本草学 者 ミイラ。 【企画展】『ミイラ「永遠の命」を求めて(上野科学博物館)を鑑賞。肉体だけ残ることは?

恐いけど神秘的!「ミイラ展」に行ってきました|感想・混雑・所要時間・グッズ

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特別展ミイラ|感想・混雑・グッズなど 『特別展ミイラ』感想 さまざまな地域のミイラ ミイラといえば古代エジプトのイメージがつよいですが、この展覧会ではそれだけではありません。 南北アメリカのインカ帝国、ヨーロッパ、オセアニアまで、 世界各国から43体のミイラを一度に見ることができます。 エジプトでは、死後の世界で神に裁かれるため心臓だけはミイラの中に残していました。 大切に布にくるんだり、欠損を修復してあげる地域もあります。 亡くなった家族のミイラが、残された者を見守ってくれると考えている民族がいます。 地域によって「死」や「死後の世界」のとらえ方が違うので、埋葬方法にもそれぞれに個性がありました。 死生観の違いを目の当たりにしました。 〈自らの意思でミイラとなったミイラ〉にお会いしました。 日本にミイラがいたことも知らなかった私にとっては、かなりの衝撃でした。 学問的な探求心から、計画的にミイラとなった《 本草学者のミイラ》は 自分が死んだあと掘り返してみよとの遺言を残したそうで、 現代のCTスキャンで調査した結果、 ミイラになるために「柿の種」を大量に摂取していたことがわかっています。 こわいのが苦手でもミイラ展に行ける? 無理はしなくていいと思いますが、小学生やそれよりも小さなお子様たちもたくさん見にきていました。 積極的にガラスに張り付いて鑑賞していましたね。 一方で、気分が悪くなってしまったのか、途中でしゃがみこまれている女性もいらっしゃいました。 ミイラは 間近にお顔が見られるものから 布にくるまれているものまで様々あり、布の茶色い感じだけでも、苦手な方はいるだろうと思います。 私はこれが大昔に本当に生きていた人間なのだと思うと、 どうしても惹きつけられる神秘的なものを感じました。 見にいって良かったと思っています。 混雑状況 公式Twitter()で確認できます。 私が行った日はチケット売り場では並びませんでしたが、休日だったこともあり、館内は大変混雑していました。 でも、にぎやかな方が、ミイラと1対1で対面するより心強い気もします。 親子で観にきている人たちが多くて意外でした。 お子様も楽しめるように、子ども向けの解説もありました。 音声ガイドはクイズが楽しめる仕様です。 グッズ とてもかわいらしいものが多かったです。 展覧会グッズでは定番のポストカードはありませんでした。 後から見返したい方には図録があります。 グッズ売り場の出口付近にはガチャガチャも。 ミイラ研究はなんのため? 研究者の探求心と未来を信じる力はすさまじいなと思います。 最近では、脳の冷凍保存で将来の電脳化に備えるといったサービスも出てきました。 遠い昔に亡くなった人の「姿」が果てしない時を経ても残っている不思議。 ミイラ研究も、生命の可能性を広げる何かを秘めているのかもしれません。 開催情報 展示情報 展覧会名 特別展「ミイラ」永遠の命を求めて 公式HP 会期 2019年11月2日(土)〜2020年2月24日(月・休) 会場 国立科学博物館(上野) チケット 一般 1,700円 ミイラ展の半券で、「」と「ゴッホ展」が割引に! 所要時間 1時間半程度 混雑(休日) 館内は混雑かも、親子が多い 音声ガイド 大沢たかお さん やわらかいお声に癒されます。 ミイラ展の衝撃を和らげてくれること間違いなし。 しばらくぼーっと眺めてから、上野公園をお散歩して帰ると気持ちいいですよ。 昨日は に初めて行ったのですがこの子に会いました。 シロナガスクジラ。 上野にこんな子いたの何回も行ってるのに知らなかった。 昨日のミイラ展で、美術館だけでなく博物館の楽しさにも目覚めてしまい、守備範囲が広くなってしまいました。

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【上野ミイラ展】展示を観た感想と、写真でミイラを少しだけご紹介

