島原 の 子守 唄。 長崎・島原の魅力

「縁故節」と「島原の子守歌」手塚洋一氏著

島原 の 子守 唄

『からゆきさん』と呼ばれたそれらの娘たちの多くが島原(長崎県)、天草(熊本県)の出身者だったといわれます。 島原半島の最南端に口之津という港があります。 今は、早崎瀬戸を隔てて7〜8kmの向こう岸にある天草の鬼池港とを結ぶフェリーが発着する静かな港ですが、大正初めに三池(福岡県大牟田市)に近代的な港が完成するまで、口之津は三井三池の石炭を積み出す外港として長崎に並ぶ賑わいを見せたといわれます。 そして、天草の鬼池には、久助どんと呼ばれる人買い仲介の長者がいました。 からゆきさんたちは、バッタンフルの船底に石炭と一緒に押し込められ、口之津港を後にしました。 口之津町歴史民族資料館には、からゆきさんのコーナーがあります。 『おどみゃ〜 島原の〜』の歌詞で始まる『島原の子守唄』は、多くの方がご存知のことと思います。 貧しいがゆえに南方へ送られていった娘たちを哀れむ一方で、少数ながら成功して帰ってきた「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したこの唄は、宮崎康平(本名一彰 1917〜1980年)作詞・作曲による戦後の創作子守唄です。 島原鉄道常務のかたわら文筆活動に勤しむ宮崎康平は、昭和25年(1950年)、極度の過労から眼底網膜炎が悪化して失明、二人の子を置いて妻は出奔します。 失意の中で、泣く子をあやすうちに出来たといわれる子守唄は、昭和32年 1957年 、島倉千代子の歌でレコード化され、広く知られるようになりました。 ここで、『MIDIカラオケおやじの唄』さんのサイトで、『島原の子守唄』のメロディーを聞かせてもらいましょう。 (1)私は、島原の貧しい家の育ち 色気なんてないから人買いに連れて いかれることもないでしょう 泣かないで早く寝てちょうだい 早く寝ないと、天草の鬼池の人買いの 久助どんが連れにくるよ (2)帰りには寄って下さいね あばら家で白飯は出せないけど 粟(あわ)にさつまいもを混ぜた黄金飯があるよ (3)人々の注意を火事の方にそらすため、人買いの集団が火をつけて 山の家は火事だよ。 その間に娘たちは、サンバ船という小船で 沖に連れていかれたよ。 小船を漕いでいるのは与論島の人だよ。 姉さんは白い握り飯をもらって、いまは石炭船の底だよ。 泣く子はカニに噛まれるよ。 泣かん子には太い飴ん棒買ってやるよ (4)姉さんはどこへ行ったのだろう? 青煙突のバッタンフル船は、外国のどこへ行ったんだろう? 海の果てだろうか 早く寝なさい、泣かないで (5)あの人たちは2つも金の指輪をはめておらっしゃる あの金はどこの金だろうか 外国から持ち帰った金だろう お嫁さんの口紅は誰がくれたの? 燃えるような赤い口紅、唇につけたら熱いでしょう (6)有明海の不知火は燃えては消えるよ バテレン祭りの笛や太鼓も鳴り止んだよ 泣かないで早く寝てちょうだい 泣かないで早く寝てちょうだい 近代の初め、『からゆきさん』となって異国に売られ、過酷な運命にさらされた娘たちは10〜20万、あるいは30万ともいわれます。 この子守唄は、そうした歴史のあったことを如実に物語り、今に伝えています。 確かに、ブラームスやシューベルトの子守唄が、近代ヨーロッパ中産階級の、豊かで幸福な家庭における子供の子守唄であったのに対して、わが国の伝統的な子守唄に歌われているのは、封建時代の暗い陰々滅々とした世界です。 だから、豊かになった今日の日本には馴染まないもの、不要なものということでしょうか、現代の日本の若者たちは、短調のメロディーや悲哀のメロディーに関心を示さなくなったばかりか、子守唄のような日本の伝統的な旋律や唱歌が最近、音楽の教科書から消え去りつつあると言われます。 しかし、今日、性モラルの低下ははなはだしく、児童殺害などの凶悪犯罪は後を絶たず、そして今、耐震偽装問題が大きな社会問題となっています。 豊かで平和な社会を目指そうとすればこそ、伝統的な旋律や唱歌が訴え、物語る史実や心情を決して忘れてはならないものだという思いがします。 そんなことを考える島原への旅でもありました。 21 あなたは累計 人目の訪問者です。

