社会 に 開 かれ た 教育 課程 と は。 社会に開かれた教育課程とは―新学習指導要領の理念―

社会に開かれた教育課程とは―新学習指導要領の理念―

社会 に 開 かれ た 教育 課程 と は

簡単にまとめれば 閉鎖的な学校での教育が行き詰まったので、家庭や地域にもがんばってもらって、社会に貢献できる人材をみんなで育てましょう、ということです。 まあ、これだけならわかりやすく感じますが、難しくなってしまうのは、「じゃあ、どうやって具体化するの?」と考えたときです。 具体化を考えると、 1 社会に貢献できる人材をどうやって育てるの? 2 閉鎖的な学校を変えるために何をすればいいの? という課題が見えてきます。 社会に開かれた教育課程の課題 1 社会に貢献できる人材をどうやって育てるの?という課題に応えるのが「カリキュラム・マネジメント」です。 カリキュラム・マネジメントとは、「社会に開かれた教育課程」の理想を実現するための具体的な方策です。 「コミュニティ・スクール」や「チーム学校」とは、「社会に開かれた教育課程」を実現するための新しい学校の姿です。 逆に言えば、「社会に開かれた教育課程」が分かると、自然に他のキーワードも理解できます。 大雑把に問題の所在を踏まえた上で、まず文部科学省が「社会に開かれた教育課程」をどう説明しているかを確認していきましょう。 「社会に開かれた教育課程」の定義 学習指導要領の記述 『』 平成29年版 の前文には、「社会に開かれた教育課程」の定義が次のように示されています。 教育課程を通して、 これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通して よりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような 資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、 社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、 社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。 2頁 この定義を正しく読み取るためには、 1 「これからの時代に求められる教育」って何? 2 「よりよい社会」って何? 3 「資質・能力」って何? 4 「社会との連携及び協働」ってどうするの? について考えなければいけません。 それぞれの問いに大雑把な答えを与えるとしたら、次のようになるでしょう。 キーワード的には「知識基盤社会」の進展に対応する教育を指します。 またあるいは「第二期教育振興基本計画」の理念に従えば、「自立・協働・創造の3つの理念の実現に向けた生涯学習社会」が想定されるところです。 が、しかし、政府や文部科学省の姿勢を総合的に考慮すると、実際には「知識基盤社会」の進展に対応して産業を発展させ、日本が国際社会で経済的に存在感を高めるのが「よい社会」と考えているように見えてしまうところではあります。 この場合の汎用的なスキルとは、例えば問題解決、論理的思考、コミュニケーション能力等を指します。 またあるいは自己調整や内省、批判的思考を可能にするものとして「メタ認知」の能力を指します。 さらに「教科等の本質に関わるもの」あるいは「教科等ならではの見方・考え方」を指します。 このあたりは「21世紀型スキル」として改めて考えるべきところですので、必要なら別のページをご参照ください。 そんなわけで、一口に「社会に開かれた教育課程」と言っても、教育や学校に関わるあらゆる面から総合的に物事を考えなければいけないことが分かります。 逆に言えば、文部科学省が今回の学習指導要領に込めた狙いは、ほぼすべて「社会に開かれた教育課程」の中に含まれています。 カリキュラム・マネジメントとの関係 さて、定義についてはなんとなく分かったので、次に、具体的に何をすればいいかについて確認しましょう。 結論から言うと、学校が具体的にするべきことは「カリキュラム・マネジメント」です。 ということで、具体的にするべき仕事については別のページをご参照ください。 『』は、次のように言っています。 大雑把には、「社会に開かれた教育課程」が教育改革全体の理念とすれば、「カリキュラム・マネジメント」は学校が行うべき具体的な課題です。 つまり、「社会に開かれた教育課程」を実現するためには、どうしても「カリキュラム・マネジメント」は避けて通れないわけです。 逆に言えば、「カリキュラム・マネジメント」を進めるに当たっては、常に「社会に開かれた教育課程」を意識しなければいけません。 「社会に開かれた教育課程」の背景 以上、学校が実際にやらなければいけない仕事も分かりました。 でも、どうしてやらなければいけないのでしょうか? このままの学校ではダメなのでしょうか。 平成28年12月の「」には、「社会に開かれた教育課程の実現」がなぜ必要なのか、背景が以下のように説明されています。 このような「 社会に開かれた教育課程」としては、次の点が重要になる。 この記述では、「社会に開かれた」という言葉の意味がかなり具体的に明らかになっています。 まとめると、以下のようになります。 1 「社会に開かれた」とは、まずは学校教育の目標が社会と共有されている状態を指すようです。 ということは、逆に言えば、これまでの学校教育は、必ずしも目標を社会と共有していなかったということを示唆しています。 学校と社会の目標がズレていたら、社会で役に立つ人材が育つわけがないですね。 ただ、本当に学校が社会から閉ざされていたのか、あるいはそれが良いことか悪いことかについては、改めて吟味する必要があります。 2 次に「社会に開かれた」とは、社会や世界に通用する資質・能力を育てることを意味します。 逆に言えば、これまでの学校は社会や世界に通用する資質・能力を育ててこなかったと判断されているわけですね。 かなり舐められていますが、その判断の根拠としては、PISA調査や全国学力調査などで、単なる知識としてのA問題の正答率は高いのに、生活場面で活用するB問題では大幅に正答率が下がるという現象が意識されているでしょう。 ただし、その場合の「社会」や「世界」が具体的に何を指しているかについては、しっかり吟味しておく必要があるでしょう。 3 最後に「社会に開かれた」とは、もはや学校だけが教育を独占して担うべきではない、ということを示唆しています。 この論点については、チーム学校やコミュニティ・スクールという制度改革だけでなく、改めて「市場化」や「民営化」という観点を忘れずに吟味していく必要があります。 かなり怖い話に繋がっていきます。 要するに、現在の学校や教育が抱える問題を解決するためには、どうしても学校を社会に開く必要があると考えているわけです。 このまま学校を放っておいてはダメなようですね。 