般若 心 経 解説。 般若心経の内容全文と解説まとめ|知れば心が楽になる「空」の思想|葬儀・葬式なら【よりそうのお葬式】

「…なんだそうだ、般若心経」般若心経の意味をわかりやすく読み解きます

般若 心 経 解説

如是我聞。 一時薄伽梵。 妙善成就一切如來金剛住持平等性智種種希有殊勝功德。 已能善獲一切如來灌頂寶冠超過三界。 已能善得一切如來遍金剛智大觀自在。 已得圓滿一切如來決定諸法大妙智印。 已善圓證一切如來畢竟空寂平等性印。 於諸能作所作事業。 皆得善巧成辦無餘。 一切有情種種希願。 隨其無罪皆能滿足。 已善安住三世平等常無斷盡廣大遍照身語心性。 猶若金剛等諸如來無動無壞。 是の如く我れ聞けり。 一時、薄伽梵、妙に善く一切如来の金剛住持したまえる平等性智の種種に希有殊勝の功徳を成就したまい、已に能く善く一切如来の潅頂したまえる宝冠を獲(え)て三界を超過し、已に能く善く一切如来の遍き金剛智の大観して自在なるを得、已に一切如来の諸法を決定したまえる大妙智の印を円満するを得、已に善く一切如来の畢竟空寂平等性の印を円証し、諸の能作、所作の事業に於いて、皆善巧成辦するを得て余す無く、一切有情の種種の希願を、其の無罪なるに随いて、皆能く満足し、已に善く三世平等にして、常に断尽する無く、広大遍照せる身語心の性に安住して、猶お金剛の若く、諸如来の無動無壊なるに等し。 『無かった!』。 薄伽梵(ばぎゃぼん):梵語bhagavat、世尊と訳す。 衆徳を具して世に尊重恭敬せらるる者の意。 即ち仏の尊称なり。 如来(にょらい):梵語多陀阿伽度tathaagataの訳にして、又如去、如解、如説等と翻ず。 即ち法相の如く解し、法相の如く説き、安隠の道より来たりて更に後有の中に去らざるを云う。 金剛住持(こんごうじゅうじ):金剛は菩提樹下の金剛座の意、即ち悪魔を摧伏して成道せしに由り、無動無壊の坐なるをいう。 住持とは智慧を邸第に喩え、其の中に居住し、其れを護持すれば之を住持という。 功徳(くどく):梵語guNaの訳。 美徳の義。 即ち功とは福利の功能、この功能は善行の徳と為すが故に徳という。 また徳とは得なり。 功を修むるに所得有るが故に功徳という。 潅頂宝冠(ほうかんをかんちょうす):潅頂の儀式を以って王冠を授け、王位に著くるをいう。 超過三界(さんがいにちょうかす):三界は欲界色界無色界の総称。 又世間と称す。 凡人の居住の処をいう。 徧金剛智(こんごうちをあまねくす):金剛の如き無動無壊の智を以って三界に遍満せしむるをいう。 大観自在(だいかんじざい):一時に三界を観るが故に大といい、自在という。 決定諸法(しょほうをけつじょうす):諸法の空、平等、無所有、無所得等の義を決定するをいう。 大妙智(だいみょうち):諸法を決定せる智は、深妙にして一切に通ずるが故に之を大妙という。 印(いん):梵語mudraaの訳。 智印を梵にjJaana- mudraaという。 印とは即ち関所を通過するに当りて身分を保証すべき王印にして、通行自在の意なり。 即ち智慧を以って一切法に通達するをいう。 畢竟空寂平等性(ひっきょうくうじゃくびょうどうしょう):一切法は畢竟じて空なれば、其の中に戯論の余地なく、遂に寂静すべきなるをいう。 平等は一切の衆生は因縁の所生にして、其の性、空なれば彼此、彼我、男女、四姓、五道等の差別なく、皆行業の果報を受けて輪転するのみなることをいう。 能作所作事業(のうさとしょさのじごう):能作は作すべきこと、所作は已に作されたこと。 善巧(ぜんぎょう):具に善巧方便と称し、梵語upaaya- kauzalyaの訳、巧妙な手段を以ってする福利をいう。 又方便と称す。 衆生を導引するに便利な巧みな手段の意。 成辦(じょうべん):成就し具備するをいう。 完璧に成し遂げること。 有情(うじょう):梵語sattvaの訳。 又衆生とも訳す。 生物の義。 即ち天、人、餓鬼、畜生、阿修羅等の情識を有する者の意にして、此れに対して草木等を非情と称す。 希願(けがん):希望及び願望。 能満足(よくまんぞくす):満足させる。 三世平等(さんぜびょうどう):三世に変わることのない。 身語心性(しんごしんのしょう):身を以ってする行い、口を以ってする行い、意志を以ってする行いの三種の業の性が、善にして改変せざるをいう。 金剛(こんごう):梵語vajraの訳。 雷電の義。 一切の物中に最も堅固なるものの意。 菩薩の有する衆生済度の意志の堅固なるに喩う。 無動無壊(むどうむえ):動じさせる者無く、壊す者も無い。 是薄伽梵。 住欲界頂他化自在天王宮中。 一切如來常所遊處。 咸共稱美大寶藏殿。 其殿無價末尼所成。 種種珍奇間雜嚴飾。 寶鐸金鈴處處懸列。 微風吹動出和雅音。 綺蓋繒幡花幢綵拂。 寶珠瓔珞半滿月等。 種種雜飾而用莊嚴。 賢聖天仙之所愛樂。 與八十億大菩薩俱。 是の薄伽梵、欲界の頂の他化自在天の王宮中、一切如来の常に遊びたまえる処にして、咸(みな)共に称美したまえる大宝蔵殿に住(とど)まりたまえり。 其の殿は、無価の末尼の成す所の種種の珍奇間雑し厳飾して、衆色交映して大光明を放ち、宝鐸金鈴処処に懸列し、微風吹動すれば和雅の音を出し、綺蓋、繒幡、花幢は宝珠、瓔珞、半満月等を綵払し、種種に雑飾して用(も)って荘厳し、賢聖、天仙の愛楽する所にして、八十億の大菩薩と倶(とも)なり。 『大菩薩』と、 『倶( とも)にされていた!』のである。 欲界(よっかい):梵語kaama- dhaatuの訳。 欲所属の界の意。 又欲を任持する界の意。 三界の一。 即ち食欲婬欲等を有する有情の居住する世界を云う。 他化自在天(たけじざいてん):梵語para- nirmita- vaza- vartinの訳。 他の化作せる欲境を自在に受用し、自ら楽を受くるが故に他化自在と名づく。 欲界六欲天の最頂に位す。 是の主を魔王波旬と称し、即ち正法を害する者にして、仏成道の時にも、来たりて障害せんと試みし事を伝う。 称美(しょうみ):ほめたたえる。 無価(むげ):値をつけられないほど高価なことをいう。 末尼(まに):梵語maNi。 具に真陀摩尼cintaa- maNiと称し、意訳して如意宝、如意珠に作り、また如意摩尼、摩尼宝珠、末尼宝、無価宝珠に作る。 凡そ所求有らば、この珠は皆よくこれを出すの意にして、故に如意宝珠と称す。 珍奇(ちんき):珍宝。 間雑(けんざつ):いりまじる。 厳飾(ごんじき):丁寧に飾り付ける。 衆色交映(しゅしききょうよう):多くの色の光が入混じりながら、照り映えるさま。 宝鐸(ほうじゃく):軒先に吊す小鐘にして、金銀宝石を以って造られしもの。 金鈴(こんりょう):黄金を以って造られし鈴。 懸列(けんれつ):列をなして懸けられたるさま。 微風(みふう):かすかなかぜ。 吹動(すいどう):ふきうごかす。 和雅(わげ):調和と高雅。 やわらぎみやびやか。 和やかにして高貴。 綺蓋(きがい):美しい天蓋。 繒幡(そうばん):絹の懸け幕。 花幢(けどう):花模様の柱飾り。 綵払(さいほつ):五色の綾絹を以ってはらう。 宝珠(ほうじゅ):擬宝珠の如し。 瓔珞(ようらく):珠玉をレース状に綴ったもの。 半満月(はんまんがつ):半月状の飾りと満月状の飾り。 賢聖(けんじょう):賢とは善に和すの義、聖とは正に会すの義。 善に和し、悪を離ると雖も、未だ無漏智を発せず、理を証せず、惑を断ぜず、凡夫の位に在る者は之を賢と謂い、既に無漏智を発し、理を証して惑を断じ、次いで凡夫の性を捨つる者は之を聖と謂う。 天仙(てんせん):梵語deva- RSiの訳。 天人と仙人との総称。 五趣の極を天と称し、人にして神徳ある者を仙と称す。 又或いは虚空を飛遊する仙人を天仙と称す。 愛楽(あいぎょう):愛したのしむ。 菩薩(ぼさつ):梵語菩提薩埵Bodhisattvaの略。 菩提を求むる人の義。 菩提bodhiとは衆生を教化し清浄ならしめて理想的な世界である浄土を成就せる仏の境地をいう。 註:魔天宮に於いて、般若波羅蜜多を説くとは、是の般若波羅蜜多は一切法は空なるが故に、応に六種の波羅蜜多を行ずべしと説くものなれば、応に欲界の主たる魔王波旬こそ、是の経を聞いて最も益を得る者なるべし。 是を以っての故に世尊は、此の処に於いて、此の経を説かれた。 一切皆具陀羅尼門三摩地門無礙妙辯。 如是等類無量功德。 設經多劫讚不能盡。 其名曰金剛手菩薩摩訶薩。 觀自在菩薩摩訶薩。 虛空藏菩薩摩訶薩。 金剛拳菩薩摩訶薩。 妙吉祥菩薩摩訶薩。 大空藏菩薩摩訶薩。 發心即轉法輪菩薩摩訶薩。 摧伏一切魔怨菩薩摩訶薩。 如是上首有八百萬大菩薩眾前後圍繞。 宣說正法。 初中後善文義巧妙純一圓滿清白梵行 一切は皆、陀羅尼門、三摩地門、無礙妙辯を具(そな)え、是の如き等の類の無量の功徳は、設(も)し多劫を経(へ)て讃ずるとも、尽くす能(あた)わず。 其の名を金剛手菩薩摩訶薩、観自在菩薩摩訶薩、虚空蔵菩薩摩訶薩、金剛拳菩薩摩訶薩、妙吉祥菩薩摩訶薩、大空蔵菩薩摩訶薩、発心即転法輪菩薩摩訶薩、摧伏一切魔怨菩薩摩訶薩と曰い、是の如き上首には、八百万の大菩薩衆有りて、前後囲遶し、正法を宣説するに、初中後に善く、文義巧妙にして、純一円満、清白梵行なり。 『巧妙( 巧みですばらしい!)』、 『純一( もっぱら大乗のみ!)』、 『円満( 欠けたところがない!)』、 『清白( 清廉潔白)』であり、 『梵行( 清浄なる行)』であった。 陀羅尼門(だらにのもん):門は仏道に入る門。 陀羅尼は梵語dhaaraNii、総持、能持、或いは能遮と訳す。 即ち能く総持して忘失せざる念慧の力をいい、言葉の力を以って経文の要旨等を記憶する術をいう。 三摩地門(さんまじのもん):門は仏道に入る門。 三摩地は梵語samaadhi、又三昧に作り、正定、又は等持等と訳す。 禅定の如き、心の一境に住して動ぜざる状態をいう。 無礙妙辯(むげみょうべん):凝滞することの無き絶妙なる辯才。 即ち仏菩薩の成就せる説法に関する四種の無礙智を云う。 謂わゆる四無礙(梵catuH- pratisaMvid)と称し、一に法無礙(梵dharma-p. )、二に義無礙(梵artha- p. )、三に辞無礙(梵nirukti- p. )、四に辯無礙(梵pratibhaana- p. )である。 就中、一に法無礙とは、法即ち事物を示す文章、乃至経書の理解に於いて無礙なることを云い、二に義無礙とは、法に由って示さるる義(意味)の理解に於いて無礙なるを云い、辞無礙とは、単語、術語、言葉の理解に於いて無礙なるを云い、辯無礙とは、雄弁に説得するに於いて無礙なるを云う。 多劫(たこう):多くの劫。 劫は梵語kalpa、分別時分、分別時節、長時、大時、時と訳す。 世界の生住滅に関する周期の一回分を表す時間単位をいう。 菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ):梵語菩提薩埵摩訶薩埵bodhi- sattva- mahaa- sattvaの略。 菩提薩埵bodhi-sattvaは菩提を求むる人、摩訶薩埵mahaa- sattvaは偉大なる人の意。 即ち衆生を教化して清浄ならしめ、遂に浄土を成就せる仏の境地を求めて、常に努力して怠らざる人をいう。 金剛手(こんごうしゅ):梵語vajira- paaNi? 金剛を手に執るの意。 観自在(かんじざい):梵語avalokitezvaraの訳。 世間を観るに自在なりの意。 虚空蔵(こくうぞう):梵語aakaaza- garbhaの訳。 虚空の如く無限の財宝、法宝を収蔵するの意。 金剛拳(こんごうけん):梵語vajira- muSTiの訳。 金剛の拳、或いは金剛を執した意。 妙吉祥(みょうきちじょう):梵語maJju- zriiの訳。 絶妙にしてめでたしの意。 大空蔵(だいくうぞう):梵語mahaa- zuunyataa- garbhaの訳。 大空の如く無限の財宝、法宝を収蔵するの意。 発心即転法輪(ほっしんそくてんぽうりん):梵語saha- cittotpaada- dharmacakra- pravartin? 発心して直ちに法輪を転ずるの意。 摧伏一切魔怨(さいぶくいっさいまおん):梵語sarva- maara- pramardinの訳。 一切の魔を摧伏するの意。 上首(じょうしゅ):席次の上首なるをいう。 前後囲遶(ぜんごいにょう):前後をとりかこむ。 宣説(せんぜつ):当に然るべきを説く。 初中後善(しょちゅうごぜん):説法の初め善く、中ほど善く、後も善いことをいう。 文義巧妙(もんぎぎょうみょう):文句も意味も巧みですばらしい。 純一円満(じゅんいちえんまん):純ら仏道のみで欠くる所なく満ちているさまをいう。 清白梵行(しょうびゃくぼんぎょう):梵語paryavadaataの訳。 完全に清浄、潔白、純粋の義。 通常梵語薄伽梵bhagavatの訳語となす。 一切法(いっさいほう):梵語 sarva- dharma,一切の有為法(梵 saMskRta- dharma)即ち造られたもの、及び無為法(梵 asaMskRta- dharma)即ち造られないものの総称。 即ち、一切の事物、物質、精神,及び有らゆる現象としての存在を含むものの意。 甚深(じんじん):甚だ深くて理解しがたいこと。 微妙(みみょう):高尚深遠なこと。 幽深で知り難いさま。 理趣の幽玄なのを微といい、迥(はるか)に思議を超絶したのを妙という。 般若(はんにゃ):梵語prajJaa、判断、識別の義。 慧又は智慧等と訳す。 般若理趣(はんにゃりしゅ):梵語prajJaa- paaramitaa- nayaの訳。 此の中nayaは指揮、指導の義。 或いは智慧の義。 即ち世間の分別を離れて智慧を究竟し、一切智の彼岸に至る道の意。 清浄法門(しょうじょうほうもん):梵語parizuddha- dharma- paryaayaの訳。 煩悩を遠離して心清浄となり、真の仏の境地たる阿耨多羅三藐三菩提に至る道を得る門をいう。 句義(くぎ):梵語padaarthaの訳。 文の意義。 ことばの意味。 ことばの意味に相応する事物、人、対象、主題、話題等をいう。 