過ぎ たる は 及ば ざる が ごと し。 「過ぎたるは及ばざるが如し」の意味とは?例文や類義語も紹介

①過ぎたるは及ばざるがごとく、はこの世の希有な真理をついた格言で...

過ぎ たる は 及ば ざる が ごと し

どういうことわざ? 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」は なにごとも、やりすぎるのは やり足りないことと同じようによくない という意味です。 「なにごとも」というだけあって、 例はいくらでもありますね。 体に良いから牛乳を飲みすぎると、 お腹をこわす。 スポーツで練習をやりすぎると、 体調をくずしたりケガをする。 しつけのためとはいえ、 怒りすぎると子供が委縮する。 どれも ほどほどで止めれば 良いことで、必要なことなだけに どの程度でとどめるか 加減が難しいものでもあります。 つい調子に乗ってやりすぎないためにも 過ぎたるは猶及ばざるが如しの意味を 意識しておくといいでしょう。 「猶」ってどういう意味? よく耳にするのが 過ぎたるは及ばざるが如し、と 「猶」を飛ばしていうもの。 これでも意味は通じますし むしろこのほうがスッと理解できるのですが 過ぎたるは猶及ばざるが如し が正しい言い方になります。 なぜならば、このことわざ、 もとは中国の孔子という偉い人が 弟子に言った言葉です。 それで、論語という書物に 「過猶不及」と漢文で書かれたものが 日本に伝わったもの、 「過」が「過ぎたる」、 「猶」が「猶~如し」 「不及」が「及ばざる」 それで 過ぎたるは猶及ばざるが如し となります。 「猶(なお)」という漢字の意味ですが 「尚(なお)」とも書き、• 以前の状態が続いているありさま。 (例・今もなお元気で過ごしている)• さらに、もっと (例・君が助けてくれれば、なお有り難い) といった意味で使われますが、 そのほかに ~のようだ、~のごとし という意味もあります。 この場合、「猶~如し」と あとに「如し(ごとし)」をつけて使いますので 過ぎたるは猶及ばざるが如し となるのです。 普通はわざわざ漢字にせず 「なお」とひらがなにで書くか、 漢字にするにしても「尚」と書くのが一般的なので あんまり馴染みのない漢字ですね。 ことわざとしてでなく単純に日本語としてなら 「過ぎたるは及ばざるが如し」 と「猶」をつけなくても意味は通じます。 ただし、原文である漢文を考えると 「猶」をつけるのが 本来の言い方になります。 スポンサーリンク どういった場面で使うか 先ほど述べたように、このことわざは それこそあらゆる場面で大事なことでしょう。 もちろん根気がなくて何も続かない人や テスト前の勉強など、 頑張らなければいけない時もありますが それでもやりすぎて体調をくずしてしまうと 元も子もないです。 特に日本人は大勢で何かをやると ワーっと盛り上がって極端に走る傾向があるので 仕事や近所のグループ、学校の集まりの時に 過ぎたるは及ばざるが如し と心に留めておくのもいいでしょう。 また、何かをやりすぎるというだけでなく ・嘘は絶対にゆるさない ・自分が絶対に正しい など、 人の考え方そのものについても 極端すぎる考えはよくないので そういうことを戒める場合にも 使うことができます。 似た意味のことわざ 同じようなことを説いているものには• 薬も過ぎれば毒となる• 君子は何事においても中庸を旨とす• 凝っては思案に能(あた)わず• 凝っては思案に余る• 分別過ぐれば愚に返る• があります。 やりすぎるだけでなく、 考えすぎるのも、 かえってよくないということですね。 元をたどれば孔子の時代 つまり紀元前から言われていること そしてこれだけ同じような意味のことわざがある というところからも大事なこと、 そして 過ぎたるは及ばざるが如しで、はなく 本来は 過ぎたるは猶及ばざるが如し というのを覚えておくといいでしょう。

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及ばざるは過ぎたるより勝れり(徳川家康)

