柴田勝家 最後。 柴田勝家の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介

柴田勝家とお市の方の自害は爆破?

柴田勝家 最後

柴田勝家 柴田勝家がこの世に生を受けたとされるのは1522年(大永2年)ですが、1530年(享録3年)生まれとされるなど、諸説あります。 柴田勝家は、尾張国愛知郡(現在の名東区)の「下社城」(しもやしろじょう)で生まれました。 父親は、斯波氏(しばし)の流れをくむ「柴田勝義」(しばたかつよし)と言われています。 生誕地である下社城の跡には、1662年(寛文2年)に「明徳寺」(みょうとくじ)が移転。 寺の山門前左側には、「柴田勝家公誕生地」と記された石碑が建っていることでも有名です。 幼名を「権六」(ごんろく)と称し、知恵と勇気を持ち合わせた子どもだったと伝えられています。 当時、現在の愛知県名古屋市中区にあった「古渡城」(ふるわたりじょう)を拠点としていた「織田信秀」(おだのぶひで)は、柴田勝家の才能に注目。 自分の居城に招き入れ、文武の道を教え始めたのです。 これが、柴田勝家にとって織田氏と縁を結ぶきっかけとなりました。 なお織田信秀は、「」の父にあたる武将です。 織田信長 織田信秀の家臣であった柴田勝家ですが、1549年(天文18年)に織田信秀が死去すると、織田信長の弟「織田信行」(おだのぶゆき:別名・織田信勝[おだのぶかつ])の家老になります。 当時の織田信長は、奇行が目立つ「大うつけ」として有名でした。 一方、織田信行は礼儀正しく有能と言われていたため、柴田勝家ら家臣は織田信行を後継者にしようと一念発起。 織田信長の打倒を企てたのです。 その計画が実行されたのが、1556年(弘治2年)8月24日。 現在の愛知県名古屋市にある「」付近を舞台とした「稲生の戦い」でした。 柴田勝家は、同じ織田信行の近臣「林秀貞」(はやしひでさだ)やその弟「林通具」(はやしみちとも)と共に、手始めに織田信長が築いた「名塚城」(現在の愛知県名古屋市西区)を攻めました。 約1,000人の勝家勢と約700人の林勢に対し、応戦したのは、約700人の信長方の勢力。 信長方連合軍は、勝家方連合軍の半数にも及びません。 しかし、激戦の末に信長勢が圧勝。 林通具が織田信長自身の手によって討ち取られたうえ、織田信行の居城であった「末森城」(現在の愛知県名古屋市千種区)が信長勢に包囲される事態となってしまったのです。 結局、柴田勝家らの織田信長討伐計画は大失敗に終わりました。 一方で、織田信長は、実母「土田御前」(どたごぜん)の懇願を受け入れ、居城の「」(愛知県)へ退陣。 織田信行はかろうじて命拾いし、柴田勝家や林秀貞も、織田信長に謝罪し、忠誠を誓うことで許しを得ることができたのです。 織田信行は、稲生の戦いでの大失敗にも懲りず、1558年(永禄元年)には、再び織田信長殺害を計画します。 しかし、当時すでに織田信行を見限っていた柴田勝家は、その不穏な動きを感じ取ると織田信長に密告。 その話を聞いて怒った織田信長は、織田信行の暗殺を決意しました。 柴田勝家は、織田信長が重い病にかかったと嘘を吐き、織田信行を清洲城へ行くように唆(そそのか)したのです。 そして、織田信行は城内で「池田恒興」(いけだつねおき)らによって殺害されました。 この一件によって、織田信長の家臣となった柴田勝家。 以後、柴田勝家は織田信長から信頼され、織田軍先鋒(せんぽう:部隊の先頭)の武将、重臣として数々の武功を挙げることになるのです。 犬山城 また、前述の「掛かれ柴田」のあだ名が付けられた背景には、過去に1度だけ裏切った織田信長からの信頼を得ようと必死であった柴田勝家ならではの戦闘姿勢があります。 