註:窺基の「大般若波羅蜜多経般若理趣分述讃(以後述讃)」には、「甚深微妙清浄法門」と標し、「即ち是れ妄に対して、真実相、真如の境体を顕す」と略讃する。 謂極妙樂清淨句義是菩薩句義。 謂わゆる『極めて妙楽なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 極妙楽(ごくみょうらく):梵語surata? 極めて大きな楽しみの義。 時に性愛を意味する語。 即ち菩薩の境地である。 是の一句を以って、菩薩は、般若波羅蜜多の無分別智の中に在って、常に六波羅蜜を行ずるも、是の境地は苦に非ず、而も極妙楽の境地なりと主張するものである。 清浄句義(しょうじょうくぎ):梵語parizuddha- padaartha、又はvizuddha- padaartha? 無罪、或いは潔白な句の義の意。 蓋し極妙楽等の句の義に関して、単なる言葉の上には、義を得べからず、則ち戯論無きが故に清浄なりという。 復た次ぎに極めて妙楽なりの語ありと雖も、菩薩に於いては是れ即ち自らを謂うに非ず、一切衆生の極妙楽なるを謂うにより、是の句義あり、故に清浄なりの意である。 又清浄句義に二種の釈あり、一には「極妙楽」等の句の清浄、即ち語言、乃至法の本性無きこと虚空の如し、故に清浄である。 二には「極妙楽」等の句義の清浄、即ち一切法に二種あり、有為法と無為法である。 有為法ならば一切は因縁所生の故に本性無きこと虚空の如し、故に清浄である。 無為法ならば一切の無為法は寂静にして無の如く、虚空の如きなるが故に清浄である。 菩薩句義(ぼさつくぎ):梵語bodhisattva- padaartha? 菩薩ということばの意味。 又は菩薩ということばの意味に相応する事物、或いは物体を云う。 註:以下69清浄句義文を列ねて、大菩提を求むる菩薩心に於いて、一切法は、皆清浄なりと説く。 註:第一極妙楽、乃至第十一意善安楽の十一句義は、衆生空についての大乗的解釈たる彼我平等の境地を説き、第十二句義以後には一切法の空なることを示す。 即ち衆生の空とは、謂わゆる第一極妙楽、第二諸見永寂、第三微妙適悦、第四渇愛永息の四種を以って、菩薩の空三昧と為し、此の中、第二諸見永寂を以って愚癡を破り、第三微妙適悦(喜悦)を以って瞋恚を破り、渇愛永息を以って貪欲を破り、総じて三毒を皆破る。 次に第五胎蔵超越、第六衆徳荘厳、第七意極猗適、第八得大光明の四種を以って、菩薩の無相三昧と為し、此の中第五胎蔵超越を以って身の不浄なるを破り、第七意極猗適を以って受の苦なるを破り、第六衆徳荘厳を以って法の無我を破り、第八得大光明を以って心の無常を破り、総じて常楽我淨の不顛倒なることを明かし、第九身善安楽、第十語善安楽、第十一意善安楽の三種を以って、菩薩の無作三昧を示して、身口意業の善なる六波羅蜜を行うを以って、後世の安楽なるを明す。 註:小乗に於いては、衆生の空は、即ち不自在、故に苦なることを示すも、大乗に於いては、彼我平等の空三昧中に於いて、六波羅蜜を以って、彼れを利益する、即ち是れ我が極妙楽の境地なりと為すものである。 諸見永寂清淨句義是菩薩句義。 『諸見は永寂せり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 諸見(しょけん):見は梵語dRSTi、或いはdarzanaの訳。 見るの義。 所謂見解、思想、主義、主張の意にして、正見、邪見等の別あるも、今は五種の邪見を云う。 謂わゆる五見(梵語paJca dRSTayaH)である、就中一に有身見(梵satkaaya- dRSTi)、即ち自ら我の存在有りと執するを称して我見と為し、この我に属するを以って、則ち我所見と称す。 二に辺執見(梵anta-graaha- dRSTi)、即ち極端なる一遍に辺執する見解にして、謂わゆる我は死後にも仍ち常住不滅なり、これを称して常見(有見)と為し、謂わゆる我は死後に則ち断絶す、これを称して断見(無見)と為す。 三に邪見(梵mithyaa- dRSTi)、即ち因果の道理を否定する見解と為す。 四に見取見(梵dRSTi- paraamarza)、即ち錯誤の見解に執著し、以って真実と為す者なり。 五に戒禁取見(梵)ziila- vrata- paraamarza)、即ち不正確なる戒律、禁制等を見て、涅槃に可達の戒行と為す等、この取の執著を即ち称して、戒禁取見と為す。 永寂(ようじゃく):永く寂す。 永久に静寂となる。 寂は梵語zaantiの訳、又寂静、静寂と訳す。 悪思が鎮まり、心が平和になることをいう。 註:諸見は無明、或いは愚癡より生ずる三毒の一である。 菩薩は彼我平等の空三昧中に於いて、般若波羅蜜の智慧を以って、六波羅蜜を行うが故に、諸見永寂と言う。 微妙適悅清淨句義是菩薩句義。 『微妙にして適悦なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 身(しん):身業(梵語kaaya- karma)の略。 罪福の果報を招くべき善悪の身の行い。 語(ご):口業(梵語vaak- karma)の意。 又語業に作る。 罪福の果報を招くべき善悪の口の行い。 意(い):意業(梵語manas- karma)の略。 又心業に作る。 罪福の果報を招くべき善悪の意の行い。 善(ぜん):善は梵語kuzalaの訳。 福報を引く善い行いを善業(梵語kuzala- karma)という。 註:身業、口業、意業を併せて三業(梵語triiNi- karmaaNi)と称す。 彼我平等の無作三昧中に於いて、身語意を以って、衆生を善導すれば、故に他世に於いて安楽の浄土を得て、阿耨多羅三藐三菩提を成ず、故に身、語意善安楽と言う。 色蘊空寂清淨句義是菩薩句義。 受想行識蘊空寂清淨句義是菩薩句義。 『色蘊は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『受想行識蘊は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 色蘊(しきうん):梵語ruupa- skandhaの訳。 蘊(梵語skandha)は積聚の義。 色(梵語ruupa は一切の色法、即ち色と形を有するものの総称。 即ち眼等の五根、及び色等の五境をいう。 受蘊(じゅうん):梵語vedanaa- skandhaの訳。 境に対して感受する苦楽等の精神作用。 想蘊(そううん):梵語aMjJaa- skandhaの訳。 境に対して事物を想像する精神作用。 行蘊(ぎょううん):梵語saMskaara- skandhaの訳。 受想識を除き、境に対して生ずる貪瞋等の一切善悪の精神作用。 識蘊(しきうん):梵語vijJaana- skandhaの訳。 境に対して事物を了別識知する精神作用。 空寂(くうじゃく):梵語zuunyataa空虚の義、及び梵語zaanti静寂の義の併称。 即ち諸の相無きを空といい、起滅無きを寂という。 即ち法に対して其の相を取らず、分別せざれば、意は静寂安穏にして清浄なることをいう。 蓋し小乗乃至外道の法に於いては種種に諸法を論ずるに、時として諍論の害少なからず。 故に大乗に於いては相を取らずに、一切の因縁所生の法は空にして分別すべからずと為すに由りて、意(思)の寂静たるを求め、但仏の大慈大悲に倣いて、其の中に於いて六波羅蜜等を行ずるをいう。 註:第12句義乃至第第69句義を以って、一切法の空寂にして、清浄なることを説く。 是れ即ち般若波羅蜜多に由るが故なり。 註:色蘊乃至識蘊を総じて五蘊(梵語paJca skandhaaH)と称す。 註:色蘊空寂とは、即ち色蘊に関して語言絶え、思慮分別することなきが故に戯論なき状態なることをいう。 註:以下空寂清浄の句義が続くが、是れ等色蘊等の法、或いは其の名は皆、用有るに応じて説かれたものであるが故に、本来空寂なることを言い、戯論すべからざることを説くものである。 眼處空寂清淨句義是菩薩句義。 耳鼻舌身意處空寂清淨句義是菩薩句義。 色處空寂清淨句義是菩薩句義。 聲香味觸法處空寂清淨句義是菩薩句義。 『眼処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『耳鼻舌身意処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『色処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『声香味触法処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 眼処(げんじょ):梵語cakSur- aayatanaの訳、処aayatanaは家、宿舎の義にして生長、養育の意。 即ち眼根を以って、心を養育するの意。 眼根に同じ。 耳処(にじょ):梵語zrotraayatanaの訳、耳根に同じ。 鼻処(びじょ):梵語ghraaNaayatanaの訳、鼻根に同じ。 舌処(ぜつじょ):梵語jihvaayatanaの訳、舌根に同じ。 身処(しんじょ):梵語kaayaayatanaの訳、身根に同じ。 意処(いじょ):梵語mana- aayatanaの訳、意根に同じ。 色処(しきじょ):梵語ruupaayatanaの訳、色境に同じ。 声処(しょうじょ):梵語zabdaayatanaの訳、声境に同じ。 香処(こうじょ):梵語gandhaayatanaの訳、香境に同じ。 味処(みじょ):梵語rasaayatanaの訳、味境に同じ。 触処(そくじょ):梵語spraSTavyaayatanaの訳、触境に同じ。 法処(ほうじょ):梵語dharmaayatanaの訳、法境に同じ。 註:眼処乃至法処を総称して十二処(梵語dvaadaza aayatanaani)という。 眼界空寂清淨句義是菩薩句義。 耳鼻舌身意界空寂清淨句義是菩薩句義。 色界空寂清淨句義是菩薩句義。 聲香味觸法界空寂清淨句義是菩薩句義。 眼識界空寂清淨句義是菩薩句義。 耳鼻舌身意識界空寂清淨句義是菩薩句義。 『眼界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『耳鼻舌身意界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『色界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『声香味触法界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『眼識界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『耳鼻舌身意識界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 眼界(げんかい):梵語cakSur -dhaatuの訳。 眼根に同じ。 界dhaatuは要素の義、人の身心を十八種の要素に分類するの意。 色界(しきかい):梵語ruupa- dhaatuの訳、色境に同じ。 眼識界(げんしきかい):梵語cakSur- vijJaana- dhaatuの訳、眼の色に対して生ずる心識。 耳界(にかい):梵語zrotra- dhaatuの訳、耳根に同じ。 声界(しょうかい):梵語zabda- dhaatuの訳、声境に同じ。 耳識界(にしきかい):梵語zrotra- vijJaana- dhaatuの訳、耳の声に対して生ずる心識。 鼻界(びかい):梵語ghraaNa- dhaatuの訳、鼻根に同じ。 香界(こうかい):梵語gandha- dhaatuの訳、香境に同じ。 鼻識界(びしきかい):梵語ghraaNa- vijJaana- dhaatuの訳、鼻の香に対して生ずる心識。 舌界(ぜつかい):梵語jihvaa- dhaatuの訳、舌根に同じ。 味界(みかい):梵語rasa -dhaatuの訳、味境に同じ。 舌識界(ぜつしきかい):梵語jihvaa- vijJaana- dhaatuの訳、舌の味に対して生ずる心識。 身界(しんかい):梵語kaaya- dhaatuの訳、身根に同じ。 触界(そくかい):梵語spraSTavya- dhaatuの訳、触境に同じ。 身識界(そくしきかい):梵語kaaya- vijJaana- dhaatuの訳、身の所触に対して生ずる心識。 意界(いかい):梵語mano- dhaatuの訳、意根に同じ。 法界(ほうかい):梵語dharma- dhaatuの訳、法境に同じ。 意識界(いしきかい):梵語mano- vijJaana- dhaatuの訳、意の法に対して生ずる心識。 註:色界乃至意識界を総称して十八界(梵語aSTaadaza dhaatavaH)という。 眼觸空寂清淨句義是菩薩句義。 耳鼻舌身意觸空寂清淨句義是菩薩句義。 眼觸為緣所生諸受空寂清淨句義是菩薩句義。 耳鼻舌身意觸為緣所生諸受空寂清淨句義是菩薩句義。 『眼触は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『耳鼻舌身意触は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『眼触を縁と為して生ずる所の諸受は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『耳鼻舌身意触を縁と為して生ずる所の諸受は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 地界(じかい):梵語pRthivii- dhaatuの訳。 又地大と称す。 堅を性とする。 水界(すいかい):梵語aap- dhaatuの訳。 又水大と称す。 湿を性とする。 火界(かかい):梵語tejas- dhaatuの訳。 又火大と称す。 熱を性とする。 風界(ふうかい):梵語vaayu- dhaatuの訳。 又風大と称す。 動を性とする。 空界(くうかい):梵語aakaaza- dhaatuの訳。 又空大と称す。 竅隟(スキマ)を性とする。 識界(しきかい):梵語vijJaana- dhaatuの訳。 