オリンピック マーチ 作曲 者。 古関裕而さん作曲「五輪マーチ」響く 聖火リレー到達式 宮城(福島民報)

専属作曲家・古関裕而のご紹介

オリンピック マーチ 作曲 者

古関裕而作曲のプロ野球の球団歌をご紹介!! 『朝ドラ「エール」を10倍楽しもう!~古関裕而ヒットプレイリスト』も公開!! 2 古関裕而作曲の球団応援歌「六甲おろし」または「闘魂こめて」をBGMに、もりあげる応援動画を撮影。 3 ハッシュタグ「 古関応援歌」と「 古関裕而応援歌六甲おろし」または「 古関裕而応援歌闘魂こめて」の2つを必ず付けて、応援メッセージや熱い思いとともに、撮った動画をツイート。 企画にご参加の方は、あらかじめDM受信可能な設定に変更をお願いします。 古関裕而作曲のプロ野球の球団歌をご紹介!! 古関裕而は、応援歌や行進曲など数多くのスポーツ関連楽曲を作曲したことでも知られていますが、その中にはプロ野球の球団歌もあります。 まもなくのプロ野球開幕に合わせて、古関裕而作曲の球団歌をご紹介します!! 昭和10 1935 年の都市対抗野球でコロムビア準優勝の立役者となった若林忠志投手が入社1年でタイガースに移籍したが、その交渉過程で持ち上がった企画ではないかと推測される。 昭和36 1961 年、阪神タイガースと球団名変更に伴い、再録され細々と命脈を保っていたが、朝日放送の中村鋭一アナが積極的に流し阪神ファンに浸透、超関西国民的楽曲となった。 その後も多くの人が歌っている。 解説:三木 容• 当時「ドラゴンズの歌」も「六甲おろし」もさほど知られていなかったからか、スポーツ音楽のオーソリティ古関が作曲した。 オリジナルでは、当時大人気のアイドル守屋浩、国民的ヒット「喜びも悲しみも幾歳月」の若山彰、社歌や校歌のカリスマ歌手三鷹淳が起用された。 昭和40 1965 年からの巨人V9のタイミングにあったこともあり、ファンの心をつかみ、「巨人の歌の絶対王者」の位置は今も揺るがない。 解説:三木 容• TV番組放送のお知らせ 古関裕而にスポットを当てたTV番組が放送されます。 ぜひご覧ください。 Twitter企画『朝ドラ「エール」にエールを!』スタート!! アルバム『NHK連続テレビ小説「エール」オリジナル・サウンドトラック』の発売を記念して、コロムビアレコード所属の歌手たちが古関裕而作曲の作品をリレー形式で歌うTwitter企画『朝ドラ「エール」にエールを!』が、コロムビアレコード公式Twitterでスタート!! コロムビアレコード公式ツイッターに所属歌手たちがそれぞれの思いを込めて、アカペラ・カラオケ・弾き語り等様々な形で歌唱映像を自撮りした映像を投稿。 冠二郎、クミコ、日野美歌、若山かずさ、多岐川舞子ら約20人の歌手たちの貴重な古関裕而作品の歌唱映像が今後次々と掲載される予定です。 『朝ドラ「エール」を10倍楽しもう!~古関裕而ヒットプレイリスト』公開!! Apple Music・Spotifyで古関メロディーが聴ける! 『朝ドラ「エール」を10倍楽しもう!~古関裕而ヒットプレイリスト』を公開しました!• あなたの街の「別れのワルツ」大募集!! みなさんのご存じ閉店のメロディー「別れのワルツ」ですが、古関裕而が編曲していたことをご存じでしたか。 今でもいろいろな場所で聞くことができますが、みなさんの身の回りの「別れのワルツ」情報を募集します。 「別れのワルツ」はこちらで試聴できます 例: 〇〇〇デパートの閉店の時に流れています。 〇〇〇学校の下校時間に流れています。 〇〇〇公園で夕方になると流れています。 など 頂いた情報は、今後の商品企画の参考にさせて頂きます。 みなさまのご協力よろしくお願いします。 「竹取物語」「君はるか」他、収録内容公開!! オリジナル・サウンドトラックの中には、主人公・裕一が国際作曲コンクールで2等を授賞し音楽の道に戻るきっかけとなった「竹取物語」や、後に妻となる音を想って作曲した「君はるか」など、ドラマの重要なシーンを彩る名曲の数々を収録、今後のドラマの展開と併せて楽しめる充実の内容!! 