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宮崎康平

島原 の 子守 唄

島原城 1618(元和4)年から7年余の歳月を費やして松倉豊後守重政が島原城を築きました。 本丸には五層天守閣を、要所に大小の櫓を配置した安土桃山期の築城様式を取り入れた城は、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏と4氏19代253年間の居城でした。 その後、明治の御一新で城壁だけを残し、天守閣をはじめ、すべての建物が解体されました。 しかし、1964(昭和39)年に天守閣が復元されたのをはじめ、櫓も復元され、現在、城内の建物はキリシタン史料館(天守閣)、北村西望記念館(巽の櫓)民具資料館(丑寅の櫓)などに利用されています。 なかでもキリシタン史料館は、有名なキリシタン大名有馬晴信(ドン・プロタシオ)時代に盛んであった南蛮貿易時代から、宣教時代・禁教時代・弾圧時代と続き、島原の乱関連の資料を展示されています。 島原の子守唄 島原駅の正面にある島原の子守唄の像です。 昔、島原半島や天草の農家の人たちは貧しさのあまり、自分の娘を売って生活をしていたそうです。 中国や東南アジアなどへ売られていったその娘たちのことを「からゆきさん」といいます。 島原の子守唄は「からゆきさん」の悲しみ、哀れさ、一方で「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したものといわれます。 下は島原の子守唄の六番まである中の一番の歌詞です。 最後の行の「久助どん」とは娘たちが売られていく時の仲介役をしていた実在の人だと言われています。 【島原の子守唄】 おどみゃ島原の おどみゃ島原の 梨の木育ちよ 何のなしやら 何のなしやら 色気なしばよ しょうかいな はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい 鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい 武家屋敷 松井老舗の西側のすぐ近くにあります武家屋敷。 この一帯は鉄砲町と呼ばれており、その言われは島原城の築城の時に、鉄砲を主力とする徒士の住居も建設され約690戸の屋敷があった事からと言われています。 また、碁盤の目のような町筋で隣家との間に塀が無く、鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷街が見通せたためとも言われています。 街路の中央には湧き水をひいた水路があり、飲料水、生活用水として大切にされてきました。 1868年の戊辰戦争では約260人の徒士たちが官軍に属して奥州へ出陣したという記録も残っています。 雲仙地獄 あたりには硫黄の匂いがたちこめる雲仙地獄。 温泉街の中心で湯煙をあげる雲仙地獄は雲仙を代表する観光名所です。 白煙を上げているのは30あまりの硫気孔で、湯気の立ち上る元にはグツグツと高温の温泉が湧き出ています。 風向きにより湯気に囲まれてしまうと視界はほとんど無くなり、不思議な世界に誘われてしまうようです。 本光寺 この地は16世紀中頃の島原の領主であった島原氏の居城「浜の城」の出城であった「丸尾城」の跡です。 端雲山本光寺は、松平氏が島原城主となって20年目の1689(元禄2)年に希声英音和尚によって開山され、松平家の菩提寺となりました。 松平氏歴代の藩主は松平氏の本願、三河国額田郡深溝の本光寺に埋葬されることになっていました。 境内には、松平家墓地、島原4代藩主松平忠刻が領内から17人の石工を選んで一人一体ずつ刻ませた十六羅漢があり、そのほか島原城内から移築された常磐御殿は、常盤歴史料館として貴重な文献や遺品などが展示されています。