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「過ぎたるは及ばざるが如し」はどういう意味か 「過ぎたるは及ばざるが如し」の意味は「中庸が大切」 「過ぎたるは及ばざるが如し(すぎたるはおよばざるがごとし)」の言葉は、「ゆきすぎることは不足していることと同じようによくないことだ」という意味です。 つまり、「中庸(ちゅうよう)が大切である」ということを伝える教訓です。 「中庸」とは、「過不足なく偏りのないこと」という意味です。 「過ぎたるは及ばざるが如し」の使い方と例文 「過ぎたるは及ばざるが如し」の使い方 先に説明したように、「過ぎたるは及ばざるが如し」の背景に「中庸の徳」があると考えてみると、「過ぎたるは及ばざるが如し」は「行き過ぎは不足していることと同様によくないことだ。 行きすぎることなく、ちょうどよいところで自制して行動することが優れた人として大切だ」という意味が読み取れます。 しばしば「過ぎたるは及ばざるが如し」を「ことなかれ主義」や「ほどほどが良い」という消極的な意味で捉える例がありますが、本来の意味からは、ずれているといえるでしょう。 つまり、ゆきすぎることを自制する時にたとえとして使うのが本来の使い方といえます。 「過ぎたるは及ばざるが如し」の例文 ビジネスシーンを想定した例文を紹介します。 仕事をし過ぎて体を壊しそうな人に対して「過ぎたるは及ばざるが如しというから、仕事をコントロールすることも大切だ」とアドバイスする。 成績優秀な人が自分よりも仕事ができない人に厳しい態度を取った時に「過ぎたるは及ばざるが如しだから、気持ちを抑えることも大切だ」とアドバイスする。 議論が白熱し、相手をやりこめようとしている自分に気づいた時「過ぎたるは及ばざるが如し」と自分に言い聞かせて自制する。 部下を早く育てたいと思うあまり、つい過度な要求をしてしまう時「過ぎたるは及ばざるが如し」の気持ちに帰り、寛容を身につける。 「過ぎたるは及ばざるが如し」の語源 「過ぎたるは及ばざるが如し」の語源は中国語の「論語」 語源は全20篇となる中国の思想書である『論語』にあります。 「論語」とは、孔子の没後にその門人が孔子の言葉や行いを綴ったもので、処世や倫理に関する教訓が書かれています。 さきほど「過ぎたるは及ばざるが如し」の教訓は「中庸が大切である」ということだと説明しました。 「論語」では「中庸の徳」について「不足もなく、余分なところもなく、ちょうどよいところで行動できる人が人徳として最高である」と示しています。 「過ぎたるは及ばざるが如し」の原文は「過猶及不如」 「論語」の第十一編に「過猶及不如」の記述があり、その読み下し分が「過ぎたるは及ばざるが如し」となります。 これは、孔子が二人の門人を比較して、一人は度を過ぎていて、もう一人は基準に達していない、と言ったところ、門人がそれを受けて、それでは度を過ぎている者が優れているのか、と聞いた時の答えの部分です。 その答えは「度を過ぎるのは基準に達しないのと同じことだ」であったわけです。 「過ぎたるは及ばざるが如し」の全文は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」 さきほど「過猶及不如」の読み下し文として「過ぎたるは及ばざるが如し」だと紹介しましたが、正確には「過ぎたるは猶及ばざるが如し」であり、「猶」という字が入ります。 格言としては「過ぎたるは及ばざるが如し」の文言で伝わっているため、「猶」を入れずに用いても問題ありません。 また、「猶」は「あたかも~のようだ」という意味となるため、入れなくても意味は変わりません。 「過ぎたるは及ばざるが如し」の類義語 「過ぎたるは及ばざるが如し」の類語を紹介します。 及ばざるは過ぎたるよりまされり この言葉は徳川家康の遺訓として知られています。 「過ぎたるは及ばざるが如し」に解釈を加えたものとされ、「足りないほうが、やりすぎるよりも優れている」という意味です。 これは「人の一生は重荷を負いて遠き」ではじまり「及ばざるは過ぎたるよりまされり」で終わる「東照公御遺訓」という名前で伝えられている徳川家康の理念が書かれたものです。 勝つことばかりを知り、負けを知らないことは害になる。 人を責めてはいけない。 足りないほうが、やりすぎるよりも優れている。 