又識大と称す。 識知を性とする。 註:地界乃至識界を総称して六界(梵語SaD- dhaatavaH)、又は六大と称す。 界(梵語dhaatu)は要素の義。 此の六界は有情一期の間能く其の生を任持するものの意にして、此の中、地水火風の四界は即ち能造の大種、一切諸色の所依となり、空界は内外の竅隟にして亦た能く生長の因となり、共に色蘊に摂す。 識界は即ち有漏識にして諸有を摂益任持するものなるが故に、総じて此の六界を有情相続の所依の体事とする。 註:以上色蘊、受想行識蘊、眼処、耳鼻舌身意処、色処、声香味触法処、眼界、耳鼻舌身意界、色界、声香味触法界、眼識界、耳鼻舌身意識界、眼触、耳鼻舌身意触、眼触為縁所生諸受、耳鼻舌身意為縁所生諸受、地界、水火風空職界に関する18清浄句義文を以って、菩薩の内外の根境識等の法の清浄を説く。 苦聖諦空寂清淨句義是菩薩句義。 集滅道聖諦空寂清淨句義是菩薩句義。 『苦聖諦は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『集滅道聖諦は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 苦聖諦(くしょうたい):梵語duHkha- satyaの訳。 生老病死苦、怨憎会苦、愛別離苦、所求不得苦、五盛陰苦を明了に知る。 集聖諦(じゅうしょうたい):梵語samudaya- satyaの訳。 眼等に於ける愛が苦を集めると明了に知る。 滅聖諦(めつしょうたい):梵語nirodha- satyaの訳。 眼等の愛が息めば苦が滅すると明了に知る。 道聖諦(どうしょうたい):梵語maagra- satyaの訳。 苦を滅する道は八正道、謂わゆる正見、正思、正語、正業、正命、正方便、正念、正定であると明了に知って之を行う。 註:苦聖諦乃至道聖諦を総称して四聖諦(梵語catvaary- aarya- satyaani)という。 註:菩薩は四聖諦に関し、其の名義に就いて戯論を用いず、但だ六波羅蜜を実践するのみ、故に四聖諦空寂すと説く。 因緣空寂清淨句義是菩薩句義。 等無間緣所緣緣增上緣空寂清淨句義是菩薩句義。 『因縁は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『等無間縁所縁縁増上縁は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 因縁(いんねん):梵語hetu- pratyayaの訳。 果を生ずる直接的な原因。 等無間縁(とうむげんえん):梵語samanantara- pratyayaの訳。 前刹那の心は後の心の原因。 所縁縁(しょえんえん):梵語aalambana- pratyayaの訳。 所縁即ち外境は、心の生ずる縁。 増上縁(ぞうじょうえん):梵語adhipati- pratyayaの訳。 一切の法は、果となる一法のための縁。 註:因縁乃至増上縁を総称して四縁(梵語catvaaraH- pratyayaaH)という。 註:因縁生起の法は仏法の肝要なりと雖も、菩薩は敢て戯論するを用いず、但だ六波羅蜜の実践あるのみ、故に四縁空寂すと説く。 無明空寂清淨句義是菩薩句義。 行識名色六處觸受愛取有生老死空寂清淨句義是菩薩句義。 『無明は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『行識名色六処触受愛取有生老死は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 無明(むみょう):梵語avidyaaの訳。 十二因縁の第一。 即ち無知、乃至無学の義。 行(ぎょう):梵語saMskaaraの訳。 十二因縁の第二。 即ち訓練、教育の義。 識(しき):梵語vijJaanaの訳。 十二因縁の第三。 即ち識別、知識の義。 名色(みょうしき):梵語naama- ruupaの訳。 十二因縁の第四。 即ち名前と形色の義。 名と事物。 六処(ろくじょ):梵語SaD- aayatanaの訳。 十二因縁の第五。 即ち六ヶの宿舎の義。 触(そく):梵語sparzaの訳。 十二因縁の第六。 即ち接触の義。 六根は六境に対する。 受(じゅ):梵語vedanaaの訳。 十二因縁の第七。 即ち苦痛の義。 根境に対して生じる苦楽。 愛(あい):梵語tRSNaaの訳。 十二因縁の第八。 即ち欲望の義。 苦楽を受けて欲望を生じる。 取(しゅ):梵語upaadaanaの訳。 十二因縁の第九。 即ち贈物に関心を示すの義。 得んと欲する。 有(う):梵語bhavaの訳。 十二因縁の第十。 即ち存在の義。 外境に対し関心を示すが故に存在する。 生(しょう):梵語jaataの訳。 十二因縁の第十一。 即ち生まれたものの義。 自己を確立する。 老死(ろうし):梵語jaraa- maraNaの訳。 十二因縁の第十二。 即ち老と死の義。 即ち苦有り。 註:無明乃至老死を総称して十二因縁(梵語dvaadazaaGga- pratiitya- samutpaada)という。 即ち無明を縁として行あり、行を縁として識あり、乃至生を縁として老死あるをいい、又生無ければ老死無し、乃至無明無ければ行無きをいう。 布施波羅蜜多空寂清淨句義是菩薩句義。 淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多空寂清淨句義是菩薩句義。 『布施波羅蜜多は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『浄戒安忍精進静慮般若波羅蜜多は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 布施波羅蜜多(ふせはらみった):梵語daana- paaramitaaの訳。 布施の河を渡って彼岸に到る。 浄戒波羅蜜多(じょうかいはらみった):梵語ziila- paaramitaaの訳。 持戒の河を渡って到る。 安忍波羅蜜多(あんにんはらみった):梵語kSaanti- paaramitaaの訳。 忍辱の河を渡って到る。 精進波羅蜜多(しょうじんはらみった):梵語viirya- paaramitaaの訳。 精進の河を渡って到る。 静慮波羅蜜多(じょうりょはらみった):梵語dhyaana- paaramitaaの訳。 禅定の河を渡って到る。 般若波羅蜜多(はんにゃはらみった):梵語prajJaa- paaramitaaの訳。 智慧の河を渡って到る。 註:布施波羅蜜多乃至般若波羅蜜多を総称して六波羅蜜多(梵語Sad- paaramitaa)という。 註:六波羅蜜を行ずるを以って、即ち是れ菩薩なりとし、六波羅蜜を戯論するが故に菩薩に非ずと説く。 真如空寂清淨句義是菩薩句義。 法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界空寂清淨句義是菩薩句義。 『真如は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『法界法性不虚妄性不変異性平等性離生性法定法住実際虚空界不思議界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 真如(しんにょ):梵語tathataaの訳。 事物のあるがままのすがた。 法界(ほっかい):梵語dharma dhaatuの訳。 意識の対象となるすべての事物。 法性(ほっしょう):梵語dharmataaの訳。 法の体性の義。 一切の事物の有する真実不変の本性。 不虚妄性(ふこもうしょう):虚妄ならざる真実の性。 不変異性(ふへんいしょう):変異せざる常住の性。 平等性(びょうどうしょう):梵語samataaの訳。 彼我、彼此の虚妄各各相を破る空平等性をいう。 離生性(りしょうしょう):三界の生を離れたる性。 法定(ほうじょう):決定して諸法の中に在るをいい、空、或いは真如の異名。 法住(ほうじゅう):必ず一切諸法中に住するをいい、空、或いは真如の異名。 実際(じっさい):梵語bhuuta- koTiの訳。 真如の界際、真実際の義。 又真如の異名。 虚空界(こくうかい):梵語aakaaza- dhaatuの訳。 何者も存在しない竅隟(スキマ)。 不思議界(ふしぎかい):梵語acintya- dhaatuの訳。 仏力、衆生多少、業果報等不可思議の性。 四靜慮空寂清淨句義是菩薩句義。 四無量四無色定空寂清淨句義是菩薩句義。 『四静慮は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『四無量四無色定は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 四静慮(しじょうりょ):梵語catvaari dhyaanaaniの訳。 又四禅とも称す。 色界の静慮に四種の別あるの意。 謂わゆる 一に初禅(梵prathama- dhyaana)、有尋有伺(有覚有観)、離生喜楽の地。 二に第二禅(梵dvitiiya- dhyaana)、無尋無伺(無覚無観)、定生喜楽の地。 三に第三禅(梵tRtiiya- dhyaana)、無尋無伺(無覚無観)、離喜妙楽の地。 四に第四禅(梵caturtha- dhyaana)、無尋無伺(無覚無観)、捨念清浄の地。 四無量(しむりょう):梵語catvaary- apramaaNaaniの訳。 四種の無量の意。 無量の衆生を縁じ、それをして楽を得、苦を離れしめんと思惟し、各その等至に入るの意。 謂わゆる、 一に慈無量(梵maitry- apramaaNa)、 二に悲無量(梵karuNa- apramaaNa)、 三に喜無量(梵mudita- apramaaNa)、 四に捨無量(梵upekSa- apramaaNa)。 四無色定(しむしきじょう):梵語catasra- aaruupya- samaapattayaHの訳。 四種の無色定の意。 謂わゆる、 一に空無辺処(梵aakaazaanantyaayatana- samaapatti)、 二に識無辺処(梵vijJaanaanantyaayatana- samaapatti)、 三に無所有処(梵aakiMcanyaayatana- samaapatti)、 四に非想非非想処(梵naivasaMjJaanaasaMjJaayatana- samaapatti)。 四念住空寂清淨句義是菩薩句義。 四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支空寂清淨句義是菩薩句義。 『四念住は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『四正断四神足五根五力七等覚支八聖道支は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 四念住(しねんじゅう):梵語catvaari- smRty- upasthaanaaniの訳。 又四念処と訳す。 四種の念処の意。 謂わゆる、 一に身念処(梵kaaya- smRty- upasthaana)、 二に受念処(梵vedanaa- smRty- upasthaana)、 三に心念処(梵citta- smRty- upasthaana)、 四に法念処(梵dharma- smRty- upasthaana)。 四正断(ししょうだん):梵語catvaari-prahaaNaaniの訳。 四種の正断の意。 即ち悪を遮断し善を生長せしめんが為に方便精勤すること。 謂わゆる、 一に未生悪令不生(梵anutpannaanaaM paapakaanaam akuzalaanaaM dharmaanaam anutpaadaaya cchandaM janayati)、 二に已生悪令永断(梵utpannaanaaM paapakaanaam akuzalaanaaM dharmaanaaM prahaaNaaya cchandaM janayati)、 三に未生善令生(梵anutpannaanaaM kuzalaanaaM dharmaanaam utpaadaaya cchandaM janayati)、 四に已生善令増上(梵utpannaanaaM kuzalaanaaM dharmaaNaaM sthitayebhuuyo- bhaavataayai asaMpramoSaaya paripuuNaaya cchandaM janayati)。 四神足(しじんそく):梵語catvaara- Rddhi- paadaaHの訳。 又四如意足と称す。 四種の神足の意。 即ち欲等の四法の力に由りて引発せられ、種種の神用を現起する三摩地をいう。 謂わゆる 一に欲三摩地断行成就神足(梵chanda- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi- paada)、 二に心三摩地断行成就神足(梵citta- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi-paada)、 三に勤三摩地断行成就神足(梵viirya- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi-paada)、 四に観三摩地断行成就神足(梵miimaaMsaa- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi-paada)。 五根(ごこん):梵語paJca- indriyaaNiの訳。 煩悩を伏し聖道を引くに於いて増上の用ある五種の根をいう。 謂わゆる、 一に信根(梵zraddha- indriya)、 二に進根(梵viirya- indriya)、 三に念根(梵smRti- indriya)、 四に定根(梵samaadhi- indriya)、 五に慧根(梵prajJa- indriya)。 五力(ごりき):梵語paJca- balaaniの訳。 