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山梨県「縁故節」から「島原の子守唄』へ

島原 の 子守 唄

「縁故節」と「島原の子守歌」手塚洋一氏著 『甲斐の民謡』ふるさと文庫所収 縁で添うとも 縁で添うとも 柳沢いやだヨ アリャセー コリャセー 女が木をきる 女が木をきる 茅を刈る ションガイナー アリャセー コリャセー 河鹿ほろほろ 釜無下りゃヨ 鐘が鳴ります 七里ケ岩 縁の切れ目に このぼこできた この子いなぼこ 縁つなぎ 縁がありゃ添う なかれば添わぬ みんな出雲の 神まかせ 駒の深山で 炭焼く主は 今朝も無事だと 白煙 来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど ぬるいお茶でも 熱くする 註 柳沢……武川村柳沢。 もとは駒城村(現白州町、釜無川の支流大武川の右岸で、鳳風山麓の山村。 柳沢吉保先祖の出身地。 七里岩……八ケ岳の泥流が金無川の浸食をうけてできた断崖。 長野県境から韮崎まで約二七キロに及ぶ景勝の地。 ぼこ……甲州方言。 赤ん坊・子供。 いなぼこ……変な子。 妙な子。 駒の深山……甲斐駒ケ岳 島原の子守歌は山梨「縁故節」の模倣 「縁故節」は「馬八節」「粘土節」とともに甲州の代表的な民謡の一つで、踊り唄あるいは座敷唄である。 この唄は大正の末韮崎町(現韮崎市)で誕生した。 大正十一二年韮崎の有志によって、町を、鳳凰山とそれに続く南アルプス連峰の登山基地として観光開発しようという目的をもって、白鳳会が結成された。 初代会長は歯科医師の小屋忠子(後に県会議長)で、郵便局長の柳本経武、穂坂村の平賀文男(号月兎、後に県会議長)等が協力者であった。 「縁故節「はこの白鳳会の宣伝のために、前記三名の方々と土地の芸妓たちによって、従来から峡北地方で歌われていた作業唄「エグエグ節」を編曲してつくられたものである。 編曲の過程で、三味線等の伴奏をつける関係もあって、曲は陽旋律から陰旋律に変化した。 この間の事情は、この計画に参加した山梨県三曲連盟会長の植松和一氏が、同人雑誌『中央線』第八号に「縁故節四方山話」として詳細に述べておられる。 このようにして出来た「縁故節」は、寿座という町内の芝居小屋で盛大な発表会が行われ、昭和三年九月六日には東京中央放送局(現NHK)から、放送事業間姶三周年記念番組民謡の部に、山梨県代表民謡として「縁故節」が選ばれ、地元韮崎町の人々によって全国放送された。 その時の出演者は、三味線芸妓勝利・尺八秋山計吉・唄芸妓照葉と植松輝吉・踊り水上修一の各氏であった。 ラジオ放送に踊りがついていたのは、放送に臨場感をもたせるためであったと思われる。 続いて、昭和十年十一月一十日には再び東京中央放送局から放送され、昭和十二年の暮れには甲府放送局開局記念に「縁故節」が全国放送された。 この内昭和十年放送の出演者のうち植松逸聖(和一)・名取いく・佐野儀雄の三氏は現在も御存命で元気に活躍しておられる。 このようにして「縁故節」は山梨を代表する民謡として全国に放送され、地元韮崎はもちろん峡北地方一帯では盆踊り唄として「エ-ヨー節」にとって替り、韮崎や甲府等の花柳界ではお座敷敷唄としてさかんに歌われた。 一番の歌詞「縁で添そうとも柳沢いやだよ」は、「エグエグ節」からの転用であるが、この歌の看板である。 古歌 「甲斐人の嫁にはならし事辛し 甲斐の御坂を夜や越ゆらむ」 と発想が同じに見えて、その意味するところは全く違う。 