俺ガイル なぜ。 海外の反応「なぜ俺ガイルと氷菓は評価が高いバニーガール先輩のように人気がないの?」

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俺ガイル なぜ

言葉への批判意識 言葉一つじゃ足りねぇよ。 本音も建前も冗談も常套句も全部費やしたって、伝えきれる気がしない。 そんな単純な感情じゃない。 たった一言で伝えられる感情が含まれているのはまちがいない。 けれど、それを一つの枠に押し込めれば嘘になる。 (中略) こんな言葉でわかるわけない。 わからなくていい。 伝わらなくても構わない。 (渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 398より) この 言語への批判意識が、『俺ガイル』の 核心部分だと思います。 疑り深い人は 「言葉」の裏を読みたくなる。 すると人の心理が見えた気がして、その人を「知った」気になる。 そうして人を「知る」と今度は心理だけではなく感情が伝わってくる。 そうするともう「うわべ」だけでは我慢できない。 だからこの終わり方は、結果だけ見れば当然の帰結だとは思います。 しかしここまでの筆致で、リアルな等身大で、絶妙な「青春ラブコメ」を書いた作品が他にあったでしょうか? 私はないと思います。 だから私は『俺ガイル』が本当に素晴らしい作品だと思っています。 今読み終わったところなので、考えもまとまっておらず、一発書きなのですが、いまここで感じていることをメモさせてください。 「言葉」という殺害行為 言語化というのは、基本的に 殺害行為です。 ある感覚、ある感情を言葉にすると、 その感覚や感情はある意味死にます。 例えば、「犬のふわふわした温かみのある触感」と書いたとき、読み手はリアルな毛並みや体温を想像するでしょうが、そこにあった本当の犬の感触を言葉だけで完全に再現することはできません。 そのように、 本当にそこにあったはずのリアルな「感覚」というのは、言葉で完全に再現することは不可能です。 だから言葉はその意味で 「殺害行為」だと言えます。 他にも例えば、「彼と彼女は恋人だ」と言えば、聞き手は各々の想像する 「恋人」という概念にその二人をおしこめるでしょう。 「恋人」は「普通」デートをするとか、キスをするとか、そういう 「恋人」という言葉の枠に二人を当てはめようとするでしょう。 でも、実際には二人はもっと特殊な関係かもしれません。 「普通の恋人たち」のようにデートはしないかもしれない、キスもしないかもしれない、傍から見れば仲が悪く見えるかもしれない…… そういう独自の関係性は、「恋人」という言葉に押し込めた途端に捨象されてしまいます。 関係を名付けてほしくなかった だから、『俺ガイル』では「普通に」告白してほしくなかった。 「普通の恋人」になってほしくなかった。 なぜなら、 『俺ガイル』で求められている「本物」というものは、言葉にできない関係性、言葉にしがたい関係性だと思っていたからです。 端的に言えば、いわゆる「誰々エンド」というのは 全くナンセンスだということです。 なぜなら「誰々エンド」という言葉で語れるくらいの関係が 「本物」のはずないからです。 八幡は絶対にそんな関係を選び取らないからです。 実際、彼らが得た関係はそんな 既存の言葉に簡単に当てはめることのできないものでした。 その証拠として、例えば一色に「お二人はどういう関係になるんですか」と聞かれたときに、「どう、なるんですかね……」、「こういうのは説明が難しいのだけれど……」と 雪乃と八幡が逡巡している場面が挙げられます。 これは照れ隠しなどでは決してなく、 言葉で説明できない関係性だということを2人も自覚していたからだと考えられます。 また、嬉しかったのは 由比ヶ浜もそのような2人の言葉にならない絶妙な関係を察知していたという点です。 由比ヶ浜はラストで「あたしの好きなひとにね、彼女 みたいな感じの人がいるんだけど」と、 「みたいな」と言っていて、彼らの関係が はっきりと「彼女」という言葉にできるものではないと察していると考えられます。 以上のように、 言葉に批判意識をもちながら、言葉にならない関係性を、「本物」を、彼ら彼女らが求めていたということを確認できた点が、最終巻で本当に良かったと思える点でした。 