即ち聖道を発生する五種の力用の意。 謂わゆる、 一は信力(梵zraddhaa- bala)、 二は精進力(梵viirya- bala)、 三は念力(梵smRti- bala)、 四に定力(梵samaadhi- bala)、 五に慧力(梵prajJaa- bala)。 七等覚支(しちとうがくし):梵語sapta- bodhyaGgaaniの訳。 菩提に順趣する七種の法の意。 又七覚支、七覚分とも称す。 一に念覚支(梵smRti- saMbodhyaGga)、 二に択法覚支(梵dharma- pravicaya- saMbodhyaGga)、 三に精進覚支(梵viirya- saMbodhyaGga)、 四に喜覚支(梵priiti- saMbodhyaGga)、 五に軽安覚支(梵prasrabodhi- saMbodhyaGga)、 六に定覚支(梵samaadhi- saMbodhyaGga)、 七に捨覚支(梵upekSaa- saMbodhyaGga)。 八聖道支(はっしょうどうし):梵語aaryaaSTaaGgika- maargaの訳。 八種の正道の意。 又八聖道分、八正道とも名づく。 即ち涅槃を求趣する道支に八種あるをいう。 謂わゆる、 一に正見(梵samyag-dRSTi)、 二に正思(梵samyak- saMkalpa)、 三に正語(梵samyag- vaac)、 四に正業(梵samyak- karmaanta)、 五に正命(梵samyag- aajiiva)、 六に正方便(梵samyag- vyaayaama)、 七に正念(梵samyak- smRti)、 八に正定(梵samyak- samaadhi)。 空解脫門空寂清淨句義是菩薩句義。 無相無願解脫門空寂清淨句義是菩薩句義。 『空解脱門は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『無相、無願解脱門は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 空解脱門(くうげだつもん):梵語のzuunyataa vimokSa- mukha訳。 空を行じて解脱するの意。 無相解脱門(むそうげだつもん):梵語のanimitta vimokSa- mukha訳。 無相を行じて解脱する。 無願解脱門(むがんげだつもん):梵語のapraNihita vimokSa- mukha訳。 無願を行じて解脱する。 註:空解脱門乃至無願解脱門を総称して三解脱門(梵語tiiNi vimokSa- mukhaani)という。 八解脫空寂清淨句義是菩薩句義。 八勝處九次第定十遍處空寂清淨句義是菩薩句義。 『八解脱は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『八勝処九次第定十遍処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 八解脱(はちげだつ):梵語aSTau-vimokSaaHの訳。 又八背捨とも名づく。 即ち八種の定力に由りて色貪等の心を棄背するをいう。 謂わゆる、 一に内有色想観諸色解脱(梵ruupii ruupaaNi pazyat)、 二に内無色想観外色解脱(梵adhyaatmam aruupa-saMjJii bahirdhaa ruupaaNi pazyati)、 三に浄解脱身作証具足住(梵zubhaM vimokSaM kaayena saakSaatkRtvopasaMpadya viharati)、 四に超諸色想観有対想不思惟種種想入無辺空空無辺処具足住解脱(梵sa sarvazoruupa-saMjJaanaaM samatikranaat pratigha-saMjJaaNaam astaMgamaan naanaatva-saMjJaanaam amanasikaaraad anantamaakaazam ity aakaazaanantyaayatanam upasaMpadya viharati)、 五に超一切空無辺処入無辺識識無辺処具足住解脱(梵sa sarvaza aakaazaanantyaayatanaM samatikramyaanantaM vijJaanam iti vijJaanaanantyaanatanam upasaMpadya viharati)、 六に超一切識無辺処入無所有無所有処具足住解脱(梵sa sarvazo vijJaanaanantyaayatanaM samatikramya naasti kiJcid ity aakiJcanyaayatanam upasaMpadya viharati)、 七に超一切無所有処入非想非非想処具足住解脱(梵sa sarvaza aakciJcanyaayatanaM samatikramya naiivasaMjJaanaasamjJaayaayatanam upasaMpadya viharati)、 八に超一切非想非非想処入想受滅身作証具足住解脱(梵sa sarvazo naiivasaMjJaanaasaM jJaayatanaM samatikramya saMjJaa- vedita- nirodhaM kaayena saakSaatkRtvopasaMpadya viharati)。 八勝処(はっしょうじょ):梵語aSTaavabhibhv- aayatanaaniの訳。 欲界の色処を観じて、所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるをいう。 謂わゆる、 一に内有色想観外色少勝処、 二に内有色想観外色多勝処、 三に内無色想観外色少勝処、 四に内無色想観外色多勝処、 五に内無色想観外色青勝処、 六に内無色想観外色黄勝処、 七に内無色想観外色赤勝処、 八に内無色想観外色白勝処。 九次第定(くしだいじょう):梵語navaanupuuva- samaapattayaHの訳。 次第に無間に修する九種の定の意。 又無間禅、或いは練禅、錬禅とも名づく。 謂わゆる、 一に初禅次第定、 二に二禅次第定、 三に三禅次第定、 四に四禅次第定、 五に空処次第定、 六に識処次第定、 七に無所有処次第定、 八に非想非非想処次第定、 九に滅受想次第定。 十遍処(じっぺんじょ):梵語dazakRtsnaayatanaani、十種の遍処の意。 また十一切入、十一切処、十遍入、或は十遍処定とも名づく。 即ち勝解作意に依りて色等の十法が、各一切処に周遍して間隙なしと観ずるをいう。 謂わゆる、 一に地遍処(梵pRthivii- kRtsnaayatana)、 二に水遍処(梵ap- kRtsnaayatana)、 三に火遍処(梵tejas- kRtsnaayatana)、 四に風遍処(梵vaayu- kRtsnaayatana)、 五に青遍処(梵niila- kRtsnaayatana)、 六に黄遍処(梵piita- kRtsnaayatana)、 七に赤遍処(梵lohita- kRtsnaayatana)、 八に白遍処(梵avadaata- kRtsnaayatana)、 九に空遍処(梵aakaaza- kRtsnaayatana)、 十に識遍処(梵vijJaana- kRtsnaayatana)。 極喜地空寂清淨句義是菩薩句義。 離垢地發光地焰慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地空寂清淨句義是菩薩句義。 『極喜地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『離垢地発光地焔慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 極喜地(ごくきち):梵語pramuditaa- bhuumiの訳。 十地中の初地。 離垢地(りくち):梵語vimalaa- bhuumiの訳。 十地中の第二地。 発光地(はっこうぢ):梵語prabhaakarii- bhuumiの訳。 十地中の第三地。 焔慧地(えんねち):梵語arciSmatii- bhuumiの訳。 十地中の第四地。 極難勝地(ごくなんしょうち):梵語sudurjayaa- bhuumiの訳。 十地中の第五地。 現前地(げんぜんち):梵語abhimukhii- bhuumiの訳。 十地中の第六地。 遠行地(おんぎょうち):梵語duuraMgama- bhuumiの訳。 十地中の第七地。 不動地(ふどうち):梵語acalaa- bhuumiの訳。 十地中の第八地。 善慧地(ぜんねち):梵語saadhumatii- bhuumiの訳。 十地中の第九地。 法雲地(ほううんち):梵語dharma- meghaa- bhuumiの訳。 十地中の第十地。 註:極喜地乃至法雲地は通常極喜地等の十地(梵語daza-bhuumayaH)と称し、菩薩の位階に十地あることを示す。 淨觀地空寂清淨句義是菩薩句義。 種性地第八地具見地薄地離欲地已辦地獨覺地菩薩地如來地空寂清淨句義是菩薩句義。 『浄観地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『種性地第八地具見地薄地離欲地已辦地独覚地菩薩地如来地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 浄観地(じょうかんち):梵語zukla- vidarzanaa- bhuumiの訳。 又乾慧地と称す。 十地中の初地。 種性地(しゅしょうち):梵語gotra- bhuumiの訳。 又性地と称す。 十地中の第二地。 第八地(だいはちち):梵語aSTamaka- bhuumiの訳。 又八人地と称す。 十地中の第三地。 具見地(ぐけんち):梵語darzana- bhuumiの訳。 又見地と称す。 十地中の第四地。 薄地(はくち):梵語tanuu- bhuumiの訳。 十地中の第五地。 離欲地(りよくち):梵語viita- raaga- bhuumiの訳。 十地中の第六地。 已辦地(いべんち):梵語kRtaavii- bhuumiの訳。 又已作地と称す。 十地中の第七地。 独覚地(どくかくち):梵語pratyeka- buddha- bhuumiの訳。 又辟支仏地と称す。 十地中の第八地。 菩薩地(ぼさつち):梵語bodhi- sattva- bhuumiの訳。 十地中の第九地。 如来地(にょらいち):梵語buddha- bhuumiの訳。 又仏地とも称す。 十地中の第十地。 註:浄観地乃至如来地を三乗共十地と称し、菩薩の位階に十種の別あることを示す。 一切陀羅尼門空寂清淨句義是菩薩句義。 『一切の陀羅尼門は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 六神通(ろくじんづう):梵語SaD abhijJaaHの訳。 略して六通とも名づく。 仏菩薩の定慧力に依りて示現する六種の無礙自在の妙用をいう。 即ち、 一に神足通(梵Rddhy- abhijJaa)、 二に天眼通(梵divya- cakSur- abhijJaa)、 三に天耳通(梵divya- srotra- abhijJaa)、 四に他心通(梵cetaH- paryaaya- abhijJaa)、 五に宿住通(梵puurva- nivaasaanusmRti- abhijJaa)、 六に漏尽通(梵aasrava- kSaya- abhijJaa)。 如來十力空寂清淨句義是菩薩句義。 四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法空寂清淨句義是菩薩句義。 三十二相空寂清淨句義是菩薩句義。 八十隨好空寂清淨句義是菩薩句義。 『如来の十力は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八仏不共法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『三十二相は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『八十随好は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 十力(じゅうりき):梵語daza- tathaagata- blaani、仏のみ成就する十種の智力をいう。 謂わゆる、 一に処非処智力(梵語sthaanaasthaana- jJaana- bala)、 二に業異熟智力(梵語karma- vipaaka- jJaana- bala)、 三に静慮解脱等持等至智力(梵語sarva- dhyaana- vimokSa- samaadhi- samaapatti- saMkleza- vyavadaana- vyutthaana- jJaana- bala)、 四に根上下智力(梵語indriya- paraapara- jJaana- bala)、 五に種種勝解智力(梵語naanaadhimukti- jJaana- bala)、 六に種種界智力(梵語naanaa- dhaatu- jJaana- bala)、 七に徧趣行智力(梵語sarvatra- gaaminii- pratipaj- jJaana- bala)、 八に宿住随念智力(梵語puurva- nivaasiinusmRti- jJaana- bala)、 九に死生智力(梵語cyuty- utpatti- jJaana- bala)、 十に漏尽智力(梵語aasrava- kSaya- jJaana- bala)。 四無所畏(しむしょい):梵catvaari- tathaagatasya vaizaaradyaaniの訳。 仏は四種の無所畏有るが故に説法に当りて勇猛安穏なることをいう。 