具体的な実践例について さて、定義と背景について確認したところで、気になるのは「社会に開かれた教育課程」の実践例です。 が、個人的には、改めて「実践」をつくり出す必要はないと思います。 たとえば、報告されている種々の「社会に開かれた教育課程の実践例」を見る限りでは、これまでにも積み重ねられてきた総合的な学習の時間や特別活動の実践と基本的には変わりがありません。 具体的な実践は、これまでのもので充分ということです。 というのも、「社会に開かれた教育課程」という概念に期待されているのは、実践そのものの新たな創出や改善ではないのです。 期待されているのは、既存の取り組みの位置づけをメタ認知的に総括し、改めて意識付けすることです。 具体的な作業として学校に求められていることは、教育の「目標」を再検討したり、「目標」と実践との結びつきを確認したり、実践を効果的に行うための組織のあり方について整備したり、実践の効果をチェックする仕組みを工夫したり、成果を発表する体制を整えたりすることなのです。 そしてこれが「カリキュラム・マネジメント」に期待されているものです。 逆に言えば、ただ実践そのものを工夫するだけでは「社会に開かれた教育課程」を実現したことには絶対になりません。 「社会に開かれた教育課程」を理解するためには、地域の環境や条件から切り離された実践例をいくら検討しても、意味がありません。 まず必要なのは、学校も含めた地域の現実を把握することです。 実践は、その後です。 雑誌記事なりインターネット上の報告等を見ると、社会と関わりのある実践を行いさえすれば「社会に開かれた教育課程」を実現しているかのように考えている記述を散見しますが、もちろんそれだけでは文科省の言う「社会に開かれた教育課程」の目指しているものにはなりません。 むしろ、どれだけ社会との関わりがあろうと、「目標」に照らして意味がない実践だと結論が出た場合は、やめてしまって良いのです。 根本から、原理的に、基本に立ち戻って、偏見と先入観を取り除いて、前例にこだわらず、教育と学校のあり方を独創的に考えていこうというのが、文部科学省の狙いです。 教員採用試験の小論文 そして教員採用試験の小論文のテーマとしても、「社会に開かれた教育課程」はよく出てきます。 というのも、ここに文部科学省の言いたいことがすべて詰まっているので、問題にしやすいわけですね。 まあ、ここまで読んで内容を理解していれば、書くべきことは自然に見えてくると思います。 こんな感じで書けばいいでしょう。 【起】「社会に開かれた教育課程」の「定義」を理解していることをアピールする。 【承】なぜ「社会に開かれた教育課程」が必要なのか、「背景」を理解していることをアピールする。 【転】「社会に開かれた教育課程」の具体的な「課題」がどこにあるのか理解していることをアピールする。 【結】実際に学校や教員が行うべきことが「カリキュラム・マネジメント」であることを踏まえ、実践に向かう意欲をアピールする。 肝に銘じておくべきことは、教員採用試験の小論文は評論家的に知っていることを書くのでは印象が悪くなるということです。 現場は、他人事のように問題を語る評論家などいりません。 自覚を持って子供と向き合える実践家が欲しいのです。 小論文や面接では、しっかり主体的に問題を捉えて、当事者意識を前面に出していく必要があります。 そのためには、「カリキュラム・マネジメント」と「主体的・対話的で深い学び」について、「社会に開かれた教育課程」との関係を意識しながら理解しておくといいでしょう。 収録されている個々の論文が、参考になります。 「「生きる力」や「人間力」をはじめとする様々な「力」の形成や、生き方を考えるための「キャリア教育」といった、抽象度の高い「社会的意義」が、いかなるカリキュラムを通じていかに形成されるのかということについての経験的な吟味がきわめて不十分なままで、スローガンとして掲げられているのが現状である」 37頁 という指摘は、重いですね。 教師に期待されるのは、産業社会を超えるビジョンを示す力であることを示しています。 そのせいか、プリミティブで総論的な問題意識を生々しく伺うことができる記事が散見されます。 安彦忠彦が寄せた痛烈な批判記事は、賛否はともかくとして、なかなか興味深く読めます。 批判的な吟味 そんなわけで文部科学省の言い分を確認してきましたが、本当にこの方針で大丈夫でしょうか? 教育原理的に考えてみましょう。 「社会」とは何か? 実はそもそも、「社会に開かれた教育課程」と言った場合の「社会」が具体的に何を意味するかは、学習指導要領や中教審答申では必ずしも明らかになっていません。 しかし全体的にOECDの議論を意識した記述を見る限り、そこでイメージされているのが「経済」を実体とした世の中であることは容易に想像できてしまいます。 あるいは、学習指導要領の言う「社会」とは、自由な権利の主体としての個人がつながる「市民社会」ではなく、生き馬の目をぬくような厳しい国際競争の場としての「知識基盤社会」を想定しているように思われてしまいます。 そもそも言葉の成り立ちから「社会」を考えた場合には、普通は自由な権利の主体としての個人が構成する「市民社会」というものを思い浮かべるはずです。 もちろん市民社会も経済を実体とする側面もありますが、もう一方では「自由な権利の主体」を構成要素とする側面もあります。 気になるのは、『学習指導要領』が経済的な生産や消費の主体としての資質・能力の育成に重点を置き、市民的な権利の主体としての資質・能力の育成にはさほど意を用いていないように見える点です。 もちろん学習指導要領が言う「批判的能力」や「コミュニケーション能力」が市民的な権利の主体としても重要な資質・能力であることに間違いはありませんが、明らかな事実としては、「権利」という言葉そのものが「社会に開かれた教育課程」との絡みではまったく打ち出されていません。 たとえば中教審答申では「権利」という言葉は5回出てきますが、そのうち4回は「障害者の権利」に絡み、残りの一つは「消費者の権利」に触れられるところです。 「社会に開かれた教育課程」に関わる記述では、一切触れられていません。 ここで言われている「社会」というものの本質が、ここに垣間見えるような気がします。 それは英語で言うsocietyとかassociationという概念とは、まったく別のものを指しているのではないでしょうか? それは「社会」という日本語の曖昧さを利用して、明確に定義もせずに、global marketとlocal communityの都合の良い側面を文脈によって使い分けているだけのものではないでしょうか? 学校選択制と「社会」 この観点から問題になるのは、これまで推進されてきた学区の弾力化や学校選択制という制度と、今回の「社会に開かれた教育課程」という概念との整合性です。 仮に学校を社会に開くとしても、その学校が「学区」に基づくものか、それとも「学校選択制」に基づくものかで、意味や機能がまったく異なってくるからです。 