『俺ガイル』は共同体論である 私は『俺ガイル』は 共同体論だと思います。 人と人がどれほどの関係を結べるか、どこまで深く付き合えるか、人と人との間にどれほどの可能性があるのか、それを真摯に探究したのが『俺ガイル』だと思います。 だから、彼ら彼女らが最後まで彼らなりの「本物」を求めていたことが、私にとっては救いでした。 その点で、最終巻は本当に良かったです。 「舞台装置」? それに加えて良かったと思ったのは、陽乃の扱いです。 『俺ガイル』でずっとネックだな、と思っていたのは陽乃の扱いでした。 彼女だけが少し浮いていて、彼女だけがずっと 舞台装置っぽいなという感じがしていたからです。 「舞台装置」というのは、 陽乃が作品の都合のいいように「アンチテーゼ」として利用されていた感が大きかったということです。 しかしそれも最終巻を読み、さらに考察を深めていくことで かなり解消されたように思いました。 人間味のある陽乃 というのは、最終巻ではとくに陽乃が舞台装置ではなく、 一人の人間として機能していたと思ったからです。 「ちゃんと決着つけないと、ずっと燻るよ。 いつまでたっても終わらない。 わたしが二十年そうやって騙し騙しやってきたからよくわかる……。 そんな偽物みたいな人生を生きてきたの」 (渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 289より) このあたりに陽乃の 人間味が垣間見えていました。 しかし単純に人間味のあるところが描かれたから良かったというわけでもなく、むしろこれで、陽乃の 人間としての「底」がある程度見えてしまったという感じがしなくもありません。 というのは、これだけだと陽乃が 「うわべ」の代表格、あるいは 捻じ曲がったシスコンというふうに読めなくもないからです。 陽乃=「うわべ」の代表・捻じ曲がったシスコン 1. 「うわべ」の代表 「うわべ」の代表格というのは、 『俺ガイル』において陽乃は強化外骨格みたいな「うわべ」を駆使して、「うまくやって」生きてきた人間の代表として描かれているということです(ただもちろん彼女には「裏の顔」もあってそれゆえに彼女は苦悩しているわけですが)。 陽乃は父親の仕事を手伝う過程で、 「うわべ」をうまく使って人と良好な関係を結び、また、その 「うわべ」によって何でもできる「雪ノ下陽乃」像を構築してきたのだと考えられます。 ここにひとつ陽乃の 「底」があります。 つまり、陽乃がそうした「うわべ」だけで生きてきた人間なら、彼女は ある意味で「偽物」の人生を歩んできたわけで、そういう意味で、 陽乃は八幡の言う「本物」に近いものにすら触れたことがないと考えられるからです。 <追記 2020. 14> しかしむしろここに陽乃が「本物」を求める理由があるわけで、このことによって陽乃はより舞台装置ではなく一人の人間として描かれていると今では考えています(詳しくは参照)。 捻じ曲がったシスコン 「捻じ曲がったシスコン」というのは、陽乃が雪乃のためにわざと嫌がるような行動をとり続けているという読み(解釈)のことです。 この解釈では、陽乃には、自分の通る道を綺麗にたどる雪乃を本当にかわいいと思いながらも、 彼女に違う道を歩んでほしいという願いがあった、と読むことができます。 あるいは、「うわべ」の人生しか選べない自分を自己批判し、 それとは違う「本物」を彼女も求めていて、その「本物」の夢を雪乃に託したと読むこともできます。 どちらかというと個人的には、 陽乃も「本物」を心の底で求めていた、そしてその実現を雪乃に託したという読みの方がしっくりくる気がします。 <追記2020. 14> 陽乃の雪乃に対する感情はそんな生半可なものではないように今では思います。 なぜなら陽乃は雪乃に「偽物」の人生を突き付けられると同時に、 いわば自分の人生をまるごと否定されたようなものだからです。 だからここの読みは甘いと今は思います。 これについては追い追いアニメ俺ガイル完の考察とともに記事にするつもりです。 「雪ノ下雪乃の救済」というテーマ 雪ノ下雪乃の救済というのが後期『俺ガイル』のテーマでした。 「救済」というのは、9巻で 「いつか、私を助けてね」という雪乃のセリフに起因しています。 「いつか、私を助けてね」とはどういうことか そもそも「助けて」とはどういうことかというと、 依存してしまう自立できない私を助けてねということです(もちろん助けを他者に求めてしまう時点でむしろ依存しているわけですが)。 