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ミイラ展に行ってきました。 ミイラとはいえ 人間の遺体ということで、展示は全て撮影不可です。 なので、画像はほとんどありません。 その代わりに、大沢たかお氏による音声ガイドや文献資料をメモってきましたので、ミイラに関する知識を少しご提供。 ミイラ展とは ミイラ展は、2019年11月2日~2020年2月24日まで上野にある国立科学博物館で開催されている企画展です。 見どころは、世界各地から集められた本物のミイラ43体。 様々な人生を送り、死して尚、当時の時代を雄弁に語る無言の死体。 そんな展示です(たぶん)。 ミイラの名産地・エジプト ミイラには人工ミイラと天然ミイラがあります。 そもそもミイラとは、長時間朽ちることなく人の形を維持しているものであり、白骨化とは区分されているようです(正確な定義はよく分からぬ)。 そんなミイラですが、イメージするのはやはりエジプトでしょうか。 その他、南米インカ帝国もミイラの名産地だったそうです。 エジプトでは(諸説ありますが)1億5000万人がミイラ化したという調査もあるそうです。 今の日本人が全員ミイラ化するようなものですね。 ミイラの作り方(エジプト式) 少しグロい表現があるかもしれませんのでご注意。 アヌビス神の被り物をします。 死後数日の死体を用意します。 内臓を取り除きます。 肝臓、胃、腸、肺は特別な部位として、特定の壺に格納します。 脳みそは鼻の穴から棒でひっかきだして、そのまま捨てます(当時は脳は重要視されていなかったので)。 心臓はあの世の「死者の審判」で使うので、そのまま残されます。 水で洗ったあと、塩などをまぶして水分を吸い取ります。 それを二度繰り返した後、香油を塗り、最後に包帯を巻いて完成です。 ここまで70日間くらいかかっています。 こんな感じの説明が、アニメーションで流されていました。 これで皆さんもミイラづくりができますね(犯罪教唆になるのか?)。 古代エジプトでは死んだ人の魂(=バー)は鳥の形をして帰ってくるので、その器として体が必要=ミイラを作っていたそうです。 なお、それは人間に限らず、猫やハヤブサなどもミイラにしていました。 (実際に展示もアリ) 特にネコはバステト神とも重なり、ネコのための神殿や、盾にネコの絵を描いて攻撃されないようにしたなど、様々なネコ好き逸話が遺されています。 インカ帝国とミイラ インカ帝国といえばマチュピチュで有名な、14~16世紀頃まで南米にあった巨大国家です。 ここでもミイラ作りが盛んであり、特徴としては、内臓を抜いた後に土を詰めていたそうです。 インカ帝国では、子どもは神に捧げる人身御供として、ミイラ化させて献上していたそうです。 ですので、大人よりも子どものミイラも数多く出土しています。 ただ、ミイラは乾燥したり骨を抜いたりするので、普通の子どもよりも更にこじんまりとしています。 なお犠牲になった子どもですが、献上される1年前から、アルコールやコカの葉っぱなど幻覚剤も与えていたとか… ヨーロッパのミイラ ヨーロッパではミイラ文化はあまりなかったようです。 むしろキリスト教が広まっていくと、エジプトのミイラ作りも禁止するなど、ミイラ作りという点ではマイナス方向に向かっていました。 ただ気候的には低温低湿な場所もあり、天然のミイラも発見されています。 有名なのは「アイスマン」と呼ばれるミイラです。 今回のミイラ展のポスターになっている二人は、オランダで発見されています。 ウェーリンゲメンと呼ばれる彼らですが、沼地から発見されました。 骨まで溶けていて、皮だけ残ったミイラだそうです。 男女ペア説もありましたが、最近の調査では男性二人、しかも殺害された二人のようです。 どんなドラマがあったんですかね。 パプアニューギニアのミイラ パプアニューギニアのアンガという地域では、ミイラがより身近なものでした。 村民が亡くなると、椅子に縛り付けて3か月間、煙でいぶし続けます。 そうすると、高温多湿なミイラ作りに向かないパプアニューギニアでもミイラが作れます。 できたミイラは集落を見下ろせる場所に設置されます。 ここはナショナルジオグラフィックの映像で、ミイラ作りの様子もはっきりと残されていました。 中国と日本のミイラ 意外というか、中国にはほぼミイラがないそうです。 ただ、死後も肉体を残すことを目指し、「金ナントカ」(メモし忘れ)という金属でできたフルアーマーを遺体に着せて、腐敗から逃れようとはしたようです。 