もしも「学区」に基づく学校であれば、それは地域内のあらゆる多様な住民を含むlocal community 社会 に位置付くものであり、その場合の「社会に開かれる」とはlocal communityに開かれることを示します。 一方「学校選択制」に基づく学校であれば、それは一定の価値観に従って集まった比較的一様な集団の利益を代表するassociation 社会 に奉仕するものであって、その場合の「社会に開かれる」とはassociationに開かれることを示します。 「社会に開かれる」と言っても、「学区」に基づく場合と「学校選択制」に基づく場合では、「社会」のイメージが大きく異なるわけです。 そして、これまで「学校選択制」が積極的に推進されてきたことを鑑みれば、実際に学校を社会に開いた場合、その「社会」とは地域共同体 local community ではなく利害を共有する結社 association である可能性が高くなるわけです。 「学区」による学校と「学校選択制」による学校で、「社会に開かれた教育課程」は変わるのか変わらないのか。 あるいはコミュニティ・スクールと学校選択制と「社会に開かれた教育課程」との関係はどのように構想されるのか。 地域に根付いた学校を目指すのか、利害で繋がった市場経済に奉仕する学校を目指すのか、文科省の狙いは明確には見えてこないところです。 むしろ「社会」という言葉の曖昧さを逆手にとって、都合のいいところだけ摘まみ食いしているようにすら感じます。 そしてその矛盾の行き着く先には、教育の市場化と公教育の崩壊が待っているかもしれません。 local communityの問題 また、global marketの弊害が広く認識される一方で、それと対立するlocal community 地域共同体 が問題を抱えていないわけではありません。 教育に限らず、実はlocal communityのほうが遙かに保守的で官僚的で人権侵害的である例はいくらでもあります。 local communityに財政的な裏付けを欠くために、教育水準が保障されない例だってあるでしょう 小泉改革が、義務教育費国家負担の割合を縮小させたことなどに留意。 小泉改革以後の地方分権化によって教育水準が低下したという指摘もあります 佐藤学「教師に対する管理と統制」『誰のための「教育再生」か』p. このようにlocal communityに問題がある場合、学校というものは社会から隔離され、一定程度の自律性を持って運営されることで意味を持つ場合もあるわけです。 しかし無条件に学校が「社会に開かれた」とき、学校は単にlocal communityの利害に取り込まれ、権力構造を再生産するだけに終わってしまうでしょう。 「学校を社会に開こう」と言いますが、もしも社会が酷いものだったら、むしろ学校は閉じていた方がいいのではないでしょうか。 global marketとlocal communityの間 だとすれば、教育や学校の在り方を考えるとき、global marketに振れるのでもなく、local communityに振れるのでもなく、まずは人々がより良く生きるための条件とは何かという視点が必要となってくるわけです。 その条件は、おそらく「共生」とか「公共性」という概念と結びついて浮上してくるはずです。 文部科学省が「社会に開かれた教育課程」と言うとき、そこで言われている「社会」というものに「共生」や「公共性」という概念がしっかり反映しているでしょうか。 このあたり、地方自治や地方分権や地方教育行政などの制度設計として具体的な焦点となるところであって、単にカリキュラムの問題ではすまないところではあります。 そういう矛盾に目をつぶって、単に「社会に開かれた教育課程」と唱えて学校だけに課題を押しつけるのでは、むしろ矛盾は拡大するだけに終わることが容易に想像できます。 地方自治のあり方を踏まえて、広い視野から教育と学校の未来を考えていかなければなりません。 この記事を読んだ人はこちらの記事も読んでいます• 簡単にまとめれば 学校にも民間企業の経営ノウハウを導入しましょう。 簡単にまとめれば テストのための勉強はくだらないので、ホンモノの力をつけてください、ということ。 そのために押さえるべきポイントは、 1 従来の「アクティブ・ラーニング」には、勘違いが多かった。 簡単にまとめれば 受験競争に特化した表面的な「知識・内容=コンテンツ」を身につけても、社会に出てからまったく役に立たないので、ホンモノの「資質・能力=コンピテンシー」を持った人材を育てましょう。 投稿ナビゲーション.

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簡単にまとめれば 閉鎖的な学校での教育が行き詰まったので、家庭や地域にもがんばってもらって、社会に貢献できる人材をみんなで育てましょう、ということです。 まあ、これだけならわかりやすく感じますが、難しくなってしまうのは、「じゃあ、どうやって具体化するの?」と考えたときです。 具体化を考えると、 1 社会に貢献できる人材をどうやって育てるの? 2 閉鎖的な学校を変えるために何をすればいいの? という課題が見えてきます。 社会に開かれた教育課程の課題 1 社会に貢献できる人材をどうやって育てるの?という課題に応えるのが「カリキュラム・マネジメント」です。 カリキュラム・マネジメントとは、「社会に開かれた教育課程」の理想を実現するための具体的な方策です。 「コミュニティ・スクール」や「チーム学校」とは、「社会に開かれた教育課程」を実現するための新しい学校の姿です。 逆に言えば、「社会に開かれた教育課程」が分かると、自然に他のキーワードも理解できます。 大雑把に問題の所在を踏まえた上で、まず文部科学省が「社会に開かれた教育課程」をどう説明しているかを確認していきましょう。 「社会に開かれた教育課程」の定義 学習指導要領の記述 『』 平成29年版 の前文には、「社会に開かれた教育課程」の定義が次のように示されています。 教育課程を通して、 これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通して よりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような 資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、 社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、 社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。 2頁 この定義を正しく読み取るためには、 1 「これからの時代に求められる教育」って何? 2 「よりよい社会」って何? 3 「資質・能力」って何? 4 「社会との連携及び協働」ってどうするの? について考えなければいけません。 