「甲斐人の嫁にはならじ云云」 は、東海道を旅する他国の人が、篭坂や御坂の峠越しに甲斐を想像して詠んだもので、異国人の冷たさが感じられる。 しかし、「縁で添うとも……」は野山での苦しい仕事を思いながらも、なおかつ、ふるさとを愛するほのぼのとした温かさが感じられないだろうか。 「縁故節」ができるときこの部分を削除したらという意見があって、そのことを柳沢の人々に相談したところ、是非そのまま残してほしいとの意見であったというエピソードがある。 歌詞の「シヨンガイナ」は「ションガイネ」とうたうこともある。 意味については諸説があるが、「致し方ない、あるいは、仕様がない」と解すべきである そう解することによって前述の愛郷の心が生きてくる。 縁故節と島原の子守唄 両者の関係については、「縁故節」が「えぐえぐ節」を元唄として作られた時、その仕事に参加した唯一の生存者である植松和一氏(号逸聖、山梨県三曲連盟会長・韮崎市在住)が、同人誌『中央線』に、前後四回にわたって連載した「島原の子守唄は縁故節の盗作」の中で、概要は述べられているが、改めてとりあげたい。 ただし、「島原の子守唄」の作者宮崎康平は、昭杣五十五年三月に死亡しておられるので、この問題をとりあげることは、死者にむち打つことにもなりかねないが、それは筆者の本意とするところではない。 しかし、事実は事実として明らかにしておかなければならない。 「縁故節」成立の由来については、「縁故節」の項で述べたし、前記植松氏の「縁故節四方上話」(『中央線』第八号)に詳細が述べられている。 「島原の子守唄」は、宮崎の作家宮崎康平によって作られた歌謡曲である。 歌詞は次の通り。 おどみゃ島原の おどみゃ島原の ナシの木育ちよ 何のナシやら 何のナシやら 色気ナシばよ ショウカイナ はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ 鬼の池ん久助どんの 連れんこらるバイ 帰りにや寄っちょくれんか あばらやじゃけんど 唐芋飯ゃ粟ん飯 黄金飯はよ ショウカイナ 嫁ごん紅な誰がくれた 唇つけたならあったかろ (以下略) 三番四番は、唐ゆきさんとして悲惨な生涯を送ったこの地方の女性の悲哀をうたったものである。 作者の宮崎康平は、大正六年島原市生まれ。 本名は一章。 早稲田大学文学部卒。 在学中東宝文芸課に入社、文芸・演劇活動を行った。 昭和十五年長兄の死により島原に帰り、家業の南旺土木社長・島原鉄道取締役として経済的手腕を発揮する傍ら、九州文学同人としても活躍したj昭和二十五年過労がもとで失明、続いて乳呑児を残して妻に逃げられる等の不幸もあったが、その中発表した『まぼろしの耶時台国」によって新婦人和子氏と共に、第一回吉川英治賞受賞した。 (講談社版『日本近代文学人字典』) 島原の子守唄が作られた時期は明確ではないか、昭和三十九年九月長崎市勝山小学校で開催された「第三回「九州のうたごえ」島原地区有志が、混声合唱で「島原の子守唄」を歌っているので、昭和二十五年から三十年にかけて、彼の家庭的不遇の時代の作と考えるのが妥当であろう。 (彼自身は戦中の作といっているが、そのことについては後述する) 昭和三十二年早大時代の友人森繁久弥が舞台劇、「風説三十年」の中でこの唄を歌い、 昭和三十三年島倉千代子子の歌でレコード化。 昭和三十五年、六年頃西日本新聞社主催 全九州民謡コンクール人気投票で第一位を獲得、一躍脚光を浴びた。 もっとも、この投票には大々的な集票工作が行われたといわれている。 (ルポライターますやま栄一氏の調査『中央線』第二十四号) この唄が電波にのる様になってから、これを聞いた山梨県人は、「縁故節」との類似に驚き、直接あるいは間接に両者の関係の糾明に関心が持たれた。 このことについて、 昭和五十四年八月二十八日付、石川某(山梨県人)宛宮崎康平宛の書簡(以下宮崎書簡という)があり、氏自身の見解が示されているので、それを中心に考察を加えたいと思う。 