 1977年にはこの列車に 「ノスタルジー・オリエント急行(Nostalgie Orient Express、NOE)」と名付けた。 「ノスタルジー」を冠したのは定期列車のオリエント急行と区別するためである。 ノスタルジー・オリエント急行としての初の走行は、1977年3月から4月にかけてのチューリッヒ - イスタンブール間であった。 その後は主としてチューリッヒを起点にツアー列車としてヨーロッパ各地を走行した。 1983年にはベニス・シンプロン・オリエント急行との区別のため名を 「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行(Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)」と改めた。 NIOEの車両を使用して運行された特別列車のうち、著名なものには以下がある。 1983年10月 - オリエント急行100周年記念列車「Le Centenaire」としてパリ - イスタンブール間を走行。 1988年9月 - パリから経由まで、および国内を走行。 詳細はを参照。 1992年 - のヨーロッパツアーに際し、その専用列車となる。 、インターフルーク社は経営難のためにNIOEを手放した。 客車は同じスイスの旅行会社「ライズビューロー・ミッテルスルガウ」社に引き取られたほか、一部は企業などに渡った。 2002年、ライズビューロー・ミッテルスルガウ社は経営統合にともなってNIOEを手放し、スイスの鉄道旅行会社「Trans Europ Eisenbahn AG(TEAG)」に買い取られ、で設立されたOrient Express Train de Luxe AGが窓口となって主に団体向けのチャーター列車として運用された。 この時期のNIOEは旧国際寝台車会社の客車のほか、「」用の客車などより新しい客車も混ざった編成で運行されていた。 しかし、登録されていた「オリエントエクスプレス」という名称の使用権に纏わる権利問題が生じ、オリエントエクスプレス・ホテルズ社とフランス国鉄から訴訟を起こされることとなったため、2007年以降はNIOEという名称での運行はしておらず、Orient Express Train de Luxe AGのウェブページも閉鎖されている。 ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス [ ] VSOEのブリティッシュ・プルマン編成 であるシーコンテナ社社長のジェームズ・シャーウッドはにで国際寝台車会社の寝台車を落札し、その後も車両を買い増して、社という子会社を設立しから 「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(VSOE)」として運行を始めた。 VSOEはツアー列車としてのとの(ベニス)の間を結んでいる。 ロンドン - ()間は元のイギリス法人が保有していた座席車(ブリティッシュ・プルマン)を使用する。 はかつては船で渡っていたが、2009年時点では専用バスに乗り換えてによりに至る。 カレー からは元国際寝台車会社の車両による編成となり、を経由しに至る。 なお、運行開始時にはパリ - ヴェネツィア間はかつてのシンプロン・オリエント急行の経路をたどり、を経由していたが、のちにアールベルク・オリエント急行の経路の一部をたどって()、に至り、そこから経由でイタリアに向かう経路に変更された。 これはこの経路の方が遠回りではあるものの、沿線の景色がよいためである。 このほかまで運行されることもあり、またや、などへ特別運行されることもある。 ブリティッシュ・プルマン編成はVSOEのほかイギリス国内のツアー列車にも用いられる。 2003年から2006年にかけて旧国際寝台車会社の車輌の更新改造が施され、時速160キロ走行に対応した新しい台車に交換されている。 大陸側では1泊2日の旅だが、ディナーのは指定、乗客の要望に対応するが同乗するうえ、記念として列車内にあるからを出すことが可能である。 プルマン・オリエント急行 [ ] 「プルマン・オリエント急行(Pullman Orient Express)」はフランスのグループ傘下となったワゴン・リ社が保有する編成である。 編成は食堂車とサロンカーが主体であり、寝台車はない。 おもにフランス国内で日帰りのツアー列車として運行されている。 2008年現在、シンガポールからバンコクを2泊3日、バンコクからシンガポールを3泊4日、そしてタイのバンコクからを周遊するコースが通年で運行されている。 コースの中にはやアルヒル桟道橋を通過する区間が含まれる。 いずれもヨーロッパの「オリエント急行」と同系列で雰囲気やサービス、食事も豪華そのものである。 なお使用される車両はで使われていた日本製の「」を改装したものである。 チャイナ・オリエント急行 [ ] では、沿いで 「チャイナ・オリエント急行」が運行されている。 これは、の旅行会社が中国国鉄の元貴賓車を観光用に貸し切り、ととの間で運行を行うツアーの名称で、から行われている。 