それぞれの問いに大雑把な答えを与えるとしたら、次のようになるでしょう。 キーワード的には「知識基盤社会」の進展に対応する教育を指します。 またあるいは「第二期教育振興基本計画」の理念に従えば、「自立・協働・創造の3つの理念の実現に向けた生涯学習社会」が想定されるところです。 が、しかし、政府や文部科学省の姿勢を総合的に考慮すると、実際には「知識基盤社会」の進展に対応して産業を発展させ、日本が国際社会で経済的に存在感を高めるのが「よい社会」と考えているように見えてしまうところではあります。 この場合の汎用的なスキルとは、例えば問題解決、論理的思考、コミュニケーション能力等を指します。 またあるいは自己調整や内省、批判的思考を可能にするものとして「メタ認知」の能力を指します。 さらに「教科等の本質に関わるもの」あるいは「教科等ならではの見方・考え方」を指します。 このあたりは「21世紀型スキル」として改めて考えるべきところですので、必要なら別のページをご参照ください。 そんなわけで、一口に「社会に開かれた教育課程」と言っても、教育や学校に関わるあらゆる面から総合的に物事を考えなければいけないことが分かります。 逆に言えば、文部科学省が今回の学習指導要領に込めた狙いは、ほぼすべて「社会に開かれた教育課程」の中に含まれています。 カリキュラム・マネジメントとの関係 さて、定義についてはなんとなく分かったので、次に、具体的に何をすればいいかについて確認しましょう。 結論から言うと、学校が具体的にするべきことは「カリキュラム・マネジメント」です。 ということで、具体的にするべき仕事については別のページをご参照ください。 『』は、次のように言っています。 大雑把には、「社会に開かれた教育課程」が教育改革全体の理念とすれば、「カリキュラム・マネジメント」は学校が行うべき具体的な課題です。 つまり、「社会に開かれた教育課程」を実現するためには、どうしても「カリキュラム・マネジメント」は避けて通れないわけです。 逆に言えば、「カリキュラム・マネジメント」を進めるに当たっては、常に「社会に開かれた教育課程」を意識しなければいけません。 「社会に開かれた教育課程」の背景 以上、学校が実際にやらなければいけない仕事も分かりました。 でも、どうしてやらなければいけないのでしょうか? このままの学校ではダメなのでしょうか。 平成28年12月の「」には、「社会に開かれた教育課程の実現」がなぜ必要なのか、背景が以下のように説明されています。 このような「 社会に開かれた教育課程」としては、次の点が重要になる。 この記述では、「社会に開かれた」という言葉の意味がかなり具体的に明らかになっています。 まとめると、以下のようになります。 1 「社会に開かれた」とは、まずは学校教育の目標が社会と共有されている状態を指すようです。 ということは、逆に言えば、これまでの学校教育は、必ずしも目標を社会と共有していなかったということを示唆しています。 学校と社会の目標がズレていたら、社会で役に立つ人材が育つわけがないですね。 ただ、本当に学校が社会から閉ざされていたのか、あるいはそれが良いことか悪いことかについては、改めて吟味する必要があります。 2 次に「社会に開かれた」とは、社会や世界に通用する資質・能力を育てることを意味します。 逆に言えば、これまでの学校は社会や世界に通用する資質・能力を育ててこなかったと判断されているわけですね。 かなり舐められていますが、その判断の根拠としては、PISA調査や全国学力調査などで、単なる知識としてのA問題の正答率は高いのに、生活場面で活用するB問題では大幅に正答率が下がるという現象が意識されているでしょう。 ただし、その場合の「社会」や「世界」が具体的に何を指しているかについては、しっかり吟味しておく必要があるでしょう。 3 最後に「社会に開かれた」とは、もはや学校だけが教育を独占して担うべきではない、ということを示唆しています。 この論点については、チーム学校やコミュニティ・スクールという制度改革だけでなく、改めて「市場化」や「民営化」という観点を忘れずに吟味していく必要があります。 かなり怖い話に繋がっていきます。 要するに、現在の学校や教育が抱える問題を解決するためには、どうしても学校を社会に開く必要があると考えているわけです。 このまま学校を放っておいてはダメなようですね。 具体的な実践例について さて、定義と背景について確認したところで、気になるのは「社会に開かれた教育課程」の実践例です。 が、個人的には、改めて「実践」をつくり出す必要はないと思います。 たとえば、報告されている種々の「社会に開かれた教育課程の実践例」を見る限りでは、これまでにも積み重ねられてきた総合的な学習の時間や特別活動の実践と基本的には変わりがありません。 具体的な実践は、これまでのもので充分ということです。 というのも、「社会に開かれた教育課程」という概念に期待されているのは、実践そのものの新たな創出や改善ではないのです。 期待されているのは、既存の取り組みの位置づけをメタ認知的に総括し、改めて意識付けすることです。 具体的な作業として学校に求められていることは、教育の「目標」を再検討したり、「目標」と実践との結びつきを確認したり、実践を効果的に行うための組織のあり方について整備したり、実践の効果をチェックする仕組みを工夫したり、成果を発表する体制を整えたりすることなのです。 そしてこれが「カリキュラム・マネジメント」に期待されているものです。 逆に言えば、ただ実践そのものを工夫するだけでは「社会に開かれた教育課程」を実現したことには絶対になりません。 「社会に開かれた教育課程」を理解するためには、地域の環境や条件から切り離された実践例をいくら検討しても、意味がありません。 まず必要なのは、学校も含めた地域の現実を把握することです。 実践は、その後です。 雑誌記事なりインターネット上の報告等を見ると、社会と関わりのある実践を行いさえすれば「社会に開かれた教育課程」を実現しているかのように考えている記述を散見しますが、もちろんそれだけでは文科省の言う「社会に開かれた教育課程」の目指しているものにはなりません。 むしろ、どれだけ社会との関わりがあろうと、「目標」に照らして意味がない実践だと結論が出た場合は、やめてしまって良いのです。 根本から、原理的に、基本に立ち戻って、偏見と先入観を取り除いて、前例にこだわらず、教育と学校のあり方を独創的に考えていこうというのが、文部科学省の狙いです。 教員採用試験の小論文 そして教員採用試験の小論文のテーマとしても、「社会に開かれた教育課程」はよく出てきます。 というのも、ここに文部科学省の言いたいことがすべて詰まっているので、問題にしやすいわけですね。 まあ、ここまで読んで内容を理解していれば、書くべきことは自然に見えてくると思います。 