関白宣言 女性。 亭主関白の意味は?結婚したらなる男性の4つの特徴とは?

女性の方に質問です。さだまさしの関白宣言を聞いてどんな感想を持ち...

関白宣言 女性

ある日の1年1組のホームルーム さだまさし氏の「関白宣言」をご存知ですか?「お前を嫁にもらう前に…俺の本音を聞いておけ」で始まるこの歌は、1979年にリリースされて大ヒット。 昭和も終盤に近付きつつあり、女性の社会進出の重要性が声高に語られ始めたその当時、歌詞の内容をめぐって物議を醸したりもしたようです。 先日、本校1年1組(KIHS始まって以来の女子クラスです!)のHR(ホームルーム)で、この歌を聴いてどう思うか、お互い話し合う機会を設けました。 彼女らが生まれるずっと以前の歌ながら、ほとんどの生徒が耳にしたことがあるとのこと。 ただ、歌詞の内容について意識したことがあるほどよく知っている訳ではなさそうでした。 歌詞の内容で意見交換! プラスの評価とマイナスの評価 初めに、自分にとって好ましく思われるところと、反対に気に入らないところを一人一人マークし、その後数人ずつのグループに分かれて、マークを付けた理由も含めて意見交換をしました。 もちろん個人によって差異はありますが、多くの生徒がプラスに評価したのは 「幸福(しあわせ)は二人で育てるものでどちらかが苦労して繕うものではないはず」というフレーズ、ほとんどの生徒がマイナスに受け取ったのは 「俺より先に寝てはいけない、俺より後に起きてもいけない、飯はうまく作れ、いつもきれいでいろ」という箇所でした。 (その後に続く「出来る範囲で構わないから」は比較的多くの生徒がプラス評価。 ) 当然と言えば当然ですが、一方的に役割を押し付けられるような表現には反発を、ともに力を合わせて…というイメージには共感を覚えたようです。 その後、この歌に対する感想を出し合ってもらったところ、自分たちの世代には当てはまらない一時代前の内容であり、もしも自分が結婚を考えている相手から同じように言われたら二の足を踏んでしまうという生徒がほとんどでした。 このHRの目的 このHRの目的は、 今現在の社会の中で女性はどのような位置・立場に置かれているのか、そして(良くも悪くも)社会全体から何を求められているのかを意識し、自分自身は今後、どのような大人・女性として生きていきたいか、パートナーを得るとしたら、その一番身近な他人である存在とどのような関係を築いていくべきか、について考えるきっかけを作ることでした。 HR後半ではグループごとに自分たちの目指す女性像、パートナーとの望ましいあり方についての話し合いとクラスへの発表を行い、最後のまとめとして自分自身の考え、感想を400字程度で文章にすることを宿題にしました。 個々には様々で一括りに出来ない意見もありましたが、全体としては、今はこの歌が世に出た頃とは時代が違い人々の意識も変わってきているものの、仕事と家庭生活の両立などの面で男女の立場はまだ平等とは言えず、さらに改善を望むこと、自分は自分らしく自立した存在としてあり、パートナーとは従来の男女の役割にとらわれず、お互いを尊重し合う対等な関係を結びたいと思っていることが窺われました。 ほとんどの生徒達が「関白宣言」を時代遅れと評しましたが(一面的な解釈に留まらず、この歌全体に染みとおる、男性の不器用な優しさ、思いやり、愛情の深さにプラス評価を付けた生徒も複数ありました。 )男女雇用機会均等法の施行後30年を迎えて尚、ある公立中学校の校長が「女性にとって大切なのは子どもを2人以上産むこと」と発言したり、アイドルグループが「(女の子は)頭からっぽでいい」と歌うなど、人々の意識、社会の「本音」がどれだけ変わったのかについては疑問が残ります。 今後、1-1のangelたちが地に足の着いたhuman beingとして実社会にデビューする際には、男女の別に関わらず、様々な選択肢を持ち、個々の能力を存分に発揮して、自由に呼吸できる環境であって欲しいですし、そのような世の中を作っていくことは私たちの責任であると思います。