ロイヤル・オリエント・トレイン [ ] また、では豪族マハーラージャの専用列車を復元した宮殿列車がから 「」の名前で運行されている。 これは、からに面したマハーラージャゆかりの各地までの約1,400キロを7泊8日かけて往復する観光列車で、途中各地で下車しての観光が組まれている。 北アメリカの観光列車 [ ] 「オリエント急行」の名前を冠した観光列車は北アメリカにも存在する。 これらは東洋には関係がないが、かつての鉄道黄金時代の車両を復元したという点でヨーロッパの「オリエント急行」と似ている。 北アメリカの「オリエント急行」は2列車存在する。 アメリカン・オリエント急行 ひとつは、オレゴン・レイルホールディングス社が所有する 「アメリカン・オリエント急行」である。 前後に運行されていたアメリカの客車を改造し観光列車に仕立てたもので、の「」で運用されていた流線形やミルウォーキー鉄道で運用されていたスーパードーム車など、アメリカの鉄道黄金時代の各鉄道の有名な客車が組み込まれている。 北はカナダ、南はメキシコまで足を伸ばすが、走行するルートはほぼ決まっており、季節に応じたツアーが設定されている。 しかし、2008年ごろに運営していた企業が経営破綻し、運行休止を余儀なくされた。 その後、アメリカン・オリエント急行で使用されていた客車は、新たな運営企業の元で「 グランドルクス・エクスプレス(Grand Luxe Express)」として現在も使用されている。 現在、おもなコースとしてとを結ぶルートで運行されている。 サウス・オリエント急行 もう一つは、 「サウス・オリエント急行」である。 「シエラマドレ急行」が正式な名称。 「アメリカン・オリエント急行」ほどは知られていないが、やはりかつての流線形車両を復元し、の息をのむような景色を眺めることを目当てとした観光列車で、1980年代から2009年までメキシコ北部で運行を行った。 その他の「オリエント急行」 [ ] オリエントを冠した列車としては、上記の一連の「オリエント急行」のほか、のひとつである(現・)の 「オリエンタル特急()」という列車を挙げることができる。 この列車は、から1930年代にかけて - 間で運行されていたが、シアトルではの太平洋航路に連絡しており、アメリカと東洋を結ぶ列車として機能していた。 このほかにも施設として利用されたものとして、かつてに存在したに「オリエント急行ホテル」が存在した。 旧西ドイツの蒸気機関車と、ワゴン・リのLXタイプ寝台車が数両線路の上に乗った状態で、ホテル敷地内の宿泊施設として使用されていたが、のちに老朽化のためすべて解体撤去されてしまった。 ホテルもその後に廃業している。 この施設はの書籍にも紹介されたことがある。 年表 [ ]• - 設立。 - 発コンスタンチノープル(現・)行き(一部船舶連絡)「オリエント急行」開通記念列車運転。 - 定期列車として運行開始。 - コンスタンチノープルまでの直通運転が実現する。 - のため運行休止。 - 「軍用豪華列車」として運行再開。 4月 - 「シンプロン・オリエント急行」、パリ - 間で運行開始。 - 「シンプロン・オリエント急行」、イスタンブールまでの直通運転開始。 - 経由の「オリエント急行」運行再開。 - 「アールベルク・オリエント急行」登場。 中、運行休止。 11月 - 「シンプロン・オリエント急行」運行再開。 - 「オリエント急行」、「アールベルク・オリエント急行」運行再開。 - 「シンプロン・オリエント急行」、「アールベルク・オリエント急行」は区間短縮のうえ「シンプロン急行」、「アールベルク急行」と改名。 パリ - イスタンブール、間で「ダイレクト・オリエント急行」運行開始。 - 国際寝台車会社、鉄道事業から撤退。 ヨーロッパ寝台車プール発足。 - スイスのインターフルーク社の「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行(NIOE)」運行開始。 5月 - 「ダイレクト・オリエント急行」廃止。 パリ - イスタンブール間の定期列車全廃。 - オリエント・エクスプレス・ホテルズ社の「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(VSOE)が運行開始。 - ORIENT EXPRESS '88 運転。 NIOEがパリ - 香港間および日本のJR線を走行。 6月 - 定期列車の「オリエント急行」、パリ - 間に短縮。 6月 - 定期列車、 - ウィーン間に短縮。 12月 - 定期列車廃止。 オリエント急行を題材にした作品 [ ] イスタンブール直通の「オリエント急行」は、上流貴顕の乗車が多く、東洋に連なる列車であることから、エキゾチシズムを伴った豪奢な乗り物というイメージが世界的に広く敷衍していた。 また国際的な紛争多発地域であるを経由ルートとしており、第二次世界大戦後の東西下にはイデオロギーの相違する多数の国々を貫通して運行された。 