こんな感じで書けばいいでしょう。 【起】「社会に開かれた教育課程」の「定義」を理解していることをアピールする。 【承】なぜ「社会に開かれた教育課程」が必要なのか、「背景」を理解していることをアピールする。 【転】「社会に開かれた教育課程」の具体的な「課題」がどこにあるのか理解していることをアピールする。 【結】実際に学校や教員が行うべきことが「カリキュラム・マネジメント」であることを踏まえ、実践に向かう意欲をアピールする。 肝に銘じておくべきことは、教員採用試験の小論文は評論家的に知っていることを書くのでは印象が悪くなるということです。 現場は、他人事のように問題を語る評論家などいりません。 自覚を持って子供と向き合える実践家が欲しいのです。 小論文や面接では、しっかり主体的に問題を捉えて、当事者意識を前面に出していく必要があります。 そのためには、「カリキュラム・マネジメント」と「主体的・対話的で深い学び」について、「社会に開かれた教育課程」との関係を意識しながら理解しておくといいでしょう。 収録されている個々の論文が、参考になります。 「「生きる力」や「人間力」をはじめとする様々な「力」の形成や、生き方を考えるための「キャリア教育」といった、抽象度の高い「社会的意義」が、いかなるカリキュラムを通じていかに形成されるのかということについての経験的な吟味がきわめて不十分なままで、スローガンとして掲げられているのが現状である」 37頁 という指摘は、重いですね。 教師に期待されるのは、産業社会を超えるビジョンを示す力であることを示しています。 そのせいか、プリミティブで総論的な問題意識を生々しく伺うことができる記事が散見されます。 安彦忠彦が寄せた痛烈な批判記事は、賛否はともかくとして、なかなか興味深く読めます。 批判的な吟味 そんなわけで文部科学省の言い分を確認してきましたが、本当にこの方針で大丈夫でしょうか? 教育原理的に考えてみましょう。 「社会」とは何か? 実はそもそも、「社会に開かれた教育課程」と言った場合の「社会」が具体的に何を意味するかは、学習指導要領や中教審答申では必ずしも明らかになっていません。 しかし全体的にOECDの議論を意識した記述を見る限り、そこでイメージされているのが「経済」を実体とした世の中であることは容易に想像できてしまいます。 あるいは、学習指導要領の言う「社会」とは、自由な権利の主体としての個人がつながる「市民社会」ではなく、生き馬の目をぬくような厳しい国際競争の場としての「知識基盤社会」を想定しているように思われてしまいます。 そもそも言葉の成り立ちから「社会」を考えた場合には、普通は自由な権利の主体としての個人が構成する「市民社会」というものを思い浮かべるはずです。 もちろん市民社会も経済を実体とする側面もありますが、もう一方では「自由な権利の主体」を構成要素とする側面もあります。 気になるのは、『学習指導要領』が経済的な生産や消費の主体としての資質・能力の育成に重点を置き、市民的な権利の主体としての資質・能力の育成にはさほど意を用いていないように見える点です。 もちろん学習指導要領が言う「批判的能力」や「コミュニケーション能力」が市民的な権利の主体としても重要な資質・能力であることに間違いはありませんが、明らかな事実としては、「権利」という言葉そのものが「社会に開かれた教育課程」との絡みではまったく打ち出されていません。 たとえば中教審答申では「権利」という言葉は5回出てきますが、そのうち4回は「障害者の権利」に絡み、残りの一つは「消費者の権利」に触れられるところです。 「社会に開かれた教育課程」に関わる記述では、一切触れられていません。 ここで言われている「社会」というものの本質が、ここに垣間見えるような気がします。 それは英語で言うsocietyとかassociationという概念とは、まったく別のものを指しているのではないでしょうか? それは「社会」という日本語の曖昧さを利用して、明確に定義もせずに、global marketとlocal communityの都合の良い側面を文脈によって使い分けているだけのものではないでしょうか? 学校選択制と「社会」 この観点から問題になるのは、これまで推進されてきた学区の弾力化や学校選択制という制度と、今回の「社会に開かれた教育課程」という概念との整合性です。 仮に学校を社会に開くとしても、その学校が「学区」に基づくものか、それとも「学校選択制」に基づくものかで、意味や機能がまったく異なってくるからです。 もしも「学区」に基づく学校であれば、それは地域内のあらゆる多様な住民を含むlocal community 社会 に位置付くものであり、その場合の「社会に開かれる」とはlocal communityに開かれることを示します。 一方「学校選択制」に基づく学校であれば、それは一定の価値観に従って集まった比較的一様な集団の利益を代表するassociation 社会 に奉仕するものであって、その場合の「社会に開かれる」とはassociationに開かれることを示します。 「社会に開かれる」と言っても、「学区」に基づく場合と「学校選択制」に基づく場合では、「社会」のイメージが大きく異なるわけです。 そして、これまで「学校選択制」が積極的に推進されてきたことを鑑みれば、実際に学校を社会に開いた場合、その「社会」とは地域共同体 local community ではなく利害を共有する結社 association である可能性が高くなるわけです。 「学区」による学校と「学校選択制」による学校で、「社会に開かれた教育課程」は変わるのか変わらないのか。 あるいはコミュニティ・スクールと学校選択制と「社会に開かれた教育課程」との関係はどのように構想されるのか。 地域に根付いた学校を目指すのか、利害で繋がった市場経済に奉仕する学校を目指すのか、文科省の狙いは明確には見えてこないところです。 むしろ「社会」という言葉の曖昧さを逆手にとって、都合のいいところだけ摘まみ食いしているようにすら感じます。 そしてその矛盾の行き着く先には、教育の市場化と公教育の崩壊が待っているかもしれません。 local communityの問題 また、global marketの弊害が広く認識される一方で、それと対立するlocal community 地域共同体 が問題を抱えていないわけではありません。 教育に限らず、実はlocal communityのほうが遙かに保守的で官僚的で人権侵害的である例はいくらでもあります。 local communityに財政的な裏付けを欠くために、教育水準が保障されない例だってあるでしょう 小泉改革が、義務教育費国家負担の割合を縮小させたことなどに留意。 小泉改革以後の地方分権化によって教育水準が低下したという指摘もあります 佐藤学「教師に対する管理と統制」『誰のための「教育再生」か』p. このようにlocal communityに問題がある場合、学校というものは社会から隔離され、一定程度の自律性を持って運営されることで意味を持つ場合もあるわけです。 