「今週の古関メロディー」バックナンバー• 当時、コロムビア野球部に所属していた若林忠志がタイガースと契約した背景もあり、球団の買取を条件に発売された「委託盤」であった。 現在は、球団名が変わっただけで阪神の歌「六甲おろし」として制作当時では考えられない人気を誇っている。 作詩の佐藤惣之助は皮肉なことに野球が嫌いだったようだ。 解説:三木 容• 古関会心の和を基調とした美しく歌曲的な作品で、三浦環が気に入り後にレコード化している。 作曲家が前間奏のメロを書いていた時代で、美しいイントロも古関によるものだろう。 ただ和楽器の使い方など奥山による歌謡曲の編曲手法は範となったはずだ。 上京前に書き上げて温めていたものが満を持して発売となった。 これもそんな一曲で、歌詩に福島の情景が多く織り込まれている。 作詩は古関の幼なじみで、現役の福島民友新聞社の記者であった野村俊夫。 浅草のオペラ歌手・天野喜久代が歌ったが、ヒットには至らなかった。 解説:板西 唱三• 応援団に伊藤久男のいとこがいて、伊藤が帝国音楽学校で金子夫人と交友があった縁で、当時無名の作曲家であった古関に作曲が依頼された。 県人繋がりとは言え、応援団と伊藤のこだわりが実を結び、早稲田を代表する応援歌が生まれた。 565名の演奏により高らかに鳴り響いた「オリンピック・マーチ」を聞き、多くの日本人はこの行進曲が日本人の手によることを誇りに思ったのではないだろうか。 清新明朗で格調高い古関作品の神髄である。 唯一日本的と言えるのはコーダーに「君が代」の旋律を取り入れたこと。 戦前のスポーツ音楽の最高峰・山田耕筰の「走れ大地を」での手法を踏襲している。 解説:三木 容• 国民的歌謡である証しの一つは替え歌で歌われることだろう。 丘はのんびりした福島の沼尻軽便鉄道をモデルに作詩、古関はアルプスを颯爽と走る列車をイメージして軽快なメロディーを付けた。 解説:三木 容• 婚約者の道子名義で応募した加賀の作品が入賞し、古関が作曲した。 怪我によりプレイを絶たれた作詩者の野球愛が根底にあり、ありきたりのスポーツ讃歌を超えている。 NHKの高校野球放送でチーム紹介のバックに流れるようになり定着、いまや国民的な歌となった。 解説:三木 容 古関裕而関連作品• それは大学の応援歌から、NHKのスポーツ番組のテーマ「スポーツ行進曲」、東京オリンピックの「オリンピック・マーチ」まで、実に数多くのマーチを作曲し、その世界では圧倒的な実績を誇っているからである。 実際、最初のレコードは、出身地である福島に材を取った「福島行進曲」だった。 それと同じ昭和6 1931 年に、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」を発表している。 だが、古関が単なるマーチ作曲家でなかったことは、数多くのヒット曲をみてもわかる。 実際、「紺碧の空」の翌年には「船頭可愛や」、そして2年後には「露営の歌」を発表している。 まさに多彩な作曲作品を書き、その実績は圧倒的である。 古関裕而は明治42 1909 年、福島市に生まれた。 生家は「喜多三 きたさん 」という呉服屋だった。 5歳の時に父親が蓄音機を買い、そのときにレコードを聴いた記憶がある。 そして10歳の時、卓上ピアノで作曲を始めた。 福島商業学校を卒業した後、音楽家を志していたが、親類の人に「遊んでいるなら、ここに勤めてはどうか」と言われ、その親類が経営していた川俣銀行に勤務する。 銀行在勤中も作曲活動は続けており、福島ハーモニカ・ソサエティーに所属しつつ、ラジオ出演などをこなしていた。 だが音楽への思いは断ちがたく、2年で上京。 昭和5 1930 年、コロムビアと専属契約を結び、はれて作曲家としてスタートすることになる。 