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『トリセツ。』と『関白宣言』における感じ方の違い|たかはしかすが|note

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こんにちは、たかはしです。 (以下、西野カナとさだまさしが好きな人は私に悪意があるように感じるかもしれませんごめんなさい。 まったくそういうつもりはありませんが不快な思いをする恐れがあるなら読まない方が良いと思います…) 先日、職場の男性三人と女性私一人で飲みに行ってきた。 そのうち「どの芸能人が好きか」という話題が始まり、一人の男性が 「俺は西野カナだなあ」とおっしゃり、そういう人もいるのだなと思った。 (これは西野カナがどうではなく、この質問に対して歌手という回答をする人がこれまでいなかった為、なるほど歌手という回答もあるのかという感想を抱いたのでした) ただ私はその時パッと西野カナの顔が浮かんでこなかった。 どちらかというと『西野カナ』というワードですぐ思い浮かぶのは、あの独特な歌詞を持つ曲、『トリセツ。 』だった。 私「西野カナというと私はトリセツ。 の印象が強いですねー全然共感できなかったので」 上司A「そうなの?でもあれはあくまで希望なんだよ。 「そんなことが叶えられるわけがない」って分かっていてもあえて言いたい、理想ってことなんだよ」 上司B「そうそうただの理想。 それに、たかはしさんがトリセツ。 のことを覚えているってことは、その曲が好きってことですよね?それだけ関心を持って聴いてたってことでしょう」 私「え?いや…めっちゃ聴こえてきたじゃないすかあの曲一時期。 耳に入りますよそりゃ。 てかどんな理想を持ってもいいですけど、それを公共の電波で流すことで、世の中の全ての女がそう思ってるように思われるかもしれないのが嫌なんすよ(MVも西野カナだけじゃなくて色々な女性にその取扱説明書を読ませるというものだったし)」 上司A「あくまで歌、あくまで演出だから。 」 こういったやりとりをしたのだが、私は上司Bが言ったようにこの曲が好きだからこうして色々と意見を言えるのか?と自問自答して少し混乱していた。 だが、おそらくそういうことではないと思う。 例えばスーパーのBGMで何気なく流している曲でも、聴いていないつもりでも耳に入ってくるし、それに対して「いい曲だな」「過激な曲だな」「悲しいな」「訳分からん、こういうのが最近の流行りか」などと何かしらの感情が動かされて、買い物をしながらでも関心を向けるということは珍しくないと思う。 もちろん何の印象も抱かずその曲が流れていることすら分かっていないことも多いけれど、歌詞がついた(特に母国語の)曲なら、それは『情報』として頭に入ってくる分、それを受け止めた頭は自然とそれに対して感じるものはあるはず。 そういう流れで、おそらく私はこの曲を知り、そしてその歌詞の内容にとても多くの意見を持つに至った。 それぐらい、この曲の歌詞は具体的だった。 抽象的にぼかされたり、一般的なこと、『対象』と聴いている自分に何の繋がりもない、仮想の世界のことなどであれば多分ここまで考えなかったはず。 昔一度、女性の友人が「なんなんあれって思うんだよね」と私に話を振ってきたことがある。 その友人は普段邦楽を全く聴かないので珍しいと思ったが、職場のユーセンでめちゃくちゃ流れる為、それが耳に入ってくるのだと言う。 その時に二人で、この違和感、反感はなんなんだろうという話をした。 ポイントは以下だった。 ・理不尽そして自己中心的 (急に不機嫌になることがあります 理由を聞いても答えないくせにほっとくと怒ります いつもごめんね でもそんな時は懲りずにとことん付き合ってあげましょう) ・一体何様目線なのか (たまには旅行にも連れて行って 記念日にはオシャレなディナーを) ・一方的に尽くしてもらうだけか (『永久保証の私だから』以外に歌い手がパートナーの為に何かを頑張る(?)言葉がない) ・それだけしてもらえるほどの魅力を自分が持っているという絶対的な自信はどこからくるのか ・「女ってこんな風に思ってるんだ」と思われるとしたら誠に遺憾 このあたりだった。 どんだけかまってちゃんのめんどくさがりの、パートナーに気遣ってもらって当たり前ちゃんなのか君はパートナーに何を返せているんやそもそも本当に相手のことを愛してるんか、対等な関係なのか!? くらい友人と話した。 しかし上記で上司Aも言っていた通り、あくまで架空の話で、ありえないことが分かっている理想で、別に女性全体を代弁して歌っているわけではないというのは分かる。 なんなら共感する部分がないこともない。 『意外と一輪の花にもキュンとします』から『でも短くても下手でも 手紙が一番嬉しいものよ』 の箇所である。 