すなわち、戦があると知れば、すぐさま戦場へ駆け付け、最も危険な役目である先鋒を自ら買って出たのです。 柴田勝家が武功を挙げた戦の例として、1560年(永禄3年)の「」(おけはざまのたたかい)や、1564年(永禄7年)の「攻略」などが挙げられます。 織田信長の家臣となってから10年が経過した1568年(永禄11年)には、将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)が居る京都での守り役に抜擢。 ついに織田信長の重臣として実力を認められたのです。 なおも、柴田勝家の躍進は、とどまるところを知りません。 1570年(元亀元年)には、近江国(現在の)の「長光寺城」(ちょうこうじじょう)に配属。 六角氏や浅井氏の抑止力としての役目を任されています。 その他、同年6月の「」や、1571年(元亀2年)5月の「長島一向一揆」などにも従軍。 浅井氏及び朝倉氏攻略に加え、1575年(天正3年)5月の「」にも参加し、武功を立てました。 1575年(天正3年)9月には、織田信長の命令を受け、「越前一向一揆」を徹底的に討伐。 その功績として、越前国(現在の北部)49万石を与えられています。 上杉景勝 1580年(天正8年)11月には、「」()を落城させ、長年に亘り抵抗し続けた「加賀一向一揆」の最終的な鎮圧に見事成功。 また、1582年(天正10年)「魚津城の戦い」では、「」(うえすぎけんしん)の子「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が治める「魚津城」(現在の)を陥落します。 それが、6月3日のことでした。 一方、「」は6月2日に起こり、柴田勝家はそれを知らず、織田信長の死を一報で知ったのは、6月5日以降だったと言われています。 柴田勝家は急いで駆け付けようとしたものの、途中で再度攻撃を仕掛けてきた上杉軍に阻止されたため立ち往生。 結局、近江に到着できたのは、豊臣秀吉が6月13日の「」にて主君の仇「」(あけちみつひで)を討ったあとだったのです。 豊臣秀吉 1582年(天正10年)6月27日、織田信長の後継者を決める「清須会議」(きよすかいぎ)が行なわれます。 会議の参加者は、「清須会議4宿老」と言われる、豊臣秀吉、丹羽長秀、池田恒興、そして当時の重臣筆頭だった柴田勝家でした。 豊臣秀吉は、織田信長の長男「織田信忠」(おだのぶただ)の嫡子で、当時わずか3歳の「三法師」(さんぽうし:のちの織田秀信[おだひでのぶ])を推挙。 一方、柴田勝家は、自らが烏帽子親(えぼしおや:成人時に立てる儀礼上の親)となっていた織田信長の3男「織田信孝」(おだのぶたか)を推しています。 結局、豊臣秀吉が主張した長子相続(長男が家督を受け継ぐべき)の考えを丹羽長秀が支持したことにより、後継者は三法師に決定されたのです。 また清須会議では、後継者の決定と併せて、織田信長が管轄していた領地の再配分も実施されています。 その結果、豊臣秀吉は本領としていた近江長浜の地を柴田勝家に譲り、新たに河内・丹波・山城・播磨(現在の、南部、南部の関西地方)を獲得。 片や、柴田勝家が再配分によって得た領地は、もともと自身の所領であった越前と、豊臣秀吉の旧領であった近江長浜のみでした。 すなわち、領地の取り分においても豊臣秀吉が優位に立ち、織田信長の重臣筆頭であった柴田勝家との立場が逆転。 明智光秀を討伐した豊臣秀吉の功績は、それほど絶大な影響をもたらす力となっていました。 