昭和12 1937 年、「露営の歌」を作曲し、その翌年29歳で中支に従軍、すぐに除隊し、昭和15 1940 年には名作「暁に祈る」を作曲する。 若い人たちの青春の気分をうまくすくい上げた作風は勇壮なメロディとなったため、戦時歌謡としての色合いが強く、戦争協力者として非難されたこともあった。 しかし古関には好戦の気配などはなく、一貫して青春というものへの熱い思いがあったのだ。 たとえば「若鷲の歌 予科練の歌 」については、「あの歌で予科練を志望した若者も多かっただろうが、その人たちが戦争で死んでしまったことを思うと、とても辛い」と語っている。 そして戦後、作曲家・古関裕而の本格的な活動が始まる。 昭和22 1947 年7月、NHKの連続ドラマ『鐘の鳴る丘』がスタートする。 この番組は昭和25 1950 年12月まで続き、その主題歌「とんがり帽子」は古関裕而のハモンド・オルガンで流され、多くの子供たちの支持を受けた。 この演奏は連日生放送で流され、戦後を彩る歌となった。 この時に使ったハモンド・オルガンは、福島にある「古関裕而記念館」に展示されている。 このほか、歌謡曲で「夢淡き東京」「イヨマンテの夜」「黒百合の歌」や、阪神タイガースの歌「六甲おろし」などがある。 昭和23 1948 年、夏の高校野球のテーマとして、現在でも使われている「栄冠は君に輝く」を作曲。 その翌昭和24 1949 年、長崎での被爆体験を伝えるために人生を捧げた、長崎大学医学部の永井隆博士をテーマにした「長崎の鐘」を作り、永井博士との交流は長く続くことになる。 また昭和27 1952 年、NHKラジオの連続ドラマ『君の名は』の放送が始まり、茶の間の人気を集める。 そのドラマは昭和29 1954 年まで続き、この放送が始まると、銭湯の女湯ががらがらになるという話も出たほどの人気になった。 古関裕而に会った人たちが例外なく言うのは、その人柄の柔らかさである。 それは、その曲のおおらかさとつながっているに違いない。 夫人・金子のすすめで絵を描き始め、79歳の昭和63 1988 年、画集「風景の調べ」を上梓した。 本人は「私にとっては楽譜のない音楽だ」と語っていたという。 平成元 1989 年8月18日逝去、80歳だった。 勲三等瑞宝章受章。 福島市名誉市民。 明治19 1886 年6月9日~昭和40 1965 年12月29日 作曲家。 父は医師でキリスト教の伝道師だったが、耕筰が10歳の時に亡くなり、曲折を経て育つ。 岡山の姉の許に引き取られた時、義兄エドワード・ガントレットに音楽を学ぶ。 東京音楽学校を卒え、岩崎小弥太の援助によりベルリン音楽学校で作曲を学ぶ。 日本の交響楽団育成に力をそそぎ、日本交響楽協会 現NHK交響楽団の前身 を設立するが、後に分裂。 紆余曲折があったが、交響曲・オペラ・映画音楽のジャンルで、日本の西洋クラシック音楽作曲家の先達として活躍、何より日本歌曲の作曲家として唯一の国民的な存在となる成功者であった。 山田は日本のモダニズム形成において、音楽以外に舞踊・演劇・文学にも積極的に関与、日本近代化の文化面で多大な貢献をした。 昭和31 1956 年に文化勲章を受章し、西洋音楽・大衆音楽のカテゴリーで初の受章者となった。 古関は学生時代から山田に憧れを抱き、自作の曲の譜面を郵送するなどして交流があった。 昭和5 1930 年9月、コロムビアの顧問であった山田耕筰の推薦で古関はコロムビア専属作曲家として入社した。 古賀政男 こが・まさお <コロムビアレコード> 明治37 1904 年11月18日~昭和53 1978 年7月25日 作曲家。 現在の福岡県大川市に生まれる。 幼くして父を亡くし、兄のいる朝鮮に渡って生活する中で大正琴やマンドリンと出会う。 帰国後、大正12 1923 年に明治大学予科に入学、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画する。 