謂わゆる、 一に諸法現等覚無畏(梵sarva- dharamaabhisaMbodhi- vaizaaradya)、 二に一切漏尽智無畏(梵sarvaasrava- kSaya- jJaana- vaizaaradya)、 三に障法不虚決定授記無畏(梵antaraayika- dharmaananyathaatva- nizcita- vyaakaraNa- vaizaaradya)、 四に為証一切具足出道如性無畏(梵sarva- saMpad- adhigamaaya- nairyaaNika- pratipat- tataatva- vaizaaradya)。 四無礙解(しむげげ):梵語catasraH- pratisaMvidaHの訳。 四種の無礙自在なる解智をいう。 謂わゆる、 一に法無礙解(梵dharma- pratisaMvid)、事物の意味を示す為の文章、乃至経書に於いて無礙である。 二に義無解礙(梵arthaー pratisaMvid)、法に由って示さるる意味に於いて無礙である。 三に詞無解礙(梵niruktiー pratisaMvid)、単語、術語、言葉の理解に於いて無礙である。 四に楽説無解礙(梵pratibhaanaー pratisaMvid)、雄弁に説得するに於いて無礙である。 十八仏不共法(じゅうはちぶつふぐうほう):梵語aSTadazaaveNikaa- buddha- dharumaaHの訳。 又十八不共法と訳す。 仏のみ有し他の声聞等と共にせざる十八種の智力をいう。 謂わゆる、 一に諸仏身無失(梵naasti tathaagatasya skhalitaM)、 二に口無失(梵naasti ravitaM)、 三に念無失(梵naasti muSita- smRtitaa)、 四に無異想(梵naasti naanaatva- saMjJaa)、 五に無不定心(梵naasty a- samaahita- citaM)、 六に無不知己捨心(梵naasy a- pratisaMkhyaayoopeksaa)、 七に欲無減(梵naasti chandasya haaniH)、 八に精進無減(梵naasti viiryasya haaniH)、 九に念無減(梵naasti smRter haaniH)、 十に慧無減(梵naasti prajJaayaa haanniH)、 十一に解脱無減(梵naasti vimukterhaaniH)、 十二に解脱知見無減(梵naasti vimukti- jJaana- darzana- parihaaniH)、 十三に一切身業随智慧行(梵sarva- kaaya- karma jJaana- purvaMgamaM jJaanaanuparivarti)、 十四に一切口業随智慧行(梵sarava- vaak- karma jJaana- purvaMgamaM jJaanaanuparivarti)、 十五に一切意業随智慧行(梵sarva- manas- karma jJaana- purvaMgamaM jJaanaanuparivarti)、 十六に智慧知見過去世無礙無障(梵atiite'dhvany asaNgam apratihataM jJaana-darzanaM pravartate)、 十七に智慧知見未来世無礙無障(梵anaagate'dhvany asaNgam apratihataM jJaana-darzanaM pravartate)、 十八に智慧知見現在世無礙無障(梵pratyutpanne'dhvany asaNgam apratihataM jJaana-darzanaM pravartate)。 三十二相(さんじゅうにそう):梵語dvaatriMzan- mahaa- puruSa- lakSaNaaniの訳。 仏及び転輪聖王の身に具足せる三十二種の微妙の相をいう。 八十随好(はちじゅうずいこう):三十二相に随う八十種の好相をいう。 無忘失法空寂清淨句義是菩薩句義。 『無忘失の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 異生(いしょう):梵語pRthag- janaの訳。 又凡夫と訳す。 凡夫は六道を輪迴して、種種の別異の果報の生を受けて邪見、造悪するが故に異生という。 預流(よる):梵語須陀洹srota- aapannaの訳。 聖者中の初位。 一来(いちらい):梵語斯陀含sakRdaagaaminの訳。 聖者中の第二位。 不還(ふげん):梵語阿那含anaagaaminの訳。 聖者中の第三位。 阿羅漢(あらかん):梵語arhatの訳。 聖者中の頂位。 独覚(どくかく):梵語辟支仏pratyeka- buddhaの訳。 仏菩薩に依らず自ら覚る者。 菩薩(ぼさつ):梵語菩提薩埵bodhi- sattvaの略。 阿耨多羅三藐三菩提を求める衆生。 如来(にょらい):梵語梵語多陀阿伽陀tathaagataの訳。 如去とも訳す。 如実に来至せし者、又如実より到来せし者、或いは如く来たりし者の意。 仏の十号の一。 一切善非善法空寂清淨句義是菩薩句義。 一切有記無記法有漏無漏有為無為法世間出世間法空寂清淨句義是菩薩句義。 『一切の善、非善の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『一切の有記無記の法、有漏無漏有為無為の法、世間出世間の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 『句』の、 『義』である。 善(ぜん):梵語kuzalaの訳。 其の性安隠にして此世及び他世を順益すべき白浄の法をいう。 非善(ひぜん):梵語akuzalaの訳。 善ならざるの意。 悪に同じ。 其の性不安隠にして、能く此世及び他世の違損をなす黒悪の法をいう。 有記(うき):梵語vyaakRtaの訳。 其の性の善又は不善なる法をいう。 無記(むき):梵語avyaakRtaの訳。 其の性の善又は不善を記別すべからざる法をいう。 有漏(うろ):梵語aasrabaHの訳。 無漏に対す。 漏は漏泄の意、又煩悩の異名。 貪、瞋等の煩悩の日夜眼耳等の六根門より不善を漏泄するが故に称して漏と為す。 無漏(むろ):梵語anaasrabaHの訳。 有漏に対す。 煩悩なき法なることをいう。 有為(うい):梵語saMskRtaの訳。 無為に対す。 拵えられたるものの義。 即ち因縁所成の現象の諸法をいう。 無為(むい):梵語asaMskRtaの訳。 為(梵saMskRta)は造作の義にして、因縁の造作無きことを無為といい、また生住異滅の四相の造作無きことを無為という。 乃ち真如、法性、法界、実相等を指す。 真理の異名。 世間(せけん):梵語lokaの訳。 毀壊すべきものの意。 毀壊すべく、対治せらるべき有為有漏の現象。 出世間(しゅっせけん):梵語 lokottaraの訳。 世間を超出するの意。 世間に対す。 有漏の繋縛を出離せる無漏解脱の法をいう。 註:善非善無記を総称して三性という。 註:以上苦聖諦、集滅道聖諦、因縁、等無間縁所縁縁増上縁、無明、行識名色六処愛取有生老死、布施波羅蜜多、浄戒安忍精進静慮般若波羅蜜多、真如、法界法性不虚妄性不変異性平等性離生性法定法住実際虚空界不思議界、四静慮、四無量四無色定、四念住、四正断四神足五根五力七等覚支八聖道支、空解脱門、無相無願解脱門、八解脱、八勝処九次第定十遍処、極喜地、離垢地発光地焔慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地、浄観地、種性地第八地具見地薄地離欲地已辦地独覚地菩薩地如来地、一切陀羅尼門、一切三摩地門、五眼、六神通、如来十力、四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八不共法、三十二相、八十随好、無亡失法、恒住捨性、一切智、道相智一切相智、一切菩薩摩訶薩行、諸仏無上正等覚、一切異生法、一切預流一来不還阿羅漢独覚菩薩如来法、一切善非善、一切有記無記法有記無記法有漏無漏法有為無為法世間出世間法に関する菩薩行、及び行果に就き、40清浄句義文を以って、菩薩心に於いて、是れ等の法は空寂しており、敢て戯論を用いざることを説けり。 所以者何。 以一切法自性空故自性遠離。 由遠離故自性寂靜。 由寂靜故自性清淨。 由清淨故甚深般若波羅蜜多最勝清淨。 如是般若波羅蜜多。 當知即是菩薩句義。 諸菩薩眾皆應修學。 所以(ゆえ)は何んとなれば、一切法の自性空なるを以っての故に、自性を遠離す。 遠離に由るが故に、自性寂静たり。 寂静に由るが故に、自性清浄なり。 清浄に由るが故に甚深般若波羅蜜多は最勝清浄なり。 是の如き般若波羅蜜多は、当に知るべし、即ち是れ菩薩の句義なり。 諸の菩薩衆は、皆、応に修学すべし、と。 『修学すべき!』である、と。 註:菩薩は一切法の自性空なることを知るが故に戯論せず。 故に法の自性は未だ生起せず。 生起せざるが故に寂静である。 寂静であるが故に一切法は自性清浄である。 一切法が自性清浄ならば、故に菩薩心も清浄である。 菩薩心が清浄であるが故に、菩薩をして是の如く行ぜしむる所の智慧、即ち般若波羅蜜は最勝清浄である。 註:吾人が諍論するとき、その対象となるべき法は、一切皆、吾人の心に投じられたる名と色とであり、言わば幻の如き、影の如きものに過ぎず、そこに実法は一も存在しない。 また一方一切の法は、それ自体既に因縁所生の存在であるが故に、自由に非ず、自在に非ず、皆自ら存するに非ず、受くる所の因縁に応じて常に変化すべくして、その自性は謂わゆる空なのである。 ここを知るとき、吾人の心は諍論息みて寂静せざるべからず。 故に即ち仏の説く所の一切平等、因果応報の理を浄信することができ、積集する所の善業の因縁の故に煩悩の束縛より解脱する。 佛說如是菩薩句義般若理趣清淨法已。 告金剛手菩薩等言。 若有得聞此一切法甚深微妙般若理趣清淨法門深信受者。 乃至當坐妙菩提座。 一切障蓋皆不能染。 謂煩惱障業障報障。 雖多積集而不能染。 雖造種種極重惡業而易消滅不墮惡趣。 若能受持日日讀誦精勤無間如理思惟。 彼於此生定得一切法平等性金剛等持。 於一切法皆得自在。 恒受一切勝妙喜樂。 當經十六大菩薩生。 定得如來執金剛性。 疾證無上正等菩提 仏は是の如き菩薩の句義、般若の理趣の清浄の法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し此の一切法の甚深微妙なる般若理趣の清浄法門を聞くを得て、深く信受すること有らば、乃至当に妙菩提座に坐すべく、一切の障蓋は、皆染する能わざらん。 謂わゆる煩悩障、業障、報障、多く積集すと雖も、染する能わず。 種種の極重の悪業を造ると雖も、易(たやす)く消滅して、悪趣に堕ちざらん。 若し能く受持して日日読誦し、精勤無間にして、理の如く思惟せば、彼れは此の生に於いて、一切法の平等性、金剛の等持を得て、一切法に於いて、皆、自在を得、恒に一切の勝妙なる喜楽を受け、当に十六大菩薩の生を経て、定んで如来の執金剛性を得、疾かに無上正等菩提を証せん。 『無上正等菩提( 阿耨多羅三藐三菩提)』を、 『証する( 自覚する)!』だろう、と。 障蓋(しょうがい):心に蓋(フタ)をして菩提を求むるに障礙となるもの。 煩悩障(ぼんのうしょう):梵語kleza- avaraNaの訳。 衆生の本性たる貪瞋癡等の煩悩。 業障(ごうしょう):梵語karma- avaraNaの訳。 父母阿羅漢を殺す等の五種の無間業。 報障(ほうしょう):梵語vipaaka- avaraNaの訳。 地獄餓鬼畜生等覚り難き生を受くること。 精勤無間(しょうごんむげん):怠らず精進に勤めること。 無間は暇なきことの意。 悪趣(あくしゅ):地獄、餓鬼、畜生の総称。 等持(とうじ):梵語三摩地samaadhiの訳。 又三昧に作り、正定と訳す。 心の一境に住して動ぜざる状態。 十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ):大菩薩は特定の菩薩を指すに非ず、但だ十六反大菩薩としての生を受くるをいうのみ。 執金剛性(しゅうこんごうしょう):煩悩を摧く金剛(梵語vajra、武器の一種)を手に持つ性。 即ち菩提心の譬喩。 註:煩悩障業障報障を総称して三障という。 註:菩薩の心地に於いて、一切の法は自性空なり、故に空中には彼我、彼此、男女等の相なし、故に一切法の性は平等なり、故に一切の法に能作、所作の別なく、即ち所作なきが故に一切の法に於いて、菩薩は自在なりと説く。 『寂静』の、 『法性』である!という、 『甚深の理趣( 仏の道)』であり!、 『現等覚の門( 菩提の門)』である!。 寂静法性(じゃくじょうほっしょう):梵語zaanta- dharmataaの訳。 寂静たる法の本性の義。 一切法の空平等に住持するが故に心寂静せる仏の性をいう。 現等覚(げんとうがく):梵語abhisaMbodhi- nirhaaraHの訳。 等覚、即ち仏に等しき覚りを世間に現すの意。 即ち如来の楽説をいう。 宣説(せんぜつ):遍く説く。 註:「述讃」には、「寂静法性現等覚門」と標し、「即ち是れ闇を除き、観照に於いて正智の境体を顕す。 真如は是れ性なり、正智は是れ相なり。 説に前後有れば、下は皆準じて知り、次の二段にて行境を明かす」と略讃する。 註:如来の相に依るとは、蓋し如来所有の功徳は甚だ多し。 今、其の中の一義を以って、以下の事を明かすの意か。 謂金剛平等性現等覺門。 以大菩提堅實難壞如金剛故。 謂わゆる金剛の平等性は現等覚の門なり、大菩提の堅実にして難壊なること金剛の如きを以っての故に。 『堅実、難壊』であり!、 『金剛のよう!』であるが故に。 金剛(こんごう):梵語vajraの訳。 雷電の義。 山を打ち砕くに由り、最勝堅固なる菩提心の譬喩。 平等性(びょうどうしょう):梵語samataaの訳。 平等の性。 同一の性。 大菩提(だいぼだい):梵語mahaa- bodhi- cittaの訳。 大菩提心。 仏に等しき大菩提を求める心が堅実であることを、金剛に喩える。 註:金剛の如き菩提心は堅実不壊なり、即ち菩薩は世世、生を替え、人を易うと雖も、菩提心は平等の一性にして、金剛の如く堅実不壊なることをいう。 義平等性現等覺門。 