雪乃が依存体質であることは13巻でも陽乃から指摘がありましたが、1巻から雪乃はそのような面を見せていました。 というより、それこそが 雪乃が奉仕部を創った理由だと考えられます。 雪乃が奉仕部を創った理由 そもそもなんで雪乃が奉仕部を創ったかというと、 依存せず自立したいからだと考えられます。 ただそれはいわば隠された理由(はっきりと書かれてはいない理由)であって、彼女が言葉で言っている理由は違います。 彼女が口で言っていた理由は、「持っているもの」が損をする世界はおかしいから、 「変えるのよ、人ごと、この世界を」というものでした。 ではどういうふうに変えるかというと、 魚の獲り方が分からない人=自立できていない人に、 「魚の獲り方を教える」というやり方で「自立」をうながすのでした。 つまりみんなが 「自立」して、皆が 「持っているもの」に近くなる世界を目指していたわけです。 「持っていない」 ただそれは、 雪乃がある意味で「持っていない」ことの裏返しだと考えられます。 たしかに雪乃は何でもできます。 勉強もスポーツも、容姿も端麗。 そういう意味では「持っている」人間です。 しかし、それは 「依存」の延長線上として得てきたものです。 というのはそれらは 誰かに与えられたものを完璧にやり遂げて得たものにすぎないからです。 では誰が救われたかったのか この点で雪乃は「自立」できていないと言えます。 しかしだからこそ雪乃は奉仕部を立ち上げたと考えられます。 すなわち、雪乃は誰かから与えられたことを完璧にこなすのではなく、 自分から主体的に何かを成し遂げる経験をするために奉仕部を立ち上げたと考えられるのです。 したがって、 人に「自立」をうながしながら、本当に「自立」したかったのは雪乃の方だったのではないでしょうか。 人に救いの手を差し伸べておきながら、本当に救われたかったのは雪乃自身だったのではないでしょうか。 「別のものが欲しかった」 おそらく、生まれてからずっとなんでも完璧にこなしてきた雪乃は、それでも常に自分の上をいって何でもそつなくこなす 陽乃に コンプレックスを抱いていたのでしょう。 というよりも、 陽乃に自分のアイデンティティを奪われてきた(消されてきた)という言い方の方が正確かもしれません。 完璧にやる陽乃がいる、親から必要とされているのは陽乃だ、では自分(雪乃)の居場所はどこにあるのか……と、雪乃はそう考えていたのではないでしょうか。 そうして彼女は 「なんで私はそれを持っていないんだろうって、持っていない自分に失望」した。 だから、「別のものが欲しかった」。 そして雪乃は奉仕部を創った。 姉が持っておらず、自分だけが持っている、 雪乃自身のアイデンティティ、それが 奉仕部だったのではないでしょうか。 そのように奉仕部は、 雪乃が自立してできるのだということを示す証のようなものだったと考えられます。 救済は果たされたか? だから、 雪乃が最後に救済されるのか? ということが『俺ガイル』の1つの大きなテーマでした。 雪ノ下雪乃は「自立」という奉仕部設立当初の目的を達成出来たのか、それが1つの大きなテーマだったわけです。 では14巻で雪乃は「救われた」でしょうか? 私は 救われたと思います。 というのは、 雪乃は彼女の意志で父親の仕事を手伝いたいということを伝えたし、また、 八幡を選ぶという選択もしたからです。 父親の仕事を手伝うというのは、一見陽乃の後追いのようにも思えますが、これは 雪乃の意志だと解釈してよいのではないでしょうか。 というのは別に誰にそうなれと言われたのでもなく、彼女自身が言ったことだからです。 それよりも、「わからない」といっていた雪乃が八幡を自分で選択し、そのことを由比ヶ浜にきちんと自ら打ち明けたことは、 明確な「自立」(誰から与えられたわけでない主体的な選択)と言ってもよいのではないでしょうか。 これも一見すると、雪乃が八幡への依存を深めたように見えるのですが、「ちゃんと言うわ」と自ら気持ちを口にする選択は、依存ではないでしょう。 以上のことから、雪ノ下雪乃の救済という大きなテーマは果たされたと、今のところ私は考えています。 <追記>ここの読みは甘かったと思います。 雪乃は一時的に「救われた」に過ぎないというのが今の読みです。 <追記2019. 26>俺ガイルの結末にある意味絶望している話 わけあって、俺ガイルの結末に絶望しています。 詳しくは以下のツイートをご覧ください。 相変わらず俺ガイルの感想を見たり聞いたりしているのですが、14巻で八幡が本物を見つけたという解釈は、私の解釈から言うと絶対に違うのではないかなと思いました。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail 私は「本物」は、そこに究極的に近づくことはできても原理的には到達不可能なものだと思っていて、八幡が最後にたどり着いた雪乃との関係性は、あくまで「本物」までの一過程にすぎないと考えています。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail 何も言わなくても分かり合える、その関係性の一形態として、八幡は雪乃の人生を歪める許可をとろうとした。 人生を分け合った。 でもそれはそれでしかなくて、それが「本物」の到達ではない。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail 大事なのはむしろその後で、その人生を分け合った関係性で、果たして「本物」に近づけるのかということ。 場合によってはその関係性は、人生を歪められた挙句他者に依存してしまう、まさに「共依存」のような関係へと堕ちてしまうこともあるだろう。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail そしてもちろん場合によってはうまく関係を構築して、「本物」に近づくこともできるだろう。 でも問題は、その「うまく関係を構築する」というのはどういうことかということ。 「本物」に近づくには果たしてどういう関係をもてばいいのかということ。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail ここに、私にはある種の絶望があって、「本物」を担保するものなんてあるのか、ひいては「本物なんてあるのだろうか……?」という疑問にたち戻らざるを得なくなった。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail 「本物」なんて、あるのだろうか。 — 才華 俺ガイル zaikakotoregail まとめると八幡たちは「本物」に到達したわけではなく、その途上であるということに気が付いたので、そこにある種の絶望があるという話なのです。 しかしその経過が見事なのであって、またその経過自体を「青春」と名付けることもできるでしょう。 問題はやはりでは「本物」を求めた先に、14巻で八幡と雪乃がたどり着いたその先に何があるのかということです。 例えば人は「恋人」のように親密になっていろいろなことを知った後に互いを嫌いになるということもあるわけで、もちろん八幡と雪乃は「恋人」ではないのですが、では彼らが結んだある種の関係の先にももっと多くの困難が横たわっているのではないかということは思わざるを得ないということです。 終わりの始まり もしも言葉がなかったら、私たちはどういう存在になっているのだろうか。 言葉のおかげで私たちは、現にあるような存在になっている。 言葉だけが、限界で、もはや言葉が通用しなくなる至高の瞬間を明示するのである。 (ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』酒井健 訳 ちくま学芸文庫,2004 p. 470) いささか大げさかもしれませんが、『俺ガイル』はこれに非常に近いところまでいったと思います。 言葉は無力です。 言葉には限界があります。 しかし 言葉はそれが表現しようとするところに究極まで近づき、その当のものを指し示すことができます。 そこに言葉の力があります。 『俺ガイル』が「本物」という言葉で語ろうとしていたことは、そのようなものなのではないでしょうか。 <追記> 後から見返すとかなり甘いところもあったように思います。 甘いところはアニメ3期1話ごとに考察を書きながら、さらに深く考えていきたいと思います。 <俺ガイルの記事一覧> ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・.