これさえしてくれたら全てOKというわけではない。 だが、その行動から自分を想ってくれることが伝わりやすく、嬉しい気持ちは分かる。 今、「はぁ!?やっぱり相手から想われたいんかい!!」と思われた方、いやそらそうでしょ、大切にしたい相手からはなるべく大切に思われたいし、自分のことを大切に思ってくれていることが分かるちょっとした行動があること自体は単純に嬉しい。 ただ、あまりにもバランスがおかしい。 これが『取扱説明書』なのであくまで対応上の注意なのだとしても、そこまで気遣う必要を感じさせる存在なのか『あなた』は!?iphoneの使い方を皆気にして大事にするのはiphoneの機能に抜群の実績と信頼があり、大きな期待に応えられるパフォーマンスを持っているからだ。 では、あなたという存在は一体何なのだ???と思ってしまう。 ここで人間と機械を比べるのは野暮だろうという意見もあるだろうが、じゃあ最初から『取扱説明書』と言うなよ『あくまで個人的な希望』あたりをテーマ・タイトルにしろよと思うのだ。 じゃあ『関白宣言』に対してはどう感じたのかというと、まず、初めて聴いたときのことをあまり覚えていないくらいそんなに歌詞について、歌について考えたこともなかった。 完全に他人事に思えたからだ。 「70年代当時の歌ならそういう考えの人もいただろうな」「本当にそう思っているわけではなく、曲としてはあえてちょっと極端な歌詞にしてんのかな」 それくらいである。 『お前は俺のところへ家を捨ててくるのだから 帰る場所はないと思え』あたりが時代を感じる。 もちろん、歌詞自体はとてつもなく自分勝手なものなので、それに対しての反論はめちゃくちゃある。 言い出したらキリがない。 非現実的過ぎるくらいだ。 非現実的だが、たまにちょっと良いことを言うのだ。 歌い手はなんだかんだ強気でいつつ、『お前』という妻をもらったことへの責任をちゃんと感じていること、『幸福は二人で育てるものでどちらかが苦労してつくろうものではないはず』と言っているあたり、なんだかんだ要求するがそこは、基本は、ちゃんと分かっているのだなと思わせる。 結局、そこなのだろうと思う。 どちらの曲も「大切にして」「言う通りにしろ」と主張してばかりなのだが、『関白宣言』は無理に虚勢を張りそこから垣間見せる弱さや情けなさを隠しつつ、そんな自分だけれど相手を大切に思っているし二人で幸福になりたいというあたり、人間味を感じる。 (ただし浮気、テメーはダメだ。 ) しかし『トリセツ。 』はそういう隙が微塵も無い。 「え?それが当然でしょ?」「私と付き合う限り、とにかくそういうことなんで」と相手への慈しみが全く感じられない。 弱さを見せる部分はある。 それも含めて相手からのケアに頼りきりだ。 この人は一人で幸せになりたいのかもとも思う。 しばらく私は、『関白宣言』に対して『トリセツ。 』ほどの意見がないのは、心のどこかでこの時代の男尊女卑の思想を受け入れていて、「男性(旦那さん)がそう言うならそうなのかもな」と感じているのだろうか少し混乱した。 一番そういう考え方が受け入れがたいはずなのに。 もしかすると、受け入れる以前に、上にも書いたが、非現実的過ぎて、自分の身近なことには置き換えることにならず、「ただ言ってるだけ」に聞こえたのかもしれない。 それと、やはり私の体と心の性が女性性で、『トリセツ。 』が女性目線の曲だったというのはあると思う。 そんなはずはないのに、当事者意識を持ってしまったというか… 飲み会の場で男性同僚達が何も気にすることがなかったのは、トリセツがまったくの他人事で、私にとっての関白宣言と同じく、「そういう風に思ってる人もいるんだな」で留まったからなのではないだろうか。 (もし女性関係のトラブルに見舞われている最中だったら違ったかもしれないけれど) もし、『関白宣言』が出たのがここ数年のことであれば非難轟々だったかもしれないが(当事がそうだったらしいし)、40年も前の曲だ。 日本は40年間で大きく変わった。 その、大きく変わる前の時代に作られた曲に、今、私が生きている社会はきっと反映されていない。 そう思ったら、特に何も感じないのだ。 もしこれが音楽ではなくて、時の政治家の本気の意見という形で世に出ていたということだったら、また違うように思う。 昔を憂うと思う。 ここまで書いたことで西野カナが嫌いでさだまさし推奨派に思われるかもしれないが、個人的にはどちらの人物に対しても好きも嫌いも感じたことがない。 曲と歌手は別物なので、「こんな曲を作るなんて信じられん」などとは思わない。 ただ、作った。 それだけで、作詞者・作曲者の人間まで批判したり嫌う所以はない。 だからどんどんお二方には今後も頑張ってほしいという気持ちは本心だ。 信じてもらえないだろうが。