以大菩提其義一故。 義の平等性は現等覚の門なり、大菩提は、其の義一なるを以っての故に。 『義』は、 『一』である!が故に。 義平等性(ぎびょうどうしょう):梵語artha- samataaの訳。 梵語arthaは目的、意味の義。 「大智度論巻25」に依れば、「義artha」とは名字語言を用いて説く所の事であり、各各の諸法の相である。 謂わゆる堅相とは、此の中に「地は堅相である」と言えば、是れを義とし、「地」という名字を「法」となすという。 即ち語言、乃至経論を以って説かるる所の事を義となすも、謂わゆる諸法の性、体、相の、凡そ是れ等の者は皆義にして、義に非ざるものなし。 註:大菩提は仏の境地なるも、仏の体性は大慈悲に他ならず、故に大菩提の義は大慈悲の一を以ってす。 即ち大菩提なる大慈悲は、一切の衆生に於いて等一なることを云う。 法平等性現等覺門。 以大菩提自性淨故。 法の平等性は現等覚の門なり、大菩提は、自性浄なるを以っての故に。 『自性』は、 『清浄である!』が故に。 法平等性(ほうびょうどうしょう):梵語dharma- samataaの訳。 此の中に就き、「法dharma」は「保持」の義なるdhRより転化せし名詞なるが故に、自相を保持して改変せざるものの義を有するに至れるも、その意となす所の者は、「大智度論巻22」に依れば、二種あり、一には仏の演説せる所の三蔵、十二部経、八万四千の法聚なり、二には聖道、及び解脱果、涅槃等なりとし、又「大智度論巻25」に依れば、「義artha」を以って、「名字、語言を用いて説く所の事にして、各各は諸法の相なり。 謂わゆる堅相なれば、此の中に地の堅相なるは、是れ義なり。 地の名字は、是れ法なり。 言語を以って地を説く、是れ辞なり。 」と為す。 此れに由って、即ち文章、乃び其れを以って語られたる所の経論等を法となし、その指す所の意味を義となすものと知る。 註:仏の教は、謂わゆる三蔵、十二部経、八万四千の法聚中に在りて、而も法は種種に異なり。 然れど大菩提の自性は清浄の大慈悲に他ならず、故に種種の経説は皆平等、等一にして、一切の衆生を視ること、父母の児子を視るが如くなるを云う。 一切法平等性現等覺門。 以大菩提於一切法無分別故。 一切法の平等性は現等覚の門なり、大菩提は一切法に於いて分別無きを以っての故に、と。 『大菩提』は、 『無い!』が故に。 一切法平等性(いっさいほうびょうどうしょう):梵語sarva- dharma- samataaの訳。 一切法sarva- dharmaとは、「大智度論巻27」に、「復た一切法有り、謂わゆる名色なり」と云うに依れば、心中に投じられたる所の影にして、一切の内外の境、即ち六根、六境、六識、及び前の一切法清浄句義門に説く善不善、有為無為、有漏無漏等の一切の法を云が、今は四無礙智中の義、法に続く辞、即ち単語、乃至術語、及び言葉を指すものと為す。 註:金剛、義、法、一切法を以って、四無礙智の楽説、義、法、辞に当てる。 即ち仏の説法については、楽説無礙、義無礙、法無礙、辞無礙の四分を以って全分と為し、菩薩心の平等に関しては、菩提心、義、法、一切法を以って全分と為す。 佛說如是寂靜法性般若理趣現等覺已。 告金剛手菩薩等言。 若有得聞如是四種般若理趣現等覺門。 信解受持讀誦修習。 乃至當坐妙菩提座。 雖造一切極重惡業。 而能超越一切惡趣。 疾證無上正等菩提。 仏は、是の如き寂静の法性なる般若の理趣、現等覚を説き已り、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し是の如き四種の般若の理趣、現等覚の門を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、乃至当に妙菩提の座に坐すときまで、一切の極重の悪業を造ると雖も、能く一切の悪趣を超越して、疾かに無上正等菩提を証すべし。 『甚深の理趣』であり!、 『普勝の法門』である!。 悪法(あくほう):梵語nirguNa- dharma? 無徳の法の義。 即ち戯論を指す。 調伏(ちょうぶく):梵語vijaya- saMgraahaの訳。 調和制伏。 屈伏して摂取するの義。 釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい):梵語zaakya- muni tathaagataの訳。 吾人の善く知る所。 摂受一切法平等性(しょうじゅいっさいほうびょうどうしょう):梵語sarvadharma- samataa- upasaMhaara? 一切法の平等性に帰結するの義。 普勝(ふしょう):梵語vijetR? 勝利者、征服者の義。 註:「述讃」には、「調伏衆悪普勝法門」と標し、「実相を観ずるに由りて能く衆悪を伏す」と略讃する。 謂貪欲性無戲論故瞋恚性亦無戲論。 謂わゆる貪欲性は、無戯論なるが故に、瞋恚性も亦た無戯論なり。 『性』も亦た、 『無戯論である!』。 貪欲(とんよく):梵語lobha或いはraagaの訳。 三毒の一。 瞋恚(しんに):梵語pratigha或いはdveSaの訳。 三毒の一。 無戯論(むけろん):梵語aprapaJcaの訳。 梵語prapaJcaは戯論と訳す、冗長な、或いは滑稽な対話の義。 甲乙是非を論じて、互いに相譲らざれば、即ち此の論議は無益、有害なるのみ、即ち是れ戯論なり。 註:貪欲、瞋恚、愚癡を三毒と総称し、一切の煩悩の根本と為す。 我れに利益する者有れば貪欲を生じ、我れに違逆する者有れば瞋恚を生じ、、此の結使は智より生ぜず、狂惑より生ずれば、故に是れを癡と名づく。 瞋恚性無戲論故愚癡性亦無戲論。 瞋恚性は、無戯論なるが故に、愚癡性も亦た無戯論なり。 『般若波羅蜜多』も亦た、 『無戯論である!』と。 註:貪欲というものは、戯論する余地が無いが故に、瞋恚というものも戯論する余地が無い。 乃至一切の法というものに、戯論する余地が無いが故に、般若波羅蜜多にも亦た戯論する余地が無い。 註:「大智度論巻27」に、「復た一切法あり、謂わゆる名色なり。 仏の説きたまえる利衆経中の偈の如し。 若し真観を求めんと欲せば、但だ名と色と有るのみ、若し実を審らかにして知らんと欲せば、亦た当に名色を知るべし。 癡心は多想して、諸法を分別すと雖も、更に異事有りて、名色を出づる者なし」というように、一切の法は吾人の心中に投じられたる名と色に過ぎないのであり、それを知れば戯論とは、他の心中の名色と、己の心中の名色とを諍わしむることであり、甚だ得る所の少ないことは当然であると言わねばならない。 註:貪欲法、乃至一切法まで十三因縁を以って、無明、乃至老死の十二因縁に擬す。 即ち貪欲の求めて得ざるを以っての故に瞋恚あり、瞋恚の智を覆うが故に愚癡あり、愚癡にして真を疑うが故に猶豫あり、猶豫して真に就かざるが故に諸見あり、諸見の真を排するが故に憍慢あり、憍慢して羞愧せざるが故に諸纏あり、諸纏の故に煩悩垢あり、煩悩垢を以っての故に諸悪業を行じ、諸悪業を行ずるが故に生死の諸果報あり、生死の故に雑染法あり、雑染法断ずるが故に清浄法生じ、雑染清浄合するを以っての故に一切法と為す。 因縁を以っての故に是の如きの法ありと雖も、菩薩は敢て其の如き名義を詮ずることなく、但だ六波羅蜜を実践するのみ、何に況んや戯論有るをや。 佛說如是調伏眾惡般若理趣普勝法已。 告金剛手菩薩等言。 若有得聞如是般若波羅蜜多甚深理趣。 信解受持讀誦修習。 假使殺害三界所攝一切有情。 而不由斯復墮於地獄傍生鬼界。 以能調伏一切煩惱及隨煩惱惡業等故。 常生善趣受勝妙樂。 修諸菩薩摩訶薩行。 疾證無上正等菩提 仏は是の如き衆悪を調伏する般若の理趣の普勝法を説き已り、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し是の如き般若波羅蜜多の甚深の理趣を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、仮使(たとい)三界所摂の一切の有情を殺害すとも、斯れに由りて復た地獄、傍生、鬼界に堕ちず。 能く一切の煩悩、及び随煩悩、悪業等を調伏するを以っての故に、常に善趣に生じて、勝妙の楽を受け、諸の菩薩摩訶薩の行を修めて、疾かに無上正等菩提を証せん。 『妙智』の、 『印( 通行証)』という、 『甚深の理趣』であり!、 『清浄の法門』である!。 性浄(しょうじょう):梵語sva- bhaava- zuddha? 、又はprakRti- parizuddha? の訳、自性清浄の義。 或いはprakRti- prabhaasvara? 自性として光り輝くの義。 一切法平等性(いっさいほうびょうどうしょう):梵語sarva- dharma- samataaの訳。 観自在(かんじざい):梵語avalokiteezvaraの訳。 慈眼を以って衆生を観るに自在なる者の意。 妙智印(みょうちいん):梵語jJaana- mudraaの訳。 智慧の印章の義。 智慧を通行証となすの意。 註:「述讃」には、「平等智印清浄法門」と標し、「観観照らすに由りて、智慧照明し、後の二段に果境を明かす」と略讃する。 謂一切貪欲本性清淨極照明故能令世間瞋恚清淨。 謂わゆる一切の貪欲は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の瞋恚をして清浄ならしむ。 『瞋恚』をして、 『清浄にする!』ことができる。 本性(ほんしょう):梵語prakRti? 性、体、体性、自然等と訳す。 清浄(しょうじょう):梵語parizuddha? 無罪、或いは解放、或いは浄化されたの義。 照明(しょうみょう):梵語vimala- bhaasa? 浄らかに輝くの義。 明らかに照らす。 照らして明るくする。 註:一切平等の地平に立ちて観察するに、即ち知るらく、衆生なし、故に衆生に属する善悪も無し。 即ち貪欲は名字のみ有るも、実有るに非ず。 譬えば有る人、貪欲なるも、其の人の性、必ずしも貪欲なるに非ず、即ち因縁の然らしむる所なりと。 是を以っての故に曰わく、一切の貪欲の本生清浄にして、極めて照明なりと。 前門に釈したるが如く、貪欲は求めて得ざるが故に瞋恚あり、今貪欲清浄なれば、即ち瞋恚をして清浄ならしむと。 一切瞋恚本性清淨極照明故能令世間愚癡清淨。 一切の瞋恚は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の愚癡をして清浄ならしむ。 『般若波羅蜜多』を、 『最勝清浄にする!』ことができる。 註:貪欲、乃至一切智まで十三因縁を以って、無明乃至老死の十二因縁に擬す。 即ち貪欲の故に瞋恚あり、今貪欲の本性清浄なり、故に瞋恚の本生清浄なり。 瞋恚の故に愚癡あり、今瞋恚の本性清浄なり、故に愚癡の本性清浄なり。 愚癡の故に疑惑あり、今愚癡の本性清浄なり、故に疑惑の本性清浄なり。 疑惑の故に見趣あり、今疑惑の本性清浄なり、故に見趣の本性清浄なり。 見趣の故に憍慢あり、今見趣の本性清浄なり、故に憍慢の本性清浄なり。 憍慢の故に纏結あり、今憍慢の本性清浄なり、故に纏結の本性清浄なり。 纏結の故に垢穢あり、今纏結の本性清浄なり、故に垢穢の本性清浄なり。 垢穢の故に悪法あり、今垢穢の本性清浄なり、故に悪法の本性清浄なり。 悪法の故に生死あり、今悪法の本性清浄なり、故に生死の本性清浄なり。 生死の故に諸法あり、今生死の本性清浄なり、故に諸法の本性清浄なり。 一切法の故に有情あり、今一切法の本性清浄なり、故に有情の本性清浄なり。 有情の故に一切智あり、今有情の本性清浄なり、故に一切智清浄なり。 即ち菩薩をして、是の如く知らしむるが故に、般若波羅蜜多は最勝清浄なりと説く。 佛說如是平等智印般若理趣清淨法已。 告金剛手菩薩等言。 若有得聞如是般若波羅蜜多清淨理趣。 信解受持讀誦修習。 雖住一切貪瞋癡等客塵煩惱垢穢聚中。 而猶蓮華不為一切客塵垢穢過失所染。 常能修習菩薩勝行。 疾證無上正等菩提 仏は、是の如き平等智の印なる般若理趣の清浄法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し是の如き般若波羅蜜多の清浄の理趣を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、一切の貪瞋癡等の客塵煩悩の垢穢の聚中に住すと雖も、猶お蓮華の一切の客塵垢穢、過失の染する所と為らず、常に能く菩薩の勝行を修習して、疾かに無上正等菩提を証せん。 『和合して!』、 『潅頂する!』という、 『甚深の理趣』であり!、 『智蔵の法門』である!。 一切三界勝主(いっさいさんがいのしょうしゅ):梵語sarva- traidhaatuka- adhipatiの訳。 一切の三界中最上位の主をいう。 即ち大施主の意。 潅頂(かんちょう):梵語abhiSecana、或いはabhiSekaの訳。 王の就位に際し頭頂に水を潅ぐ儀式。 即ち一切の如来は、世間の布施等をなす大施主を潅頂して一切三界の勝主に即位せしむの意。 智蔵(ちぞう):梵語jJaana- garbhaの訳。 智慧の蔵の意。 註:「述讃」には、「法王潅頂智蔵法門」と標し、「二行に由りて位財の果を得」と略讃する。 註:所謂埋蔵されたる智慧とは、即ち是れ布施乃至般若波羅蜜多なり、其の智慧の蔵を開く鍵とは、即ち是れ世間出世間の布施なりと説く。 謂以世間灌頂位施。 當得三界法王位果。 謂わゆる世間の潅頂位を以って施さば、当に三界の法王位の果を得べし。 『般若波羅蜜多』をして、 『円満させれらる!』だろう。 妙慧(みょうえ):梵語jJaanaの訳。 正しい洞察の義。 註:世間の布施乃至智慧を修めて、疾かに六波羅蜜を円満せしむと説くに当り、六波羅蜜を行ずる者は、「我れ六波羅蜜を行ず」と言わず、知らず、而も世間の布施等を行う、是れ即ち般若波羅蜜なりと曰う、是れ即ち其の謂なり。 註:此の段にて、六波羅蜜の眼目は施に在ることを知るべし。 即ち布施波羅蜜多の他にも、持戒波羅蜜多は不殺、不盗等を施し、忍辱波羅蜜多は忍辱を施し、精進波羅蜜多は精進を施し、静慮波羅蜜多は静慮を施し、般若波羅蜜多は般若を施す。 即ち菩薩行とは、行者と他人との関わり合いは、即ち施に在るを知るべし。 佛說如是灌頂法門般若理趣智藏法已。 告金剛手菩薩等言。 若有得聞如是灌頂甚深理趣智藏法門。 信解受持讀誦修習。 速能滿足諸菩薩行。 疾證無上正等菩提 仏は、是の如き潅頂法門なる般若の理趣の智蔵法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し是の如き潅頂の甚深の理趣、智蔵の法門を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、速かに能く諸の菩薩行を満足して、疾かに無上正等菩提を証せん。