このような特徴は、古くから興味深い題材として作家たちの関心を集めることにもなり、しばしばの「走る舞台」に取り上げられた。 の『寝台車のマドンナ』()にはオリエント急行をはじめとする寝台列車が登場する。 による群像劇的な小説『スタンブール特急』()は、イスタンブール行のオーステンデ・ウィーン・オリエント急行が舞台である。 または、である夫が中東方面に赴く際に、たびたびシンプロン・オリエント急行に同伴して乗車したといい、同急行を舞台とした『』をに発表している。 この作品はに監督でされており、蒸気機関車はフランス国鉄が動態保存していた230G-353を利用した。 この機関車は既述の通り、1988年に日本まで走ったノスタルジー・イスタンブール・オリエントエクスプレスのパリ発車時のスタートを飾る機関車として、その大役を果たしている。 一方、東ヨーロッパ側からは、オリエント急行を批判的に描いた作品も存在する。 ブルガリアの作家アーレコ・イワニコフ・コンスタンティノフの小説『バイ・ガーニュ』()はオリエント急行に乗った商人を風刺的に描いている。 第二次世界大戦後には、が「シリーズ」のひとつとして『ロシアから愛をこめて』()を書いている。 作中ではイスタンブールからまでシンプロン・オリエント急行に乗車する。 この小説はのちにに主演で『』として映画化されており、「オリエント急行」でのシーンも見せ場のひとつとして描かれている。 また、この列車を題材とした音楽としては、イギリスの作曲家 による編成の作品『オリエント急行(Orient Express)』()が広く知られる。 この曲はスパークの代表曲のひとつとされ、(EBU)のNew Music for Band Competitionで第1位を獲得した。 急行列車の出発から到着までの様々な場面を音楽によって描いた、輝かしい曲想を特徴とするである。 曲は、出発時・走行時・到着時等におけるの走行音、の音、の笛の音などが描写され、旅情を伝える一方、中間部では、故郷への郷愁を想起させるようなやや感傷的な旋律も登場する。 10分足らずの単一楽章の楽曲で、オリエント急行の旅を描くこの曲は、のちに作曲者スパーク自身の手によって編成へもされており、日本国内においても各種学校から市民バンドに至るまで多くの楽団によってコンサートやなどの場にて頻繁に演奏され、人気がある。 日本国内で発行された漫画『』(・、作画・)では、物語の舞台となる夜行列車「幻夜号」の車両や接客サービスの参考にされている。 また、オリエント急行を舞台としたサスペンス仕立ての漫画『』()もある。 ギャンブル漫画『』(、原案協力・)の第65話(熱闘!! オリエント急行!! の巻)から第71話では、オリエント急行内での対決が描かれている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• The Independent. 2009年8月23日閲覧。 平井 pp. 269-271• 「オリエント急行百年の歴史」 教育社編『オリエント急行』• Guizol, p. 88 - 89• Koschinski p. 「『ブルーのプリマドンナ』へ愛をこめて」 『オリエント急行』 新潮社• Malaspina p. 112• - イギリス・インディペンデント紙 電子版 - 2002年11月6日作成・2020年4月29日閲覧• トーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表 2009年冬・春号• 平井 pp. 261-263• Malaspina p. 76-77• 77-79• 2010年11月15日閲覧。 2010年11月15日閲覧。 Koschinski p. - American-rails. com - 2020年4月29日閲覧 参考文献 [ ]• Koschinski, Konrad 2008. 125 Jahre Orient-Express. Eisenbahn Journal Sonder-Ausgabe. Verlangsgruppe Bahn GmbH. 『オリエント急行の時代』〈〉、2006年。 Malaspina, Jean-Pierre 2006. Trains d'Europe -Tome 2-. Paris: La Vie du Rail. Guizol, Alban 2005. La Compagnie International des Wagons-lits. 『オリエント急行の旅』、1997年。 『オリエント急行』教育社、教育社〈Comon sense books〉、東村山、1985年8月。 窪田太郎 他『オリエント急行』〈とんぼの本〉、東京、1984年1月。 マイケル・バースレイ『旅愁オリエント急行』河合伸訳、世紀社、東京、1978年(原著1966年)。 関連項目 [ ]• (イスタンブールにおけるオリエント急行の終着駅) 外部リンク [ ]• (日本語)• 『』 -.

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