昭和4 1929 年、マンドリン倶楽部の定期演奏会にて処女作「影を慕いて」を発表。 昭和6 1931 年にはコロムビア専属作曲家となり、一時テイチクに移籍するも、昭和13 1938 年にコロムビアへ復帰。 古関とはほぼ同時にコロムビアへ入社。 同じ専属作曲家として切磋琢磨し、生涯にわたって日本歌謡界の第一線で活躍した。 野村俊夫 のむら・としお <コロムビアレコード> 明治37 1904 年11月21日~昭和41 1966 年10月27日 作詩家。 福島県福島市生まれ。 幼いころから新聞や雑誌に俳句や詩を投稿するなどの創作好き。 大正13 1924 年に地元の新聞社・福島民友新聞社に入社、のちに記者として活躍するも昭和6 1931 年に退社して上京、作詩家としての活動を開始する。 昭和14 1939 年、藤山一郎に提供した「上海夜曲」がヒットし、専属作詩家としてコロムビアに入社して活躍。 戦後、昭和26 1951 年から昭和40 1965 年まで日本音楽著作権協会 JASRAC の理事を務めた。 古関と同じ福島市大町の出身で、子供の頃からよく一緒に遊んでいた。 昭和6 1931 年、既にコロムビア専属作曲家となっていた古関のすすめで上京し、古関と組んだ初のレコード「福島行進曲」 歌:天野喜久代 を発表。 伊藤久男 いとう・ひさお <コロムビアレコード> 明治43 1910 年7月7日~昭和58 1983 年4月25日 歌手。 現在の福島県本宮市生まれ。 実家は旧家で、父は県議会議員、兄は衆議院議員を務めるなど裕福な家庭で育った。 中学校の頃からピアノに傾倒してピアニストを志すが、家族の反対に遭って東京農業大学に入学。 その後、農大を退学して帝国音楽学校に入学するも、家族に知られて仕送りが中止されたため、コロムビアで合いの手やお囃子を吹込むアルバイトを始める。 これがきっかけとなって歌手としての道を進み、昭和15 1940 年には「暁に祈る」「お島千太郎旅唄」などのヒットを飛ばしてスター歌手の仲間入りを果たす。 戦後も「イヨマンテの夜」「山のけむり」などをヒットさせて長く活躍した。 古関とは同郷。 古関の妻である金子が帝国音楽学校で声楽を学んでいたこともあって懇意になる。 早稲田大学の第一応援歌である「紺碧の空」は当時、伊藤のいとこが応援団長だった縁で古関に作曲が依頼された。 昭和8 1933 年には古関のすすめでコロムビアの廉価盤レーベルであるリーガルよりデビュー。 すぐにコロムビアレーベルからデビューし、その後は古関の作曲による「露営の歌」「暁に祈る」「イヨマンテの夜」「君いとしき人よ」などをヒットさせた。 三浦環 みうら・たまき <コロムビアレコード> 明治17 1884 年2月22日~昭和21 1946 年5月26日 オペラ歌手。 東京・京橋生まれ。 幼少のころから日舞や長唄、箏曲などをたしなむ。 明治33 1900 年に東京音楽学校に入学し、在学中の明治36 1903 年、日本初のオペラ公演とされる「オルフェオとエウリディーチェ」で主役のエウリディーチェを演じて好評を博す。 大正2 1913 年に医師の三浦政太郎と結婚後にドイツへ留学。 第一次世界大戦の影響で、程なくしてイギリス・ロンドンに移住し、指揮者であるサー・ヘンリー・ウッドのテストを受けて認められ、アルバート・ホールに出演したことで爆発的な評判を呼び、イギリス国内のみならず各国の新聞でも報じられる。 その後、ロシアのテノール歌手であるウラジミール・ロージンからオペラ「蝶々夫人」の主演を依頼されて大正4 1915 年に初主演。 ここでも話題を集めたためアメリカやヨーロッパ各地で公演し、出演2000回を達成した。 昭和10 1935 年に帰国し、戦争が激化するまでオペラへの出演やリサイタルの開催、レコード吹込みなどを精力的に行った。 