次の

般若心経とは|全文の意味が分かると面白い!般若心経の現代語訳と意味解説

般若 心 経 解説

呼称 [ ] に収録されている、訳とされる経題名は『 般若波羅蜜多心経』であるが、一般的には『 般若心経』と略称で呼ばれることが多い。 『般若心経』をさらに省略して『 心経』(しんぎょう)と呼ばれる場合もある。 各において用いる場合には、頭部に「仏説」(仏()の説いた教え)や「摩訶」(偉大な)のをつけて『 仏説摩訶般若波羅蜜多心経』(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう)や『 摩訶般若波羅蜜多心経』(まかはんにゃはらみったしんぎょう)とも表記される。 現存する最古の漢訳文とされる弘福寺()の『碑』に彫られたものでは、冒頭(題名部分)は『般若波羅蜜多心経』だが、末尾(結びに再度題名を記す部分)では『 般若多心経』(はんにゃたしんぎょう)と略されている。 概要 [ ] を短い文章で説きながら、末尾に Mantra を説いて終わるという構成になっている。 現在までに漢訳、サンスクリットともに大本、小本の2系統のテキストが残存している。 大本は小本の前後に序と結びの部分を加筆したもの ともいわれている。 現在最も流布しているのは訳とされる小本系の漢訳であり、『般若心経』といえばこれを指すことが多い。 真言はサンスクリットの正規の表現ではない上、色々な解釈が可能であるため定説はない。 の説、説、宮坂宥洪説など、異なる解釈説を行っている。 1992年アメリカのジャン・ナティエ Jan Nattier、当時インディアナ大学準教授 により、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』などに基づき、玄奘が『般若心経』をまとめ、それを更にサンスクリット訳したという説が提起されている が、これには原田和宗 や石井公成 による詳細な反論がなされている。 『梵本心経および尊勝陀羅尼』の書き起こし 現存する最古の本(梵本)は所蔵()の本(東京国立博物館によれば後グプタ時代・7~8世紀の写本 )であり、これを法隆寺本(もしくは法隆寺貝葉心経)と称する。 (右図)漢訳よりも古い時代の写本は発見されていない。 オーストリアのインド学者、 1837-1898 は、「伝承ではに没したヤシという僧侶の所持した写本で請来とされる。 またインド人の書写による6世紀初半以前のものである」と鑑定していた。 古いもののため損傷による不明箇所が多く、江戸時代の以来、学界でも多数の判読案が提出されている。 この他、日本には東寺所蔵の澄仁本などの複数の梵本があり、の中にも梵本般若心経が存在している。 またや等に伝わる写本もあるが、それらはかなり後世のものである。 漢訳 [ ] 一般的には、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明咒經』が現存中最古の漢訳とされる。 、インドより帰還したもまた『般若心経』を翻訳したとされている。 現在、玄奘訳の最古のテキストとされるものは、に建てられた弘福寺(興福寺)の中の『』の後に付加されているテキストである。 2016年9月27日にこれより古い時代のに刻まれた玄奘訳のが北京で発見されたという報道があった。 また玄奘訳とされている『般若心経』は用として最も広く普及しているが、これは鳩摩羅什訳と玄奘訳との双方がある経典は、古来前者が依用されていることを考慮すると異例のことである。 なお玄奘訳『大般若波羅蜜多経』転読は頻繁に行われるが、経典のテキストそのものを読誦することは稀である。 代表的なテキスト [ ] 以下は、代表的な流布テキストである。 ウィキソースに の原文があります。 ウィキソースに の原文があります。 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 行時照見皆度一切苦厄不異空空不異色色即是空空即是色亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無、無無無亦無無明尽乃至無亦無老死尽無無智亦無得以無所得故依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切 顛倒夢想究竟三世諸仏依般若波羅蜜多故得故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経 注:()内はよみがな。 旧字体を新字体に改める。 呪と咒の表記揺れはすべて呪に統一した。 また、適宜、句読点を修正した。 なお、羅什訳・玄奘訳とも、「般若波羅蜜(多)」「」「(菩提薩埵)」及び最後の「(しゅ)」の部分だけは漢訳せず、をそのまましている。 また、玄奘訳とされるテキストには版本によって、例えば下記の箇所のように、字句の異同が十数箇所存在する。 空即是色受想行識亦復如是()• 空即是色受想行識 等亦復如是(法隆寺本等法相宗系) 日本における般若心経 [ ] 各宗派 [ ] 日本では仏教各派、特に・・・が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。 は『』を、・は『(妙法蓮華経)』を根本経典とするため、般若心経を唱えることはない。 これは該当宗派の教義上、所依経典以外は用いる必要がないとされ、唱えることも推奨されない。 しかし教養的な観点から学ぶことは問題視されておらず、例えば、門主であったは般若心経の講話録を出版している。 では、「根本法華」として重視している。 [ ]また作とされる般若心経の注釈がある。 では、読誦・観誦の対象としている。 日用経典(日課等通常行事用の経典)であり儀典でも用いる(空海のを参照)。 繰り返し読誦する場合は、一回目は、冒頭の「仏説」から読み始めるが、2回目以降の読誦では「仏説」を読まず、「摩訶」から読む慣わしとなっている。 開祖が般若心経を重視したことで、注釈・解釈を著す僧侶・仏教学者が多く、昭和では高神覚昇(1894 - 1948)『般若心経講義』(角川文庫で再刊)、平成の現在では宮坂宥洪『真釈般若心経』、加藤精一『空海「般若心経秘鍵」』(各角川ソフィア文庫)『空海 般若心経の秘密を読み解く』(春秋社)などの著作が版を重ねている。 高神の解釈書は、戦前にNHKラジオ放送で行われ、経典解釈として非常に評価が高く多数重版し、異なる宗派の僧侶や仏教学者からも評価されている。 も、根本経典は浄土真宗と同様に『浄土三部経』だが、祈願の時と食作法(食事の時の作法)にのみ唱える。 では、神社参拝及び本山での朝の勤行後に、の御霊を祀る神棚に向かい三唱することが必須となっている。 日用に用いる場合もある。 では、日用経典の一つ。 名僧で名高い・・が解釈を行っている。 般若心経とは自分の心の本来の姿を現した経典であるという仏説をみなす説が強い。 では、日用経典の一つ。 開祖がの中で解釈し、かつての僧とされた天桂伝尊(1648 - 1736年)の「観自在菩薩とは汝自身である」という解釈が著名である。 また・など般若心経の実践に取り組んだ僧侶も多い。 良寛は般若心経の大量の写経を残しており、種田は般若心経を俳句に読み込んでいる。 では、修験者(などの)が「行」を行う際に唱える。 でも唱えるところがある。 神社(神前)で読誦の際は、冒頭の「仏説」を読まずに、「摩訶」から読む。 また、前もって「般若心経は仏教の全経典の中から選りすぐられた経典であり、それを謹んで捧げます」というような内容の「心経奉讃文(しんぎょうほうさんもん)」を読み上げる場合もある。 在家信者 [ ] 一般の人々にとっては、「空」を説く経典と言うより、むしろ、「霊験あらたかな真言」の経典として受け止められており、一部には悪霊の力を「空ずる」という解釈もされた。 古くから般若心経の利益で病気が治るという信仰があり、既ににその説話が残っている。 お守りとして所持したり、病気になったときに写経して平癒を祈願したりした人が多い。 には、文字を読めない層のために、内容を絵に表したも製作された。 百瀬明治『般若心経の謎』によれば、これは元禄年間に現在の岩手県二戸郡の八幡源右衛門という人が文字の読めない人向けに創作した後、随筆によって諸国に伝播されブームとなったものであり、文字が読める人たちの間でも判じ物的に楽しまれたという。 一般書籍等 [ ] 現在ではの際によく筆写される。 また手拭いなどにも印刷され、極めて普及している。 解釈書も大量に出版されており、中には般若心経の原意を取り違えたものさえあり、仏教学者が警鐘を鳴らしているような状態である。 サブカルチャーにおける受容 [ ] 2010年9月には、風の伴奏を付け・に読誦させた動画『般若心経ポップ』がに投稿され 、約2日で10万再生、約2週間後には60万再生に達し人気を博した。 その後、派生動画として伴奏が風のものなどが投稿され、それらを集約したも発売された。 また派生動画のひとつ『般若心経』には、視聴者のコメントと言う形で般若心経の現代日本語訳が投稿されている。 翻訳 [ ] 現代の主な翻訳及び解説としては、訳者自身が校訂したサンスクリット原文を含む・訳の岩波文庫本 、高神覚昇の『般若心経講義』 、また臨済宗の僧侶の立場から解釈したの『般若心経入門』 『般若心経』 などがある。 脚注 [ ] [] 註釈 [ ]• は、本経の核心部は心呪の効能を説く後半部と心呪自体であると主張している。 も同様の観点から、般若心経はのお経であり、全部を繰り返すのは無駄であって、最後の明呪だけを繰り返せばよいとしている。 この真言は『般若大心陀羅尼』と同じ真言である。 本経は654年訳出とされ、玄奘の般若心経訳出との関連は不明。 訳経史の概念として、鳩摩羅什までの漢訳経典を「古訳」、鳩摩羅什以降、玄奘までを「旧訳(くやく)」、玄奘以降を「新訳」と言う()• 【北京共同】中国北京の古寺、雲居寺は、同寺が保管していた石に刻まれた般若心経が、唐代の中国の僧で、「西遊記」の三蔵法師として知られる玄奘三蔵による現存する最古の漢訳であることが分かったと発表した。 西暦661年に刻まれたとしている。 中国メディアが27日までに伝えた。 (著作権等考慮して本文・拓本写真省略、• 大蔵経所収の玄奘譯 般若波羅蜜多心經には『一切』の二字がない。 0848c04 - c23)• こばやし しょうせい (1876 - 1937年)茨城県古川市出身。 明治~昭和前期の真言宗僧侶。 出典 [ ]• 福井文雅 「般若心経の核心」 東洋哲学会『東洋の思想と宗教』• 佐保田鶴治「般若心経の実態」 『ヨーガの宗教理念』1976年 、242-315頁• 、小学館• 金岡1973 p. 149• 宮坂2004 [ ]• "The Heart Sutra: A Chinese Apocryphal Text? ", Journal of the International Association of Buddhist Studies, vol. 15, no. 2 1992 ,. 原田和宗、「」 『密教文化』 2002年 2002巻 209号 p. L17-L62, :• 原田和宗 『「般若心経」の成立史論 大乗仏教と密教の交差路』 大蔵出版、2010年• 石井公成、「」 『印度學佛教學研究』 2015年 64巻 1号 p. 499-492, :• 梵本心経および尊勝陀羅尼 -• 金岡1973 p. 138• 金岡1973 p. 141-147• 金岡1973 p. 151-152 p. 155-156• 金岡1973 p. 158• 賀・続2017 p. 13の拓本写真には<顯慶六年二月八日造>[661年2月8日に作った]という言葉が以上の報道よりもっと読みやすいです。 『大谷光瑞猊下述 般若波羅密多心經講話』 1922年 大乗社。 - (2010年10月6日アーカイブ分)• 岩波文庫 初版1960年。 角川ソフィア文庫 初版1947年。 祥伝社新書 初版1972年。 講談社学術文庫、2001年。 参考文献 [ ]• 金岡秀友 『般若心経』 、1973 、2001年。 福井文雅 『般若心経の歴史的研究』 春秋社、1987年。 福井文雅 『般若心経の総合的研究:歴史・社会・資料』 、2000年。 涌井和 『般若心経を梵語原典で読んでみる -サンスクリット入門-』 、2002年。 山中元 『サンスクリット文法入門 -般若心経、観音経、真言を梵字で読む-』 、2004年。 宮坂宥洪 『真釈般若心経』 、2004年。 福井文雅 『ヨーロッパの東方学と般若心経研究の歴史』 五曜書房、2008年。 原田和宗 『「般若心経」の成立史論 大乗仏教と密教の交差路』 、2010年。 賀銘・続小玉、王夢楠(編)、2017、「早期<心経>的版本」、房山石経博物館(編)、房山石経與雲居寺文化研究中心『石経研究 第一輯』1、 北京燕山出版所(中国語) pp. 12-28 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - (高神覚昇著).

次の

般若心経の意味!現代語でわかりやすく解説♪

般若 心 経 解説