日本には、人工ミイラ約20体、天然ミイラ約20体が現存しているそうです。 うち4体が展示されていました。 これがインパクト強め。 まず2体は江戸時代の兄弟のミイラだそうですが、これは自然のモノ。 一体は、江戸時代末期の本草学者。 本草学者とは、草や木、動物などから薬品を研究する学者だそうですが、この人は死後の肉体保存について研究する人です。 そして遺言として「機会があったら掘り出してみろ」と言い残して死んでいったそうですが、昭和になって子孫が掘り返してみたら、本当にミイラ化していました。 胃腸を調べたところ柿の種(植物の方)を大量に摂取していたそうです。 タンニンが豊富な柿の種によって、死体の防腐効果があったとされています。 ミイラになりたい人は、柿を食べてお茶を飲みましょう。 そしてもう一体が、弘智法印・宥貞(こうちほういん・ゆうてい)という僧。 90歳を超えた後、修行の完成として「即身仏」になるべく、自らミイラ化しました。 徐々に食事を減らして水分も摂らなくなり、最終的には箱(?)の中に入って、鈴を鳴らし続けます。 鈴が鳴りやんだときは死亡…ではなく、「永遠の瞑想=入定」という状態だそうな。 17世紀頃の方だそうですが、民の幸福を願って過酷な修行に入るという姿勢は凄いですね。 現在は、福島県浅川町の貫秀寺というところにありますが、今回は運んできて展示されています。 ミイラ展・感想まとめ 精神と肉体、生物学的に言えば脳と肉体ですが、脳が死んで肉体だけ残ることに、個人的にはあまり意味を感じません。 私は精神の死が「人間の死」であり、あとは微生物がばらしてくれるか、火で燃やすかというだけで、死後の世界というのも信じておりません。 ただ、過去から現在まで死後の世界を信じ、永遠の生命を夢見るというのは壮大でロマンティックをもらった感じがしました。 白骨よりも人に近いミイラですが、見た目のインパクトはそれほど感じませんでした。 生で観れば、もっと心に来るものがあるかなあと思ったのですが… さて、展示会としての感想です。 まず、開催2日目に行ったということもあって、それなりに混雑していました。 そして保護のため仕方ないのですが、かなり暗いです。 更に、多くのミイラは布にくるまっているので、そこまで人体が見えるというわけではありません。 音声ガイドは、結局なくても(600円払ってまでは)なくて良かったですね。 展示の合間に動画説明が結構あるので、音声ガイドで言っていることもかぶっていましたし… 首からぶら下げていると邪魔でしたしね。 本物のミイラを世界から集めたというだけでも、その苦労は相当なものだろうなあと思いました。 ミイラという人の死体を見る機会もなかなかありませんし、これをきっかけに生死について考えてみるのも良いと思います。 ミイラ展のグッズ・お土産 久々にこういう企画展で、お土産を買ってきました。 まずはこちらのアヌビス神キーホルダー。 そしてメジェドとバステトのブックメーカー。 メジェドは一回も出てきていない気がしますが、人にあげる用です。 そしてエジプト神のクリアファイル。 こちらが表。 そして裏。 「エジプト9栄神」はJOJOで聞いたことありましたが、8体なんですね。 やりませんでしたが、ガチャ。 女性のミイラのレプリカを商売に使うのはいいのか? 画像が小さいですが、一番下の左から2番目の細長いのが、本物の展示もあったネコのミイラです。 他にもミニオンズとのコラボとかもありましたね。 エジプト雑貨も少し興味がありましたが、使い道がなさそうですし… 私の死後に、墓に入れてもらえば良かったかな。

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ビートたけしも神妙になる「ミイラ展」を覗いてみた