古関の著書『鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝』 集英社文庫 によると、昭和10 1935 年にコロムビア専属声楽家だった三浦が帰国した際、彼女を歓迎するコロムビア主催のレセプションで二人は初対面した。 同年は音丸の歌う「船頭可愛や」がヒットしていた折で、後にこの曲を聞いた三浦から、私も吹込みたいとの申し出があり、昭和14 1939 年にレコード化が実現した。 その後、「月のバルカローラ」も作曲して提供、これも同年にレコード化された。 当時のコロムビアでは、外国の著名な芸術家のレコードのみ青いレーベルを用いて青盤レコードと呼んでいたが、三浦は数少ない日本人の青盤芸術家であったため、この2枚のレコードは青盤レコードで発売された。 古関にとっては生涯でたった2枚の青盤レコードとなり、「コロムビア芸術家としては最高の名誉であった。 」と回想している。 高橋掬太郎 たかはし・きくたろう <コロムビアレコード> 明治34 1901 年4月25日~昭和45 1970 年4月9日 作詩家。 現在の北海道根室市生まれ。 大正8 1919 年に根室商業学校を中退後、地元の根室新聞社に入社し、記者の仕事をしながら高橋春波の名で文筆活動を始めた。 大正11 1922 年には函館日日新聞に転籍、ここでも仕事のかたわらで文芸同人誌に参加して詩や小説などの創作活動を行った。 昭和5 1930 年に民謡雑誌『艸』で「酒は涙か溜息か」を発表。 その後、コロムビアに投稿、作曲には当時注目を集め始めていた古賀政男を指名して曲が完成しレコード発売、本格的に作詩家デビューを果たした。 「酒は涙か溜息か」は藤山一郎が、同時に投稿した「私此頃憂鬱よ」は淡谷のり子が、それぞれ歌って大ヒットし、昭和8 1933 年には函館日日新聞社を退社して上京。 翌9 1934 年にコロムビア専属作詩家として入社した。 専属作詩家として、「船頭可愛や」「雨に咲く花」「博多夜船」「人妻椿」などのヒット曲を続々と発表するかたわらで、昭和16 1941 年からは歌謡同人誌『歌謡文芸』を主宰して後進の育成に尽力。 後年作詩家として活躍することになる石本美由起、宮川哲夫、星野哲郎らを輩出した。 昭和19 1944 年からはキングレコード専属作詩家となり、戦後、「啼くな小鳩よ」「瓢箪ブギ」「ここに幸あり」「一本刀土俵入り」「古城」などの大ヒットを次々と放って活躍。 昭和43 1968 年には紫綬褒章を受章した。 古関は古賀政男から「酒は涙か溜息か」でコンビを組んだ高橋を紹介され、昭和9 1934 年の春にヒットソングを生むべく潮来へ取材旅行に出かけた。 この旅行は、松平晃の「利根の舟唄」、さらに音丸の「船頭可愛や」が生まれるきっかけとなる。 「船頭可愛や」は大ヒットとなり、音丸とともに古関の名も世にとどろくこととなった。 音丸 おとまる <コロムビアレコード> 明治39 1906 年12月8日~昭和51 1976 年1月18日 歌手。 東京・麻布の履物屋の一人娘として生まれる。 昭和6 1931 年、尺八奏者の菊池淡水が指導する民謡の会で歌声を披露したことがきっかけとなり、コロムビアの廉価盤レーベルであるリーガルよりレコードデビュー。 昭和9 1934 年9月にコロムビアと契約し、本名である永井満津子の名にて「おけさくづし」で正式にデビューした。 翌10 1935 年には芸名を芸者風の音丸と改め「船頭可愛や」を歌い大ヒットさせる。 晩年まで精力的に活躍し、懐メロブームの折にはテレビにもよく出演した。 古関にとって初めてのヒット曲が、昭和10 1935 年に発表した音丸の「船頭可愛や」である。 古関は日本民謡の旋律を生かして作曲したこの曲を、楽譜が読めない音丸にピアノを弾きながら熱心に指導して大ヒットにつなげた。 この「船頭可愛や」は、専属作曲家としてコロムビアと契約してから5年近くヒットの無かった古関にとって、起死回生の一曲となった。 藤山一郎 ふじやま・いちろう <コロムビアレコード> 明治44 1911 年4月8日~平成5 1993 年8月21日 歌手。 