しかし無条件に学校が「社会に開かれた」とき、学校は単にlocal communityの利害に取り込まれ、権力構造を再生産するだけに終わってしまうでしょう。 「学校を社会に開こう」と言いますが、もしも社会が酷いものだったら、むしろ学校は閉じていた方がいいのではないでしょうか。 global marketとlocal communityの間 だとすれば、教育や学校の在り方を考えるとき、global marketに振れるのでもなく、local communityに振れるのでもなく、まずは人々がより良く生きるための条件とは何かという視点が必要となってくるわけです。 その条件は、おそらく「共生」とか「公共性」という概念と結びついて浮上してくるはずです。 文部科学省が「社会に開かれた教育課程」と言うとき、そこで言われている「社会」というものに「共生」や「公共性」という概念がしっかり反映しているでしょうか。 このあたり、地方自治や地方分権や地方教育行政などの制度設計として具体的な焦点となるところであって、単にカリキュラムの問題ではすまないところではあります。 そういう矛盾に目をつぶって、単に「社会に開かれた教育課程」と唱えて学校だけに課題を押しつけるのでは、むしろ矛盾は拡大するだけに終わることが容易に想像できます。 地方自治のあり方を踏まえて、広い視野から教育と学校の未来を考えていかなければなりません。 この記事を読んだ人はこちらの記事も読んでいます• 簡単にまとめれば 学校にも民間企業の経営ノウハウを導入しましょう。 簡単にまとめれば テストのための勉強はくだらないので、ホンモノの力をつけてください、ということ。 そのために押さえるべきポイントは、 1 従来の「アクティブ・ラーニング」には、勘違いが多かった。 簡単にまとめれば 受験競争に特化した表面的な「知識・内容=コンテンツ」を身につけても、社会に出てからまったく役に立たないので、ホンモノの「資質・能力=コンピテンシー」を持った人材を育てましょう。 投稿ナビゲーション.

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社会に開かれた教育課程とは―新学習指導要領の理念―

社会 に 開 かれ た 教育 課程 と は

簡単にまとめれば 閉鎖的な学校での教育が行き詰まったので、家庭や地域にもがんばってもらって、社会に貢献できる人材をみんなで育てましょう、ということです。 まあ、これだけならわかりやすく感じますが、難しくなってしまうのは、「じゃあ、どうやって具体化するの?」と考えたときです。 具体化を考えると、 1 社会に貢献できる人材をどうやって育てるの? 2 閉鎖的な学校を変えるために何をすればいいの? という課題が見えてきます。 社会に開かれた教育課程の課題 1 社会に貢献できる人材をどうやって育てるの?という課題に応えるのが「カリキュラム・マネジメント」です。 カリキュラム・マネジメントとは、「社会に開かれた教育課程」の理想を実現するための具体的な方策です。 「コミュニティ・スクール」や「チーム学校」とは、「社会に開かれた教育課程」を実現するための新しい学校の姿です。 逆に言えば、「社会に開かれた教育課程」が分かると、自然に他のキーワードも理解できます。 大雑把に問題の所在を踏まえた上で、まず文部科学省が「社会に開かれた教育課程」をどう説明しているかを確認していきましょう。 「社会に開かれた教育課程」の定義 学習指導要領の記述 『』 平成29年版 の前文には、「社会に開かれた教育課程」の定義が次のように示されています。 教育課程を通して、 これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通して よりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような 資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、 社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、 社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。 2頁 この定義を正しく読み取るためには、 1 「これからの時代に求められる教育」って何? 2 「よりよい社会」って何? 3 「資質・能力」って何? 4 「社会との連携及び協働」ってどうするの? について考えなければいけません。 それぞれの問いに大雑把な答えを与えるとしたら、次のようになるでしょう。 キーワード的には「知識基盤社会」の進展に対応する教育を指します。 またあるいは「第二期教育振興基本計画」の理念に従えば、「自立・協働・創造の3つの理念の実現に向けた生涯学習社会」が想定されるところです。 が、しかし、政府や文部科学省の姿勢を総合的に考慮すると、実際には「知識基盤社会」の進展に対応して産業を発展させ、日本が国際社会で経済的に存在感を高めるのが「よい社会」と考えているように見えてしまうところではあります。 この場合の汎用的なスキルとは、例えば問題解決、論理的思考、コミュニケーション能力等を指します。 またあるいは自己調整や内省、批判的思考を可能にするものとして「メタ認知」の能力を指します。 さらに「教科等の本質に関わるもの」あるいは「教科等ならではの見方・考え方」を指します。 このあたりは「21世紀型スキル」として改めて考えるべきところですので、必要なら別のページをご参照ください。 そんなわけで、一口に「社会に開かれた教育課程」と言っても、教育や学校に関わるあらゆる面から総合的に物事を考えなければいけないことが分かります。 逆に言えば、文部科学省が今回の学習指導要領に込めた狙いは、ほぼすべて「社会に開かれた教育課程」の中に含まれています。 カリキュラム・マネジメントとの関係 さて、定義についてはなんとなく分かったので、次に、具体的に何をすればいいかについて確認しましょう。 結論から言うと、学校が具体的にするべきことは「カリキュラム・マネジメント」です。 ということで、具体的にするべき仕事については別のページをご参照ください。 『』は、次のように言っています。 大雑把には、「社会に開かれた教育課程」が教育改革全体の理念とすれば、「カリキュラム・マネジメント」は学校が行うべき具体的な課題です。 つまり、「社会に開かれた教育課程」を実現するためには、どうしても「カリキュラム・マネジメント」は避けて通れないわけです。 逆に言えば、「カリキュラム・マネジメント」を進めるに当たっては、常に「社会に開かれた教育課程」を意識しなければいけません。 「社会に開かれた教育課程」の背景 以上、学校が実際にやらなければいけない仕事も分かりました。 