宮崎書簡は、「文芸春秋」昭和五十四年九月号誌上に掲載された、当時のNHK会良坂本良一氏の随筆「オロロンバイ」に対する、石川某氏の疑問に答えたものである。 坂本会長の「オロロンパイ」は、同氏がソヴィェトを訪問した際にモスクワでの歓迎レセプションの席上で、随員の歌田氏が「島原の子守唄」を歌ったところ、歌詞の中のオロロンバイは、ソ連領コーカサス地方では揺篭を意味するところから、子守唄と揺竜の関連の不思議さに喝采を博したというものである。 その随筆の中で、坂本会長が、島原の子守唄を友人宮崎康平作詞作曲(坂本会長と宮崎氏は早稲田の学友)と紹介したことに対して、「島原の子守唄」を古い伝承民謡と理解し、「縁故節」との酷似を不思議に思っていた石川某氏は、そのことを坂本会長に手紙(昭和五十四年八月十四日付)で質問した坂本会長は石川氏の手紙をコビーして宮崎康平に転送したので、宮崎氏から直接返答が石川氏宛に寄せられたものである。 書簡は長文であるが、主眼は「島原の子守唄の著作権を防衛することにあり、その為の強弁である。 「縁故節」に対する認識不足も甚だしいといわれなければならないが、それ程までに強弁をしなければならない理由は、「島原の子守唄」の前半と「縁故節」とのメロディーの酷似が、偶然の一致とは到底考えられず、もし「縁故節」の曲が以前から存在したとすれば、「島原の子守唄」のオリジナリティーが疑われるからである。 事実は宮崎氏の言い分とはまったく逆で、戦時中から戦後にかけて「縁故節」のメロディ-(歌詞は替え歌)が九州各地で歌われており、本籍不明のこのメロディ-に目をつけた宮崎氏が若干の手直しを杣えて出来たのが「島原の子守唄」である。 宮崎氏は 囃詞「しょうかいな」は 「なるほど」 「もっとも」 という意味の 「そうかいな」 を、幼児が 「しょうかいな」 というのをとったと説明し、宮崎氏の作った唄が流行し始めた頃意味のわからない人達が「ションガイナ」と歌ったものだといっている。 そして、古い記録に残っている「縁故節」の末尾には「ションガイナ」は付いていなかったのではないか、といっている。 これも認識不足で、「縁故節」の「ションガイナ」は元唄の「エグエグ節」の囃詞をそのまま受けついだものである。 古い記録とは何を指すのか判らないが、昭和十一年刊、椎橋好の『甲斐民謡採集』には、「ションガイナ」がついている。 「縁故節」の「ションガイナ」の意味は、宮崎氏の「ションガイナ」とは違ってもっと複雑だが、はじめ意味の判らない人連が「シヨンガイナ」と歌ったというのは、それこそ「縁故節」であった証左ではないか。 このほか、終戦前後から昭和二十五、六年頃にかけて、筑前大島とその対岸七浦一帯で、「縁故節」のメロディーが歌われたことは、北九州市の高校教諭吉田信敬氏も先に報告された。 (昭和五十六年八月十六日付毎日新聞紙上)この件については昭杣五十七年七月、筆者は植松和一氏に同行して現地に赴き、確認のため調査を行った結果、大島村、津屋崎町、飯塚市等で多くの証言を得た。 また、ルポライターますやま栄一氏の調査によれば、宮崎氏の主張する「島原の子守唄」の本唄なるものがどこにも存在せず、逆に「縁故節」との関連が濃厚になったと報告されている。 (『中央線』第二十四号) 「島原の子守唄」の、曲としての構成をみると、 第一句「おどみゃ島原の」から「シュンガイナ」までのメロディーを中心とした前半部と、 「はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ」から最後までの語りの部分との二つから成り立っている。 これは「島原の子守唄」より数年前に流行した「五木の木の子守唄」の構成を逆にしたものである。 「五木の子守唄は、オロロンバイ、オロロンバイ」という前置きのあやし詞を反復したり、あるいは「オロロンオロロン婆の孫、婆は居られん爺の孫云々」の語りの部分の後にメロディーが続く。 (『日本民謡大事典』) 「島原の子守唄」は、はじめに「縁故節」のメロディーをそのまま利用し、後半に語りをおいて、「オロロンバイ」(天草の福連木地方や「五木の子守唄」のあやし詞を利用した。 もちろん、唄はメロディーが主体であるべきであって、その意味から「島原の子守唄」は「縁故節」を元唄として、島原地方の方言で粉飾したものである。 この様な主張に対して、民謡は所かまわず流れ歩いて、どこでどの様に利用されようと、ととやかく云うべきではないという意見がある。 そのこと自体はそれで正しい。 民謡は本来浮気者で所かまわずとび歩き、野合も敢えて辞さない。 その様な例証は枚挙にいとまがない。 しかし、それだからこそ、民謡が民謡であるためには郷土性をもち、地域に愛されなければならない。 「島原の子守唄」は、はじめ民謡としての戸籍を主張した様である。 方言をふんだんに使って地域性を強調しながら、しかも、地元の観光協会や旅館組合からボィコットされた模様が、宮崎氏白自身によって述懐されている。 (熊本日日新聞社編『新日本風上記(九州編二)』昭和四十八年昭和書院刊) まして、他国の民謡のメロディーをそのまま借用しながら、そのことを糊塗して著作権をとるに至っては作家としてのモラルに拘わる問題である。 次に、「縁故節」の日野原(明治七年日野春と改称、現長坂町富岡)開拓者招来説がある。 これは郷上関係の出版物に多くみられるもので、管見によれば、昭和四十四年刊池田光一郎者『地蔵ケ嶽』から、昭和五十八年刊古文書研究会編『各駅停車』にいたるまで、その数は七件をかぞえる。 その説によれば、明治六年藤村県令(当時は権令)の下で、権参事富岡敬明が計画した日野原開拓の際、開墾のための労働力として、富岡敬明の郷里佐賀の士族の子弟五十人を投入したので、彼らによって島原地方の子守唄がもち込まれ、これが「縁故節」のもととなったとするものである。 この説は一見もっともらしくみえるが、事実はまったく根拠のないものである。 その理由は、第一に、日野原開拓に当って佐賀の士族の子弟を、労働力として投入した事実はなく、佐賀士族入植の事実もない。 そのことは、県立図書館編『山梨県史』第三巻の明治六年、明治七年の項、ならびに、昭和四十七年二月県農務部耕地課編『山梨県の上地改良史』日野春開拓の項に明らかである。 それによれば、開拓は付近の農民の力によったものであり、特に士族の入植については、『山梨県史』明治七年政治上開拓の部に、 明治七年六月二十七日付け内務卿大久保利通宛、権令藤村紫朗代理山梨県参事富岡敬明の稟議書の末尾に、日野原に家政奉還の士族の移住をすすめたが、希望者皆無であったことが報告され、 それに対して、同年十一月十八日付け内務卿伊藤博文名をもって、士族の入植者のないことを認めた上で、開拓地を官有地とし、漸次民間へ払い下げるよう指令が出されている。 県はこれに先だって同年七月二十九日付け、「日野原新墾地移住規則」を布達した。 その結果、移住希望者四十余名、養蚕伝習生二十一名に連署したが、いずれも近村の農家の出身者であった。 また、富岡の開拓神社境内にある日野原碑の裏面に刻まれた氏名も、すべて近村の人々の氏名である。 理由の第二は、佐賀県士族が招来したという「縁故節」の元唄と考えられるような子守唄は、島原地方には存在しない。 このことは前掲のルポライターますやま栄一氏の調査によっても明らかである。 以上、「縁故節」の元唄を日野春の開拓者が伝えたという説は、まったく事実無根であることが理解いただけたと思うが、このような説が、何故山梨県人によって唱えられたのであろうか。 いうところの「文化に対するいわれなきコンプレックス」によるものであろうか。 郷土尺民謡を愛さない県民性によるものであろうか。

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