という内容です。 まさに「過ぎたるは及ばざるが如し」を体現した理念だといえます。 薬も過ぎれば毒となる 「薬も過ぎれば毒となる」は、良いものであっても、度が過ぎればかえって害になるという意味の教訓で、出典はやはり「論語」です。 「過ぎたるは及ばざるが如し」の英語表現 「過ぎたるは及ばざるが如し」を表現する英語表現として、「ゆきすぎることなく中庸が大切だ」という意味を表す英語の言い方を紹介します。 Too much is as bad as too little. More than enough is too much. まとめ 「過ぎたるは及ばざるが如し」は「ゆきすぎることなく、中庸が大切だ」という意味の格言です。 つい、自分が正論と思うことを相手に押し付けたり、自分ができることは相手もできるはずだと人を責めたりしてしまいがちなのが私たち人間です。 「過ぎたるは及ばざるが如し」を教訓として、ゆきすぎを自制する強い意志を持ちたいものです。

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「度が過ぎる」とは?意味や使い方をご紹介

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真理をついた格言 少年老い易く学成り難し -------------------- 大変申し訳ありません質問者さま、入りきらなかったので補足用IDを使わせていただきます。 追記2 ええ、私も別にムチで打つという意味でいっているのではありません、あなたの例えと同じ文脈で説明しています。 fx9gpiさん、先ほどのリンク先をご覧くださればお分かりいただけると思うのですが、あなたのニートのイメージは偏見で大きく歪んでいます、とりあえず下の私の回答を参考にしてください。 結論から言えばニート問題は若者個人の内面の問題ではなく企業や国が若年層の採用を絞り続けてきたために起きた労働問題です。 >ぬるま湯の地に安住させることが良いはずはなく、その結果が日本の若者の劣化だと思います。 訂正してください、あなたの印象だけで決め付けてもいい問題ではありません。 先ほどのブログ記事には以下のような記述もあります。 「このような言説を振りかざすことによって、現実の青少年が不利益を被る、 中略 ということに関して、何らかの想像力は働いているのでしょうか。 」 一くくりに若者が劣化している、と語ることで現実の青少年が被る不利益にはどのようなものがあると思いますか? これは心理学の問題とも絡むのですが、人間には「確証バイアス」と呼ばれる思考傾向があり、自身の仮説 ここでの若者が劣化しているという考え に肯定的な情報ばかりが強く認知され、その仮説に否定的な情報、もしくはどうとでも解釈できそうな情報には注意が払われにくいという傾向があります。 つまりその様な風潮が蔓延することで主観的印象としてそれを支持する情報ばかりが目に付くことになるのです。 よろしいでしょうか? これが就職活動において彼らを苦しめる元になります。 大変驚いたのですが、民間や公務員試験では最近採用において「面接重視の傾向に拍車がかかってい」るそうです。 大賀英徳著『現職人事が書いた 面接試験・官庁訪問の本』 82頁 なぜ驚いたかと言えばこの面接試験、実は大変不正確なもので、筆記試験以上に大きな欠陥があるのです。 認知心理学者の市川伸一さんはこう仰っています。 「面接は、短い時間でそんなに細かいことが見られるわけではないし、面接官が思っているほど予測力が高いものではないわけです。 (中略)社会心理学の内容にもからむ話ですが、ほとんどの人は、「自分には人を見る目がある」と思い込んでいるのですね。 ある程度知的な人は、ますますそうでしょう。 「ちょっと見れば、どんな人であるか、どんな人になるか、高い確度で推測できる」と。 」 どういうことかおわかりでしょうか?大して予測力も高くない、正直ただの印象だけで決まってしまっている面接試験において、面接官がはじめから受験者に対して劣っているというステレオタイプ的な信念を持っていることがどれだけ怖ろしいことかわかりますか?