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名は 職博 もとひろ。 京都に生まれ、松岡玄達に学ぶ。 私塾「衆芳軒」で研究・後進育成にあたったが、71歳で幕府に招かれて江戸に移り、幕府医学館でも講義した。 主著の『本草綱目啓蒙』48巻(享和3(1803)-文化2(1805)年)は、明の李時珍の著書『本草綱目』の講義録で、江戸時代のもっとも完備した薬物研究書。 島田充房との共著『 花彙 かい』は日本の科学的植物図鑑の嚆矢とされ、後にフランス語にも訳されている。 は蘭山を「日本のリンネ」と評する。 門人は山本亡羊、、飯沼慾斎、、など、全国に1,000人以上いた。 23 本草綱目草稿 〔江戸中期〕【】 重要文化財 蘭山が『本草綱目』の講義に用いた覚え書き。 余白部分はおびただしい書き込みで埋め尽くされており、袋綴じの折り目を切って裏面まで使用し、さらにメモの紙片346枚も付随する。 安永末(1780)年頃までに作成され、没するまでの約30年間、補充・訂正を重ねて使用された。 講義を聞いた弟子による記録はよくあるが、講述者自身の講義用覚え書きは珍しい。 名は 孔恭 こうきょう。 その財で内外の書籍や、海外産貝類などの標本を集めた。 本草方面ではに師事、『一角纂考』『 奇貝図譜 きばいずふ』 などの著作を残した。 博学多識で交遊も広く、、大槻玄沢などの学者や、蔵書家で知られる豊後佐伯藩主毛利 高標 たかすえ、随筆集『 甲子夜話 かっしやわ』の著者である平戸藩主 松浦静山 まつらせいざんなどの大名とも親交があった。 24 蒹葭堂雜誌 〔江戸中期〕【】 物産、動植物など48項目について短文と図を記したもの。 掲載箇所は北方の鳥「ヱトヒルカ」(エトピリカ)。 「丸くむきたるを前々見ることありて形をうつしをきぬ」とある。 天明5(1785)年 田沼意次 たぬまおきつぐが蝦夷地へ調査隊を派遣、寛政4(1792)年ロシアのラクスマンが来航するなど、ロシア、北方への関心が高まっていたが、大坂は蝦夷産品の集散地であり、蒹葭堂も蝦夷の地図や産物を集め、蝦夷情報に精通していた。 24関連資料:木村蒹葭堂 誓盟状 天明4(1784)年【】 重要文化財 天明4(1784)年、蒹葭堂がの内門(=上級)の弟子になった際の自筆誓約書。 「本草学をやめる場合は、入門以来の書写・記録はすべて返納すること」(第3項)など、厳しい内容である。 の『 宇計比言 うけいごと』と類似の文書だが、書体のみならず書かれている内容も異なる。 通称元雄。 姓を「 坂上 さかのうえ」とも称する。 町医であったが、朝鮮人参の栽培などで幕府に認められ、人参製法所の責任者となって人参国産化にあたった。 幕命により諸州を訪れ薬用植物の採集や物産の調査も行っている。 『人参耕作記』『琉球産物志』などの著作がある。 老中 田沼意次 たぬまおきつぐ、薩摩藩主 島津重豪 しまづしげひで、などとも親交があった。 長男は 善之 よしゆき(号西湖)、次男はで、ともに幕医・博物家。 門下に平賀源内、 曽槃 そうはん(薩摩藩の本草学者)などがいる。 25 日本諸州薬譜 〔宝暦年間(1751-1764)頃〕【】 藍水の著作『日本諸州薬譜』の草稿の一部。 この草稿を整理・浄書する際に、藍水が作業済の目印とした太い斜線や欄外の「済」の文字が生々しい。 内容は岩石、金属、温泉などで、動植物は含まない。 藍水の子の孫である大淵常範から、に与えられた。 現在は綴じの順番が狂っており、バラバラになった原稿が伝えられて来たものと考えられている。 に師事。 幕府の 徒士 かちという低い身分だったが、若年寄 堀田正敦 ほったまさあつに見出された。 その結果、 屋代弘賢 やしろひろかたが幕命で編纂した『古今要覧稿』(多くの書物から類似の事項を集めて分類し、まとめた百科事典形式の書物)の草木部の執筆を担当したり、薬園の設置を許されたりと、活躍の場を与えられた。 代表作『本草図譜』は日本最初の本格的彩色植物図譜。 26 本草図譜記〔江戸後期〕【】 『本草図譜』配本時の覚書。 幕府献上本を含めて各所への配布の巻数・日付を記録している。 掲載箇所は徳川御三卿の一つ田安家への配布分の記事。 田安家へは、文政13(1830)年の山草類(巻5~8。 木版・手彩色本)から配布され、天保11(1840)年6月配布の蔓草類8冊(巻25~32。 筆写彩色本)には代金として3両下された旨が記されている。 26関連資料:本草図譜 巻16(巻5~96のうち)江戸後期【】 田安家旧蔵。 『本草図譜』は予約制で配布された。 最初の4冊(巻5~8。 巻1~4は存在しない)は木版で制作された(ただし、本電子展示会に掲載している本の巻5~8は後補の写本)。 資金調達の困難からか、5年の空白後、巻9~96は筆写・手彩色本として制作された。 本書のような彩色の図譜の場合、少部数であれば、版木を作って印刷するよりも手で筆写する方が簡便だったのだろう。 そのため、出来には差が生じるが、本資料は田安家への配布本で、丁寧に描かれている。 