でも、どうしてやらなければいけないのでしょうか? このままの学校ではダメなのでしょうか。 平成28年12月の「」には、「社会に開かれた教育課程の実現」がなぜ必要なのか、背景が以下のように説明されています。 このような「 社会に開かれた教育課程」としては、次の点が重要になる。 この記述では、「社会に開かれた」という言葉の意味がかなり具体的に明らかになっています。 まとめると、以下のようになります。 1 「社会に開かれた」とは、まずは学校教育の目標が社会と共有されている状態を指すようです。 ということは、逆に言えば、これまでの学校教育は、必ずしも目標を社会と共有していなかったということを示唆しています。 学校と社会の目標がズレていたら、社会で役に立つ人材が育つわけがないですね。 ただ、本当に学校が社会から閉ざされていたのか、あるいはそれが良いことか悪いことかについては、改めて吟味する必要があります。 2 次に「社会に開かれた」とは、社会や世界に通用する資質・能力を育てることを意味します。 逆に言えば、これまでの学校は社会や世界に通用する資質・能力を育ててこなかったと判断されているわけですね。 かなり舐められていますが、その判断の根拠としては、PISA調査や全国学力調査などで、単なる知識としてのA問題の正答率は高いのに、生活場面で活用するB問題では大幅に正答率が下がるという現象が意識されているでしょう。 ただし、その場合の「社会」や「世界」が具体的に何を指しているかについては、しっかり吟味しておく必要があるでしょう。 3 最後に「社会に開かれた」とは、もはや学校だけが教育を独占して担うべきではない、ということを示唆しています。 この論点については、チーム学校やコミュニティ・スクールという制度改革だけでなく、改めて「市場化」や「民営化」という観点を忘れずに吟味していく必要があります。 かなり怖い話に繋がっていきます。 要するに、現在の学校や教育が抱える問題を解決するためには、どうしても学校を社会に開く必要があると考えているわけです。 このまま学校を放っておいてはダメなようですね。 具体的な実践例について さて、定義と背景について確認したところで、気になるのは「社会に開かれた教育課程」の実践例です。 が、個人的には、改めて「実践」をつくり出す必要はないと思います。 たとえば、報告されている種々の「社会に開かれた教育課程の実践例」を見る限りでは、これまでにも積み重ねられてきた総合的な学習の時間や特別活動の実践と基本的には変わりがありません。 具体的な実践は、これまでのもので充分ということです。 というのも、「社会に開かれた教育課程」という概念に期待されているのは、実践そのものの新たな創出や改善ではないのです。 期待されているのは、既存の取り組みの位置づけをメタ認知的に総括し、改めて意識付けすることです。 具体的な作業として学校に求められていることは、教育の「目標」を再検討したり、「目標」と実践との結びつきを確認したり、実践を効果的に行うための組織のあり方について整備したり、実践の効果をチェックする仕組みを工夫したり、成果を発表する体制を整えたりすることなのです。 そしてこれが「カリキュラム・マネジメント」に期待されているものです。 逆に言えば、ただ実践そのものを工夫するだけでは「社会に開かれた教育課程」を実現したことには絶対になりません。 「社会に開かれた教育課程」を理解するためには、地域の環境や条件から切り離された実践例をいくら検討しても、意味がありません。 まず必要なのは、学校も含めた地域の現実を把握することです。 実践は、その後です。 雑誌記事なりインターネット上の報告等を見ると、社会と関わりのある実践を行いさえすれば「社会に開かれた教育課程」を実現しているかのように考えている記述を散見しますが、もちろんそれだけでは文科省の言う「社会に開かれた教育課程」の目指しているものにはなりません。 むしろ、どれだけ社会との関わりがあろうと、「目標」に照らして意味がない実践だと結論が出た場合は、やめてしまって良いのです。 根本から、原理的に、基本に立ち戻って、偏見と先入観を取り除いて、前例にこだわらず、教育と学校のあり方を独創的に考えていこうというのが、文部科学省の狙いです。 教員採用試験の小論文 そして教員採用試験の小論文のテーマとしても、「社会に開かれた教育課程」はよく出てきます。 というのも、ここに文部科学省の言いたいことがすべて詰まっているので、問題にしやすいわけですね。 まあ、ここまで読んで内容を理解していれば、書くべきことは自然に見えてくると思います。 こんな感じで書けばいいでしょう。 【起】「社会に開かれた教育課程」の「定義」を理解していることをアピールする。 【承】なぜ「社会に開かれた教育課程」が必要なのか、「背景」を理解していることをアピールする。 【転】「社会に開かれた教育課程」の具体的な「課題」がどこにあるのか理解していることをアピールする。 【結】実際に学校や教員が行うべきことが「カリキュラム・マネジメント」であることを踏まえ、実践に向かう意欲をアピールする。 肝に銘じておくべきことは、教員採用試験の小論文は評論家的に知っていることを書くのでは印象が悪くなるということです。 現場は、他人事のように問題を語る評論家などいりません。 自覚を持って子供と向き合える実践家が欲しいのです。 小論文や面接では、しっかり主体的に問題を捉えて、当事者意識を前面に出していく必要があります。 そのためには、「カリキュラム・マネジメント」と「主体的・対話的で深い学び」について、「社会に開かれた教育課程」との関係を意識しながら理解しておくといいでしょう。 収録されている個々の論文が、参考になります。 「「生きる力」や「人間力」をはじめとする様々な「力」の形成や、生き方を考えるための「キャリア教育」といった、抽象度の高い「社会的意義」が、いかなるカリキュラムを通じていかに形成されるのかということについての経験的な吟味がきわめて不十分なままで、スローガンとして掲げられているのが現状である」 37頁 という指摘は、重いですね。 教師に期待されるのは、産業社会を超えるビジョンを示す力であることを示しています。 そのせいか、プリミティブで総論的な問題意識を生々しく伺うことができる記事が散見されます。 安彦忠彦が寄せた痛烈な批判記事は、賛否はともかくとして、なかなか興味深く読めます。 批判的な吟味 そんなわけで文部科学省の言い分を確認してきましたが、本当にこの方針で大丈夫でしょうか? 教育原理的に考えてみましょう。 「社会」とは何か? 実はそもそも、「社会に開かれた教育課程」と言った場合の「社会」が具体的に何を意味するかは、学習指導要領や中教審答申では必ずしも明らかになっていません。 しかし全体的にOECDの議論を意識した記述を見る限り、そこでイメージされているのが「経済」を実体とした世の中であることは容易に想像できてしまいます。 