簡単に言えば気に入らない言動ばかりが目に付くことになるのですよ、そしてその認知は回を重ねるごとに強化されていきます。 更に、面接試験の弊害はもう一つあります。 落とされるたびに全人格を否定されたような気分になることです、まして、この不況ですからそれが何十回と続きます。 落とされ続けて落ち込んでいるときにふと思うでしょう、もし就職できなかったらどうなるか? 我が国は既卒者や履歴書に空白のある人、職歴の無い人には門戸を開かない企業が多いです。 つまり現状より更に酷くなるということだけははっきりしているわけです。 それで心身ともに疲れ果て求職行動にうつれなくなってしまう人も少なからずいるでしょう、高学歴のニートが発生する理由はこれで説明がつくと思います。 どちらかと言えば内向的でプライドの高い人、まして私が上で述べたような一連の心理学の知識をお持ちの方ならなおさらでしょう。 プライドが高いが故に、自身の零落を認めず、はじめから就職など興味が無かったと嘯く人もいるかもしれませんね、これを「すっぱいぶどうの合理化」等といったりします。 以上よろしいでしょうか? 挫折は本当に個々人の内面の問題なのでしょうか? >現代の苦労を知らない子供たちは、すぐに挫折してしまいます。 これは今の中高年であれば現行の理不尽な採用試験においても挫折することは無いと証明できないかぎり、この言説はエビデンスに則った発言とはいえませんね。 もう一度言います、訂正してください。 そしてこのような言動が、若年層を更に精神的に追い詰めるものだということをぜひ知ってください。 真理をついた格言ですか。 『終わりよければ全てよし』 ------------ 下の方が恐ろしいことを仰っているので回答に参加させてください。 fx9gpiさん、具体的なエビデンスも提示せずに「現代の苦労を知らない子供たちは、すぐに挫折してしまいます。 」などと仰るのは止めていただきたい。 後藤さんの発言をお借りすれば、「少年による凶悪犯罪に関しまして、それが減少していることをご存知でしょうか。 」「若年層に関する経済格差や不平等に関する文献、資料に当たったのでしょうか。 」 どう思われます、低賃金かつ不安定、過酷まして将来性も無い、そのような仕事に耐えられずに、それを辞めてしまうことは本当に個々人の内面の問題なのでしょうか? 城繁幸著『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 』をぜひご一読ください。 更に付け加えると「ムチを打つことをやめれば子供がダメになる」は実証的には既に否定されています。 あなたはボードウィン大学のシャフナーの研究をご存知ですか? 人間は教育において叱ることは大変効果的だ、という信念を持っていることが多いとされています つまりアメよりムチの方が効果的だと思い込んでいることが多いです。 しかし、それらの信念は実際には誤っています。 つまり実際は逆で、教育においては叱ることよりも褒めることの方が良いと教育心理学の実験で明らかになっています。 ですが、なぜそのような誤った信念を多くの人間が持つようになるのかは長い間説明することが出来ませんでした。 それを実証的に示したのがシャフナーです。 では、ここでもう一つお聞きしますが、あなたは「平均への回帰」もしくは「回帰効果」という言葉をご存知ですか? ある測定値が、極端な値をとった場合は、次は平均値のほうへ戻る傾向があるということを意味します。 プロ野球等の「二年目のジンクス」はこれで説明が可能です、何となくお分かりいただけますか? ものすごく極端なことは二度も立て続けに起こる可能性は低いですよね? 本題に入りますが 子供を叱るのはどのような時でしょうか、子供が悪いことをしたときですよね。 褒めるのはその逆ですね、子供が良いことをしたときです。 普通の子供であれば良いことも悪いこともするでしょうから、回帰効果でいえば褒めるような状況の後は、叱らざるを得ない状況に出くわすことが多いのです。 つまり多くの親は「褒めた途端に悪くなった、叱った途端に良くなった」という具体的な体験を持つようになり、そこから上で述べたような誤った信念が構築されるようになってしまうと考えられます。 