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西野カナの「トリセツ」が女性版の関白宣言なので、紹介したい

関白宣言 女性

By - 公開: 2019-08-27 更新: 2020-01-12 【大人のMusic Calendar】 さだまさしがソロになってから8枚目のシングル「関白宣言」を発表したのは1979年7月10日のこと。 6分20秒という長尺の曲にもかかわらず、そのテーマの斬新さもあって「関白宣言」は大きな話題となった。 そして「関白宣言」は、同年8月に創刊された専門誌『オリジナルコンフィデンス(オリコン)』誌のウイークリー・シングルチャートで1位にランクインして以来、10月初頭号まで1位にとどまり続けるなど、約160万枚を売り上げるさだまさしにとって最大のシングルヒット曲となった。 しかし、同時に「関白宣言」は、さだまさしにやっかいな問題を持ち込む曲ともなった。 1973年にフォークデュオ、グレープでデビューして「精霊流し」「無縁坂」などをヒットさせ、76年にソロとなってからも「雨やどり」「案山子」などロマンティシズムあふれる曲を発表し、抒情フォークの旗手としてクローズアップされていった。 「関白宣言」は、そんなさだまさしのイメージを大きく覆す曲だった。 「関白宣言」が発表される前年の1978年には、庄野真代の「飛んでイスタンブール」、渡辺真知子の「かもめが翔んだ日」などがヒットし、〝翔んでる女〟が流行語になるなど、1960年代に世界的に台頭したウーマンリブ運動に刺激を受けた女性の意識の高まりが、日本でも一般に浸透していった時代だった。 歌謡曲の世界でも、山口百恵の「イミテイション・ゴールド」(77年)、「プレイバックPart2」(78年)など、強い意思を感じさせる女性の歌が脚光を浴びていった。 女は、男の願望を従順に受け入れるだけの存在じゃない。 そんな意識が社会全体に広がろうとしている。 まさにそんなタイミングに発表された「関白宣言」は、一部から〝女性蔑視の歌〟として問題視されることになった。 確かに一見すると、結婚する相手の女性に対して、一方的に従うように強要する亭主関白宣言の歌のように受け止る人がいてもしょうがないようにも思える。 けれど、それはこの歌の歌い出しだけを聴いて早とちりした感想に過ぎない。 曲を聴いていけば、この歌がけっして女性蔑視をしているのでもなければ、妻となる女性に犠牲を強要しているわけでもないことはわかってくる。 主人公は、亭主関白というイメージを比喩として使いながら、実は、自分が新たな家庭をもつということについての自分の覚悟を再確認しているのだ。 だから、一見強気に見える言葉の中から、相手に対する思いやりや真摯な姿勢がにじみ出てくる。 そういう一筋縄ではいかないつくり方がされている曲なのだ。 けれど、マスコミ的には、楽曲としての機微よりも、〝さだまさしの「関白宣言」に女性団体が抗議〟というセンセーショナルな見出しの方が話題になる。 ということで、「関白宣言」は女性差別の歌、さだまさしは女性差別主義者、というレッテルが貼られることにもなった。 実は、そこにも大きな誤解があったのではないだろうか。 