東京・日本橋生まれ。 東京音楽学校声楽本科在学中に関東大震災や金融恐慌が発生。 その煽りで困窮した家業を助けるため、昭和6 1931 年にコロムビアから藤山一郎の名でデビュー。 「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」などのヒットを放つが、学校の規律に反するため活動を一時停止。 卒業後、ビクター、テイチクを経て、再びコロムビア専属となる。 戦後も「青い山脈」「丘は花ざかり」などの大ヒット曲を放つ傍ら、作曲家・指揮者・コーラスの指導者などとしても活躍。 長きに渡り、歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与え、美しい日本語の普及に貢献した功績が認められ、平成4 1992 年5月に国民栄誉賞を受賞した。 古関と同じ昭和6 1931 年にコロムビアへ入社。 「平右衛門 へいねも 」を吹込み、戦時歌謡としては「海の進軍」などを歌った。 戦後、「三日月娘」や「夢淡き東京」、「長崎の鐘」「ニコライの鐘」の鐘シリーズ、「東京の雨」「長崎の雨」「みどりの雨」の雨三部作などを高らかに歌い、古関-藤山は名コンビとなった。 霧島昇 きりしま・のぼる <コロムビアレコード> 大正3 1914 年6月27日~昭和59 1984 年4月24日 歌手。 現在の福島県いわき市生まれ。 農家の三男として生まれ、小学校を卒業後に上京。 藤原義江のレコードを聴いて歌手を志し、東洋音楽学校に進学。 苦学して卒業後の昭和11 1936 年にコロムビアへ入社。 翌12 1937 年にデビューし、翌13 1938 年には松竹映画『愛染かつら』の主題歌「旅の夜風」を後に妻となるミス・コロムビアと共に吹込み大ヒット。 その後も「一杯のコーヒーから」「誰か故郷を想わざる」「蘇州夜曲」などのヒット曲を放つ。 戦後も「リンゴの唄」「胸の振子」「三百六十五夜」などをヒットさせて長く活躍した。 古関と同郷。 コロムビア入社直後より古関作品を多く歌い、特に「露営の歌」「若鷲の歌 予科練の歌 」「雷撃隊出動の歌」などの戦時歌謡にヒットが多い。 丘灯至夫 おか・としお <コロムビアレコード> 大正6 1917 年2月8日~平成21 2009 年11月24日 作詩家。 現在の福島県田村郡小野町生まれ。 西田屋旅館の六男として生まれ、昭和7 1932 年、福島県郡山市立郡山商工学校商業科を卒業。 子供の頃から体が弱かったため仕事が長続きせず、職を転々とするうち読書に没頭。 西條八十主宰の雑誌に作品を載せてもらったり手紙を出したりしているうちに交流を持ち、昭和10 1935 年に西條に弟子入りして作詩の道に進んだ。 昭和16 1941 年にNHKへ入局、翌17 1942 年には毎日新聞に入社して新聞記者となる。 昭和24 1949 年、大映映画『母燈台』の主題歌の作詩をきっかけに、コロムビア専属作詩家となった。 作詩家となった後も毎日新聞に籍を置いて昭和47 1972 年の定年まで勤め上げ、毎日新聞社終身名誉職員、出版局特別嘱託となった。 昭和63 1988 年、勲四等瑞宝章受章。 古関とは昭和11 1936 年、西條八十の弟子になった翌年に出会う。 それから半年後の翌12 1937 年、コロムビアの廉価盤レーベルであるリーガルより発売された「焦れったいわネ」 作曲:東三吉、歌:南玲子 が丘のレコードデビュー作だが、同曲はかねて古関と面会した折、丘が手渡していた三篇の詩稿の中にあったもので、これが後に「白いランプの灯る道」「あこがれの郵便馬車」「高原列車は行く」など、このコンビが多くの名曲を生み出すきっかけとなった。 菊田一夫 きくた・かずお <古関裕而の盟友> 明治41 1908 年3月1日~昭和48 1973 年4月4日 劇作家・作詩家。 神奈川県横浜市生まれ。 