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俺ガイル なぜ

なぜ「やはり俺の青春ラブこめはまちがっている」と「氷菓」は「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」のように人気がないのかが話題になっていたので紹介します。 でも正直、俺ガイルと氷菓のように好きになれない。 たぶん俺ガイルと氷菓はこのジャンルにスマートなアプローチをしているからだろうね。 みんなバニーガール先輩を俺ガイルと物語シリーズと比較するよね。 でも僕はバニーガール先輩はドラマチックだけど物語シリーズのような素晴らしいセリフは欠けていたし、俺ガイルのような奇抜なアイデアもかけていたと思う。。 これらが全部僕の主観的な意見だと分かっているから、他の人の意見を知りたい。 良い一日を。 まぁ僕からすると時間の経過と回の数が重要かな。 今の時点ではバニーガール先輩1期はしかない。 いつか2期が封切られるかもしれない。 そうすれば1期の格付けも弱くなり落ちるかもしれない。 それと現在放映されている新しいシリーズは確実にテンションが上がる。 ネットでも人気がでるだろう。 でも酷い2期で作品を台無しにした。 氷菓はゆっくり流れる学校の探偵物語。 追伸 千反田はマジでうざい。 何らかの安心を得たいなら俺ガイルと氷菓を評価するよ。 それとほとんどの人は千反田が好き。 スコアで言うなら — 俺ガイル2期を観る人は少なかった。 (たぶん1期に低い点数を付けた人が2期を観るのをやめて点数を付けなかったんだろう) 千反田は多くの人が嫌っている… 彼女のファンを含めてね。 次に氷菓でバニーガール先輩。 問題はバニーガール先輩は宣伝が過大だということだね。 2話で切ったから理由はわからないけどね。 たぶん物語シリーズに似ていたからかも。 俺ガイルも混ざっているよね。 全部好きというよりバニーガールより俺ガイルと氷菓が好き。 アニメはそんなによくない。 第3話が原因だったと思う。 いろいろと急ぎすぎたね。 氷菓と俺ガイルは明らかにバニーガールよりいい。 俺ガイルの最大の問題はシーズン2。 氷菓は流れが遅すぎる。 俺ガイルは他の二作品より多くの人が観てた。 人気もあったけどね。 まだ新しいから単純に話し合いたいだけ。 内容が良いとか暗黙の了解があるとかではない。 あと氷菓の12話は11人いるを参考にしていてこれらの3作品の中では一番いいと思う。 これが現在の議論であればだけど。 実際に他の面白いキャラクターや出来事には勝てないけど。 見ていて嬉しかった。 氷菓は完全にこれらとは違う。 でもバニーガール先輩はテンション上がる。 それでも価値あるとはまったく思わない。 だから今は観るのやめておく。 それでも評価に基づいて賛成はできない。 話を聞いた人たちは俺ガイルの2期は好きだよ。 それでいいんじゃない。 評価された数字を見てごらん。 他の二つより俺ガイルははるかにいい。 氷菓は非常につまらない。 人気が高いアニメの評価が時々低かったりする。 もしバニーガール先輩のアニメリストのユーザーが増えれば高めに評価されるだろうね。 絵はすごく良かった。 でもペンキが乾くのを見物するぐらいつまらなかった。 俺ガイルは見たことないけどバニーガール先輩は楽しめた。 好みが違うけどね。 何年か前はね。 まだ人気はあるけどバニーガール先輩ほどではない。 もし格付けをするんなら:1. 俺ガイル 2. バニーガール先輩 3. でも氷菓はつまらないし時間の無駄。 死ぬほどつまらなかった。 高い評価を得るアニメに値しない。 あえて言うなら過大評価だよ。 バニーガール先輩は見終わっていない。 人によっては氷菓がつまらないと言うよね。 だから好きなんだよ。 現実的だから、それだけ。 こんなに現実的なアニメはないしね。 日常生活やキャラクターの性格も。 バニーガール先輩は10点中5点.. ストーリーはは俺ガイルより氷菓の方がいい。 最も変わったミステリーの一つ。 文字通り何も起きていない。 だから僕は他と作品と比較はしないよ。 でもみんなの意見に同感だね。 氷菓のミステリーはつまらないし、見当違い。 そうじゃなければ悪くなることはなかった。 ロマンスはほとんど存在しないしキャラクターはクソだ。 千反田と折木はうざいし他の二人はただ的外れ。 驚くほど何も起こらない。 世界は危険じゃないし、死人もでない。 ほとんどの人がまったく気にしない。 少なくとも周りにミステリーがある。 それはものすごく強いメッセージだと思う… 君は氷菓はユニークじゃないとも言ったね.. あとほとんどのアニメはある一定の時期を越えると人気が落ちる。 俺ガイル2期の印象は中二病過ぎだったけどかなり頑張ったほうだよ。 氷菓は良かったけどバニーガール先輩のキャラクター同士のやり取りが高く評価された。 取り扱い方がわかってきたけどね。 大抵、過剰に評価する人たちはリア充だよ。 みんなが見るようなアニメではないけど悪くない。 一方ではバニーガール先輩は時間に余裕がなかった。 カバーする話がたくさんあった。 バニーガール先輩は素晴らしい。 でも氷菓は話が進むと素晴らしくなるよ。 比較する価値もないよ。 バニーガール先輩の二人のロマンスが好きだった。 すごく自然で楽しい。 古い流れもあるけど興味をそそられる。 1,063• 247• 221• 457• 2,227• 572• 560• 421• 182• 250• 105• 102• 1,169• 548•