「関白宣言」が女性差別の歌かどうかという以前に、この曲はさだまさしの〝私小説〟として書かれたものではない、ということが理解されていなかったことが、この騒動の大きな要因だったんじゃないかと僕は思う。 冒頭に書いたように、当時のさだまさしは〝叙情フォーク〟の旗手と呼ばれていた。 そして、多くのリスナーは、フォークとは歌い手が自分の心情を正直に吐露する歌だと考えていた。 しかし、実はさだまさしは非常に作家性の強いシンガー・ソングライターなのだ。 もちろん彼の歌には、自らの体験や想いが反映されている。 しかし彼の作品は、その思いがそのまま言葉になっているのではなく、さまざまなストーリーに託された形で表現されているものが多い。 だからそれは、フィクションに託してリアルを表現しようとする作家の姿勢に通じるものがあったのだ。 だから、「関白宣言」の主人公の言葉も、それがそのままさだまさしの考え方なのではなく、女性の地位が上がってきた79年の時点でも、男性の心に残っていたいささか旧弊な夫婦観を引用することで、時代の空気感を逆に印象付けようとしたのではないかと思う。 しかも、この曲をよく聴いていると、もしかしたらこの主人公は、実際にはこの言葉を、妻となる女性には伝えていないんじゃないかとも思えるのだ。 というのも曲の冒頭、主人公は〝言っておきたいことがある〟とは書かれているが、〝言う〟とはなっていない。 いくら保守的な夫婦観を持っていたとしても、実際にいきなりこれを言い放つとしたら、よほど勝手な男だろう。 さすがにこの主人公は、そこまで空気の読めない男ではない。 だから、「関白宣言」は、結婚を前に、自分の本音を一度噛み締めつつ、自らの覚悟と相手への誠実を誓う。 そんな男の心の声の歌だったのではないか。 僕はそう思っている。 さだまさしを巡る激動は「関白宣言」だけに留まらなかった。 翌1980年には日露戦争をテーマとした映画『二百三高地』の主題歌「防人の詩」を発表し、好戦的という批判を浴びた。 さらに自らドキュメント映画『長江』を制作し、膨大な借金を背負うことにもなった。 こうした、さだまさしにとって激動の時代は、今から振り返れば、「関白宣言」への誤解から始まったとも言えるのではないだろうか。 1994年、さだまさしは自ら「関白宣言」のアンサーソング、「関白失脚」を発表した。 一度は〝関白宣言〟を胸にした男の行く末を、笑い、そして共感とともに描いた「関白失脚」を聞けば、「関白宣言」に託したさだまさしの思いが、自らの人生経験と共鳴して、より身に沁みて感じられるだろう。 グレープ「精霊流し」さだまさし「関白宣言」「防人の詩」「関白失脚」庄野真代「飛んでイスタンブール」ジャケット撮影協力:鈴木啓之 【著者】前田祥丈(まえだ・よしたけ):73年、風都市に参加。 音楽スタッフを経て、編集者、ライター・インタビュアーとなる。 音楽専門誌をはじめ、一般誌、単行本など、さまざまな出版物の制作・執筆を手掛けている。 編著として『音楽王・細野晴臣物語』『YMO BOOK』『60年代フォークの時代』『ニューミュージックの時代』『明日の太鼓打ち』『今語る あの時 あの歌 きたやまおさむ』『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』など多数。

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