もっとも有名なお経の1つ 『般若心経』は短いお経であり、おそらく日本でもっとも広く知られているお経です。 そして、知られるだけの内容が、確かにこの経典には存在します。 ただ、 読めばその内容が理解できるかといえば、それは難しいと言わざるをえません。 基礎的な仏教の知識がなければ理解できない言葉がいくつもでてきますし、余分な言葉は削ぎ落とされてエッセンスだけで構成されているため、わかりやすく伝えようとする配慮は皆無。 それだけに、解説書も山のように存在します。 しかし悩ましいのは、その解説書がまた難解なところ。 解説書の解説書が必要なのではないかと、私自身、思わず断念して閉じてしまった本も少なくありません。 『般若心経』の構成 『般若心経』は ブッダの弟子の一人であるシャーリプトラに、観音菩薩が教えを説くというシチュエーションで全文が構成されています。 しかし、それも一般的には知られていないことであり、それがこの物語の理解を一層遠ざける結果となってしまっているようにも思います。 じつは日本に伝わっている『般若心経』は「小本」とよばれるものであり、このほかに「大本」よばれるものが存在するのです。 「小本」と「大本」は、その説かんとする内容に違いはありませんが、 「大本」にはプロローグとエピローグが付いているという点が異なります。 そこで述べられている状況設定が「小本」には存在しないため、どうしても「小本」は唐突に話がはじまるように感じられてしまうのです。 もし「大本」の内容を知りたい方は、『般若心経』の訳本として古典のような不動の存在となっているをご一読されることをオススメします。 わかりやすく現代語訳する 物語のなかで観音菩薩は、一人の人間のような存在として登場しているので、ここでの訳においても観音菩薩は人間のような存在として書きました。 そのほうがわかりやすいと思うからですが、そうした配慮が果たして訳として相応しいかといえば、それはわかりません。 私はあくまでも、 1つの物語としてもっとも理解しやすい形の『般若心経』の現代語訳が書きたいのであって、原文を忠実に訳したいわけではありません。 『般若心経』は何が言いたいのか、何を伝えたいのか、その意図するところを訳したいのです。 したがって、原文には記載がないけれども補足すべき事柄があるというような箇所には、注釈とすべきことも本文のなかに組み込んで書きました。 これはもう訳を越えてしまっているわけですが、それがなければ『般若心経』をわかりやすく読むというのは不可能に思います。 正確性を重視した忠実な訳の解説書は数多あるので、ここで一通り内容を理解した後にそれらで詳細に学ぶという方法をとったほうが、おそらくは理解しやすいものと思います。 では、さっそく『般若心経』の現代語訳(私訳)に移りましょう。 太字で書かれているのが原文で、( )に書かれているものが読み方(唱え方ではない)で、その下に書かれているのが訳になります。 照見五蘊皆空 度一切苦厄 (しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく) 私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。 だから私は、自分とは何かを知るために、 この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。 しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。 確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。 驚いたことに、 「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。 その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。 色不異空 空不異色 (しきふいくう くうふいしき) まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。 つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ。 これは事実として理解できるね? 体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。 不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。 この、 「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。 「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。 色即是空 空即是色 (しきそくぜくう くうそくぜしき) 私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質によって成り立っている。 存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。 そして 存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである。 もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。 変化をしないから固定的な物体なのだ。 しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。 どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。 受想行識 亦復如是 (じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ) そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。 すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。 つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。 これが何を意味しているかわかるだろうか? そう、 自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。 固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。 ただ、 私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。 できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。 しかし真実としては、自分というものは存在しない。 これはつまり、 「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。 不生不滅 不垢不浄 不増不減 (ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん) あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。 私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。 あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。 私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。 「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議な「はたらき」なのである。 「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。 それが、 命だ。 だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。 この、 「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。 「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」 これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。 存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。 ただ、変化を続けるだけである。 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 (むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ) あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。 それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。 じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。 ここはとてもややこしいところだが、 頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。 これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。 私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。 真実を受け取るとは、知識で理解することではない。 だから、得ることなどできないのだ。 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 (おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん) 人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。 だが、本当にそうだろうか。 たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か? この体を作ったのは、自分か? 熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか? 自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか。 それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。 存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからである。 このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。 『般若心経』のまとめ 以上が私なりの般若心経の現代語訳です。 頭で理解するだけが理解のすべてではない。 自分の体験でもって理解すること、「腑に落ちる」というような体験、すなわち「体解(たいげ)」を禅は重視しますが、しかし『般若心経』を体解するというのも雲を摑むような話に聞こえるかもしれません。 けれども、「生きること」それ自体が『般若心経』の世界を生きることにほかならないのですから、本当は何も難しく考える必要はないのでしょう。 目の前に広がる世界のすべて、小石1つとってみても、そのすべてが「空」という真理を体現していることを感じで生きれば、それでいいのです。 だから逆に、考えれば考えるほど迷いの深みにはまっていくようなものといえるかもしれません。 前述のように、 『般若心経』は「空」の思想を説いた経典です。 あらゆるものに自性はなく、変化を続けることが存在の本質としてある。 しかし その真実を知ろうとせず、不変を求めたり、不変なるものが存在すると錯覚することで、真実との間に溝が生じ、そこから苦悩が生まれる。 真実を知れば、人はもっと安らかに生きることができるというのに……。 『般若心経』が「空」を説く理由はそこにあります。 すなわち、 執着から離れよ、執着すべきものなど何もない、ということが言いたいのです。 訓読文 観自在菩薩、般若波羅蜜多を深く行じし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。 舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色なり。 受・想・行・識もまた是の如し。 舎利子よ、是の諸法は空なる相にして、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増さず減らず。 是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意もなく、色・声・香・味・触・法も無し。 眼界もなく、乃至、意識界も無し。 無明も無く、また、無明の尽くることも無し。 乃至、老も死も無く、また、老死の尽くることも無し。 苦も集も滅も道も無く、智も無く、また得も無し、得る所無きを以ての故に。 菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し。 罣礙無きが故に、恐怖有ること無く、一切の顚倒せる夢想を遠離して涅槃を究竟す。 三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。 故に知るべし、般若波羅蜜多は是れ大神咒なり、是れ大明咒なり、是れ無上咒なり、是れ無等等咒なり。 能く一切の苦を除き、真実にして虚しかず。 故に般若波羅蜜多の咒を説く。 即ち咒に説いて曰く、 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経.

次の