5歳で菊田家の養子になるが、転々とし大阪や神戸で小僧をしながら夜学に学んだ。 大正14 1925 年に上京し、印刷工をしながら浅草国際劇場の文芸部に入る。 昭和8 1933 年、古川ロッパらにより旗揚げされた劇団・笑の王国に座付作家として迎えられ劇作の道へ。 昭和11 1936 年より東宝文芸部に籍を置く。 戦後間もなく、古関裕而とコンビを組んで多くのラジオドラマやテレビドラマ・映画・演劇・ミュージカルを手がけて多くのヒット作を生み出した。 昭和30 1955 年に東宝取締役となっても映画や帝国劇場・宝塚歌劇団の舞台の原作・脚本・演出をはじめ小説も執筆するなどして、晩年まで精力的に活躍を続けた。 昭和12 1937 年、古関は放送劇の音楽作曲の依頼を受け、菊田を紹介される。 以後、戦争によって交流は途絶えていたが、昭和20 1945 年10月に古関と菊田に戦後初のラジオドラマ「山から来た男」の制作依頼が舞い込みコンビが復活した。 以後、連続ラジオドラマ「とんがり帽子」「さくらんぼ大将」「君の名は」などを手がけ、大ヒットを連発。 東宝がミュージカルの公演を始めると、古関を伴って演劇やミュージカルへと活躍の場を広げていった。 「フランチェスカの鐘」「イヨマンテの夜」など、古関と組んだ流行歌のヒット曲も多数。

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1964東京五輪「オリンピック・マーチ」作曲者は?【ニュース検定】答えと解説池上彰

オリンピック マーチ 作曲 者

東京五輪開会式の日本選手団入場行進。 古関作曲の「オリンピック・マーチ」が高らかに鳴り響いた=東京都新宿区の国立霞ヶ丘陸上競技場で1964年10月10日撮影 これまで、日本のスポーツ界の礎を築いた往年の五輪メダリストの郷土を訪ねてきた。 最終回は番外編としてアスリートではなく、昭和の作曲家にスポットを当てる。 古関裕而である。 1964年10月10日、午後2時。 東京五輪が幕を開けた。 開会式で先頭のギリシャ選手団が入場すると、明るく浮き立つような行進曲が青空に響き渡った。 「オリンピック・マーチ」。 その作曲者が古関である。 古関の長男で音楽家の正裕さん(73)は、その感動を鮮烈に覚えている。 高校3年だったという。

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オリンピック東京大会ファンファーレ

オリンピック マーチ 作曲 者

作曲の経緯 [ ] にで開催される()の開会式のために、とにより、の公募が行なわれ、に、当時、のを務めていた、今井光也による作品が選出された。 編成 [ ]• 4パート。 初演 [ ] において、での副隊長玉目利保(三佐)指揮による隊員30名によって初演された。 初演の際には、が特別に製作した、「ニッカン・ファンファーレ・トランペット」が用いられた。 作品の概要 [ ] 本作品は、わずか8の作品である。 続く6小節目、7小節目は、3連符主体のリズムを三声で繰り返す。 最後の2小節でようやく四声となり、祝典音楽としては珍しく、の主和音に終結する。 なお、本作品を「日本の陰を用いた作品である」とする紹介があるが、正しくは、本作品はヘ調自然で書かれている。 録音 [ ] 陸上自衛隊中央音楽隊によるものをはじめ、録音はいくつか存在するが、作曲の「(東京)オリンピック・マーチ」とセットで収録されていることがほとんどである(基本的には「ファンファーレ」と「マーチ」が続けて収められており、大部分の収録CDのトラック自体は、1曲ずつ区切られている)。 その他 [ ] 今井の出身地で開催された、の表彰式において、表彰式用ファンファーレの冒頭に、作曲者のによって引用された。 脚注 [ ].

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