あるいは、学習指導要領の言う「社会」とは、自由な権利の主体としての個人がつながる「市民社会」ではなく、生き馬の目をぬくような厳しい国際競争の場としての「知識基盤社会」を想定しているように思われてしまいます。 そもそも言葉の成り立ちから「社会」を考えた場合には、普通は自由な権利の主体としての個人が構成する「市民社会」というものを思い浮かべるはずです。 もちろん市民社会も経済を実体とする側面もありますが、もう一方では「自由な権利の主体」を構成要素とする側面もあります。 気になるのは、『学習指導要領』が経済的な生産や消費の主体としての資質・能力の育成に重点を置き、市民的な権利の主体としての資質・能力の育成にはさほど意を用いていないように見える点です。 もちろん学習指導要領が言う「批判的能力」や「コミュニケーション能力」が市民的な権利の主体としても重要な資質・能力であることに間違いはありませんが、明らかな事実としては、「権利」という言葉そのものが「社会に開かれた教育課程」との絡みではまったく打ち出されていません。 たとえば中教審答申では「権利」という言葉は5回出てきますが、そのうち4回は「障害者の権利」に絡み、残りの一つは「消費者の権利」に触れられるところです。 「社会に開かれた教育課程」に関わる記述では、一切触れられていません。 ここで言われている「社会」というものの本質が、ここに垣間見えるような気がします。 それは英語で言うsocietyとかassociationという概念とは、まったく別のものを指しているのではないでしょうか? それは「社会」という日本語の曖昧さを利用して、明確に定義もせずに、global marketとlocal communityの都合の良い側面を文脈によって使い分けているだけのものではないでしょうか? 学校選択制と「社会」 この観点から問題になるのは、これまで推進されてきた学区の弾力化や学校選択制という制度と、今回の「社会に開かれた教育課程」という概念との整合性です。 仮に学校を社会に開くとしても、その学校が「学区」に基づくものか、それとも「学校選択制」に基づくものかで、意味や機能がまったく異なってくるからです。 もしも「学区」に基づく学校であれば、それは地域内のあらゆる多様な住民を含むlocal community 社会 に位置付くものであり、その場合の「社会に開かれる」とはlocal communityに開かれることを示します。 一方「学校選択制」に基づく学校であれば、それは一定の価値観に従って集まった比較的一様な集団の利益を代表するassociation 社会 に奉仕するものであって、その場合の「社会に開かれる」とはassociationに開かれることを示します。 「社会に開かれる」と言っても、「学区」に基づく場合と「学校選択制」に基づく場合では、「社会」のイメージが大きく異なるわけです。 そして、これまで「学校選択制」が積極的に推進されてきたことを鑑みれば、実際に学校を社会に開いた場合、その「社会」とは地域共同体 local community ではなく利害を共有する結社 association である可能性が高くなるわけです。 「学区」による学校と「学校選択制」による学校で、「社会に開かれた教育課程」は変わるのか変わらないのか。 あるいはコミュニティ・スクールと学校選択制と「社会に開かれた教育課程」との関係はどのように構想されるのか。 地域に根付いた学校を目指すのか、利害で繋がった市場経済に奉仕する学校を目指すのか、文科省の狙いは明確には見えてこないところです。 むしろ「社会」という言葉の曖昧さを逆手にとって、都合のいいところだけ摘まみ食いしているようにすら感じます。 そしてその矛盾の行き着く先には、教育の市場化と公教育の崩壊が待っているかもしれません。 local communityの問題 また、global marketの弊害が広く認識される一方で、それと対立するlocal community 地域共同体 が問題を抱えていないわけではありません。 教育に限らず、実はlocal communityのほうが遙かに保守的で官僚的で人権侵害的である例はいくらでもあります。 local communityに財政的な裏付けを欠くために、教育水準が保障されない例だってあるでしょう 小泉改革が、義務教育費国家負担の割合を縮小させたことなどに留意。 小泉改革以後の地方分権化によって教育水準が低下したという指摘もあります 佐藤学「教師に対する管理と統制」『誰のための「教育再生」か』p. このようにlocal communityに問題がある場合、学校というものは社会から隔離され、一定程度の自律性を持って運営されることで意味を持つ場合もあるわけです。 しかし無条件に学校が「社会に開かれた」とき、学校は単にlocal communityの利害に取り込まれ、権力構造を再生産するだけに終わってしまうでしょう。 「学校を社会に開こう」と言いますが、もしも社会が酷いものだったら、むしろ学校は閉じていた方がいいのではないでしょうか。 global marketとlocal communityの間 だとすれば、教育や学校の在り方を考えるとき、global marketに振れるのでもなく、local communityに振れるのでもなく、まずは人々がより良く生きるための条件とは何かという視点が必要となってくるわけです。 その条件は、おそらく「共生」とか「公共性」という概念と結びついて浮上してくるはずです。 文部科学省が「社会に開かれた教育課程」と言うとき、そこで言われている「社会」というものに「共生」や「公共性」という概念がしっかり反映しているでしょうか。 このあたり、地方自治や地方分権や地方教育行政などの制度設計として具体的な焦点となるところであって、単にカリキュラムの問題ではすまないところではあります。 そういう矛盾に目をつぶって、単に「社会に開かれた教育課程」と唱えて学校だけに課題を押しつけるのでは、むしろ矛盾は拡大するだけに終わることが容易に想像できます。 地方自治のあり方を踏まえて、広い視野から教育と学校の未来を考えていかなければなりません。 この記事を読んだ人はこちらの記事も読んでいます• 簡単にまとめれば 学校にも民間企業の経営ノウハウを導入しましょう。 簡単にまとめれば テストのための勉強はくだらないので、ホンモノの力をつけてください、ということ。 そのために押さえるべきポイントは、 1 従来の「アクティブ・ラーニング」には、勘違いが多かった。 簡単にまとめれば 受験競争に特化した表面的な「知識・内容=コンテンツ」を身につけても、社会に出てからまったく役に立たないので、ホンモノの「資質・能力=コンピテンシー」を持った人材を育てましょう。 投稿ナビゲーション.

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