掲載箇所は画家竹本石亭画。 国立国会図書館の本草学コレクション 当館には日本有数の本草学コレクションがある。 伊藤文庫は、が収集し、孫の篤太郎が整理・保存していた本草学関係書約2,000冊からなる。 その中には、多数の博物家の自筆資料、散逸した著作の実物や写し、一枚刷り、書簡、広告等をも含む『植物図説雑纂』(122冊(分254冊))などの貴重な資料集がある。 また、の旧蔵書で、本草学関係の和漢洋の古書など約6,000冊からなる白井文庫は、主著『日本博物学年表』に使用された資料のほとんどが含まれる。 平成13(2001)年には関係資料89点をご子孫から寄贈いただいた。 本電子展示会の『本草綱目草稿』のほか、筆の『蘭山翁画像』なども含まれており、この2点を含む11点は平成27(2015)年に国の重要文化財に指定された。 (参考) これらの収集以後も、本草学関係の資料は少しずつ増えている。 今回紹介したの書簡は、宛先である木下家からの寄贈、また、の白井光太郎宛葉書は、昆虫学者長谷川仁氏ご子孫からの寄贈である。 また、・息子の西湖の執務記録である『万年帳』などもご子孫から寄贈いただいた。 所蔵資料が新たな資料を呼び、コレクションがさらに充実していく、善き例と言えるだろう。 なお本草学コレクションは電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」で紹介している。 前野良沢、中川淳庵、らと『解体新書』を訳述し、安永3(1774)年刊行、日本医学の発展に大きな影響を与えた。 晩年の回想録『蘭学事始』には、翻訳の苦労が描かれている。 家塾天真楼で大槻玄沢などの弟子を育て、蘭学の発達に貢献した。 27 杉田玄白書簡(『木下文書』のうち)〔文化3(1806)年〕【】 木下宗白宛。 宗白も小浜藩医で、玄白に師事した。 内容は、宗白からの手紙に対する返事と類焼見舞いに対する礼状で、年記はないが、文化3(1806)年玄白74歳のものと推定される。 当書簡を収める『木下文書』は、宗白の子孫で医師の木下 熙 ひろむが杉田家からの書簡などを明治42(1909)年に整理したもので、親交のあった日本画家の富岡鉄斎が箱書と自序を代書している。 号は月池。 幕府奥医師で、『解体新書』の翻訳にも携わった。 ツュンベリーら江戸参府オランダ商館長一行と会談し、新知識の吸収に努めた。 将軍家斉の内旨を受け、大黒屋光太夫のロシアでの体験見聞を聴取、分類記録した『 北槎聞略 ほくさぶんりゃく』は名著として名高い。 28 蝦夷草木図 小林豊章画 桂川甫周写 寛政5(1793)年【】 幕吏小林豊章が寛政4(1792)年に西蝦夷地(北海道の日本海沿岸)と樺太南部を調査し、そこで目にした植物を写生してまとめた図譜。 掲載資料は、甫周が寛政5(1793)年に幕府の献上本を模写したもの。 掲載箇所に描かれているのはポロヤキナ(エゾオグルマ)。 旧蔵で、ピンク色の付箋は圭介筆。 圭介の孫・理学博士伊藤篤太郎のメモもあり、本図に「Cineraria」と学名を記したのはという。 栗本丹洲 (くりもと たんしゅう) 1756? 1834 名は 昌臧 まさよし。 通称瑞見。 の次男で、幕府医官栗本昌友の養子になった。 幕府奥医師として医学館において本草を講じ薬品を鑑定した。 それまで十分な研究がなされていなかった動物の研究に尽力し、『皇和魚譜』『千虫譜』などの著作を残した。 に『 蟹蝦類 かいかるい写真』『魚類写真』(この場合の「写真」は写生のこと)を贈り、シーボルト編『日本動物誌』(Fauna Japonica)にも引用されている。 29 蝦夷草木図 小林豊章画 栗本丹洲写 寛政9(1797)年【】 若年寄 堀田正敦 ほったまさあつは、寛政9(1797)年丹洲に命じて所蔵していた『蝦夷草木図』に漢名・和名と注釈を加えさせた。 掲載資料は、その際、丹洲が自身のために転写したもの。 朱字は丹洲の書入れで、藍字は幕医坂丹邱のもの。 江戸時代は木版などの印刷による書物の出版も盛んだったが、書写による写本での流通も引き続き行われた。 掲載資料28、29とも原書に近い転写本で描写も丁寧なものだが、元とした本の違い、所蔵者の書入れなどにより、伝える内容はすでに同一ではなくなっている。

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