よろしいでしょうか? もう一度いいますが「ムチを打つことをやめれば子供がダメになる」という考えは教育心理学的には否定されています。 具体的な資料も提示せずに「現代の苦労を知らない子供たちは、すぐに挫折してしまいます。 」などと仰るのは止めてください。 この言い回しが気になりますね、あなたには個人に非があるか否かを問わず社会的な要因も考える、という視点が欠けているように思います。 >戦後の食糧難の時代、挫折した若者がいたでしょうか。 戦前の大不況の時代、自立できない若者が何十万人もいたでしょうか。 いなかったと仰りたいのでしょうか?そうなのであればそのソースを示すのはあなたです、立証責任を私に押し付けないで下さい。 まあ良いでしょう、以下のような言説があることをご存知でしたか? 「「ニート」と呼ばれる若者は、世間でイメージされているほど増えていないのです。 (中略)「ニート」のような若者は、ずっと前から日本社会の中に連綿と一定の人口規模で存在していました。 いつの時代でも、若者のすべてが働いていたわけではなく、仕事をしていない状態の若者が社会の中で生きていたのです。 」『「ニート」って言うな!』 第1部 本田由紀 23頁 これを読んでどう思われますか? 上の後藤さんのブログ記事にはこうあります 「景気回復・デフレ脱却こそが「ニート」問題の根本的な解決につながる、という経済学者の論説(注11)があることはご存知でしょうか。 」 と、いかがですか? 因みに劣化しているはずの若者による戦後の犯罪発生件数は年々減少しています。 親孝行も過ぎたるは及ばざるがごとしです。 親孝行し過ぎて親をうとましく思うようになってしまったら意味がありません。 それは揚げ足取りではないかと思うかもしれませんが、例えば、努力だって過ぎると害になります。 どんなに良いものでもし過ぎた方が良いということはないと言っているのですから、親孝行は例外だと言う方が揚げ足取りでしょう。 例外を考えるならば、「学ぶ」とかどうでしょうか。 これだって学び過ぎれば害があるとか言われそうですけどね。 要するに、「過ぎる(良くない場合)と及ばない(良くない場合)とは同じようなものだ」と言っているのですから、例外があると考える必要はないと思いますよ。 「カラスは黒い」に例外がないのと同じようなものです。 白いカラスだっていると反論することはできますが、定義の場合には例外が存在しなくてもいいのです。 例外が見つからなくても不思議に思う必要はないと思いますよ。 「かわいい子には旅をさせよ」ですね。 現代では一般的に親は子に苦労をさせないように考えますね。 でもこのことわざでは逆で、子供には苦労をさせよと言っているんです。 これは正しく、古来からの知恵だったんですね。 現代の苦労を知らない子供たちは、すぐに挫折してしまいます。 挫折しやすい子供たちを大量生産してしまったのが現代です。 親は子供たちに進んで苦労させることが必要だったんです。 成長期に苦労をさせないと精神的にも弱い大人になってしまうんですね。 アメリカにも「ムチを打つことをやめれば子供がダメになる」などという諺があるのですから。 子供のような成長期に苦労をさせなければいけないということを言っているのです。 なぜならば、苦労を体験しそれを乗り越えなければ成長はないからです。 苦労を乗り越えようとする力、乗り越えた後の達成感、そういうものが人間の成長に必要だという当たり前のことです。 ぬるま湯の地に安住させることが良いはずはなく、その結果が日本の若者の劣化だと思います。 ニートだけでも80万人という数字が何よりその証拠でしょう。 ーーーーーー ニートの存在まで社会のせいにするのでしょうか。 戦後の食糧難の時代、挫折した若者がいたでしょうか。 戦前の大不況の時代、自立できない若者が何十万人もいたでしょうか。 それより余程マシな現代という時代に自立できないというのは、個人が人間として成長しておらず、劣化しているとしか考えようがないでしょう。 ニート80万人を社会の責任にしてはいけません。 ニートの本質は自立できないという、社会的能力の欠如にあるのですから。

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