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なぜはがないは俺ガイルに完全敗北してしもうたのか

俺ガイル なぜ

俺ガイルの方はかなり強引な感じですよね(笑) でも現在圧倒的に浸透し、公式でも使用されているのは「」の方になってます。 ラノベ界では「俺~」と略す作品が多い 俺ガイルが浸透した理由の1つとして、ラノベ界では「俺~」と略す作品が多いんです。 例えば、• そういった習慣みたいなものもあって、現在圧倒的に浸透しているのは、「俺ガイル」の方になっているんですね。 逆に「はまち」は全然浸透してないです。 (多分はまちと言ってもどの作品のことが通じないレベル) 2ch用語のガイル(ストリートファイター)からも来ていた? また、俺ガイルの「がいる」がわざわざカタカナになってますよね。 原文では平仮名なのに。 これは2ch用語で馴染みのある単語だった、ストリートファイターのガイルというキャラクターから来ているんです。 以下は「俺ガイル」が略称として公募された時の、渡先生のコメントです。 略称公募(nagamatsu様) 「 俺がいる」 渡先生:俺ガイル、ですね。 略称公募(橘公司様) 「 俺のラブはガイル。 」 渡先生:どんだけガイル好きだよ 出典 なんか渡先生もこのスラング知ってるっぽいですね。 わざとカタカナでコメント返してますし。 ちなみにガイルってのはこういうキャラクターです。 画像出典 かなり特徴的なキャラクターですよね。 このキャラが2chではネタにされることも多く、「俺ガイル」というスラングが使われていたんです。 使用例:この略称はちょっと強引すぎると思っている 俺ガイル (意味:俺はこの略称はちょっと強引すぎると思っている) このスラングがネットで元々浸透していたことも、「はまち」よりも「俺ガイル」の方が急速に浸透していった理由の1つなんですね。 原作者・渡航先生はどの略称でもOKとのスタンス 渡先生は結局どの略称でも、気に入ったのを使っていいよ、というスタンスのようです。 はまち、が今のところ一番数は多かったですね。 しかしながら続く俺ガイル派の追い上げもなかなかに強く、逆にシンプル型もやはり根強い人気の様子。 かたや個人のセンスを光らせる切れ味の鋭いものも多数。 ここで何が一つに絞ってしまうのもなんだかもったいない気がします。 なので、結論をだすのはもう少し先にしようと思いました。 本来、略称や愛称と言うのは皆さん個人個人がベストなものを使っていくのが一番だと思います。 なので、仮に公式に何かしら決まったとしても何と呼んでいただくかは皆様にお任せいたします。 ファイナルファンタジーをFFと言おうがファイファンと言おうがナルタジと言おうがかまわないのと同じです。 とりあえず、ぼくは「はまち」を中心に「俺ガイル」と呼んだり「俺まち」と呼んだり「おコメ」とか「やおい」とか「はがない」とか「俺修羅」とかその都度その都度適当に使っていこうと思います。 みんなも一番お気に入りの略称で呼ぶといいよ! 出典 なんかコメントの中に「はがない」とか「俺修羅」とか他作品の略称も混じっているのは、渡先生のジョークですね(笑) 結局は自分がピンと来る略称をみんなに使って欲しいというご意向のようです! でも一応公式ツイッターでもハッシュタグとして使われているほど浸透しているのは「俺ガイル」なので、伝わるように略す時はやはり俺ガイルですかね~。 まとめ 今回は「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 」の略称がなぜ「俺ガイル」なのか?についてまとめてみました。 ラノベ界では「俺~」と略す作品が多い• 2ch用語のガイル(ストリートファイター)からも来ていた• 原作者の渡先生は特にこだわりはない模様 「」がしっくり来ていなかった方の参考になれば幸いです~。 ちなみに「」のタイトルの意味についてはで解説してるので合わせて読んでみて下さい。

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