完全に出遅れてしまった柴田勝家ですが、頭の良い豊臣秀吉は不満が出ないようにと、柴田勝家と織田信長の妹・お市の方との結婚を承諾します。 このとき、柴田勝家は60歳。 お市の方は3人の連れ子がいる35歳。 熟年の2人ですが、実は柴田勝家は、織田信長に初めて仕えたとき、当時10歳前後のお市の方を見て一目惚れしていたのです。 叶わぬはずの恋が叶うと柴田勝家は大喜び。 しかし、幸せにのぼせる男の隙を、豊臣秀吉が見逃すはずがありません。 清洲会議ののち、勢力を拡大させた豊臣秀吉と、柴田勝家ら他の織田家重臣との権力争いが始まることになります。 1583年(天正11年)、「」(しずがたけのたたかい)で、豊臣秀吉は柴田勝家を破り、織田信長後継者の地位を確立。 正確には、柴田勝家が味方の「」(まえだとしいえ)に裏切られ、総崩れして退却したのです。 翌日、柴田勝家は腹を十文字に割いて、お市の方と共に自害しました。 ただし、勇猛果敢で、なおかつ情に厚い男が、最期となる戦で何の手立てもなく退却するはずはありません。 柴田勝家は自害のとき、お市の方の連れ子3人を脱出させることに成功しています。 好きな女性の子どもを守ること。 それこそが柴田勝家にとって、本当の意味での勝利だったと言えます。 守るべき者ができた男の決断。 のちに、お市の方の連れ子3人の内のひとり、「茶々」(ちゃちゃ:のちの淀殿[よどどの])が豊臣秀吉の側室になることは、あまりにも有名です。 お市の方との婚姻より、わずか約7ヵ月。 「幸せな結婚」という豊臣秀吉の策略に、まんまと嵌められてしまったと言えます。 柴田勝家は、数々の戦での活躍に加え、治政面でも優れた能力を発揮したことでも知られています。 1575年(天正3年)、織田信長より北陸方面軍における総帥(そうすい:総大将)を任され、越前国北庄(きたのしょう:現在の福井県)の地を与えられた柴田勝家。 翌1576年(天正4年)には、壮大な天守を擁する「北ノ庄城」の建設を開始し、一大都市を築き上げたのです。 城下町を建設する際には、柴田勝家が滅亡させた朝倉氏の拠点であった一乗谷(いちじょうだに:現在の福井県福井市)から、商人や職人を呼び寄せました。 また、協力的な社寺に対しては、その領地を安堵(あんど:所有権を与えること)し、有力商人には特権を認めるなど、民政運営に必要な施策を実施。 さらに、北陸街道の拡充や足羽川に「九十九橋」(つくもばし)を架ける工事をはじめ、領内整備にも力を注いでいます。 柴田勝家が越前国を統治するにあたり、織田信長は9ヵ条の掟を課し、お目付役として前田利家らを配置していました。 しかし、そのような監視下でも能力をいかんなく発揮した柴田勝家。 1576~1578年(天正4~6年)には、豊臣秀吉に先んじて刀狩を実施し、1577年(天正5年)には検地を行なっています。 また、当時は一向一揆が制圧されて間もない時期であったため、治安維持を目的とした「北庄法度」(きたのしょうはっと)を発令。 さらに、荒廃した農村を復興させるため、農民が農業に専念すべき旨を定めた掟書(おきてがき)も公布しました。 1581年(天正9年)には、宣教師「ルイス・フロイス」が越前国を訪れ、柴田勝家の権限や活躍ぶりを「織田信長のようだ」と形容し称えた逸話が残っています。 丸に二つ雁金 柴田勝家の家紋は、「丸に二つ雁金」(まるにふたつかりがね)と呼ばれ、2羽の雁(がん)と丸型を組み合わせた意匠が特徴的です。 雁は独特な鳴き声を発して空を飛ぶため、良い知らせを運んでくれる鳥として古くから親しまれてきました。 中国・漢の時代には、皇帝「武帝」(ぶてい)の使者が捕虜となり幽閉された際、手紙を雁に結んで託し、祖国へ想いを伝えたとの故事があるほどです。 また、雁は群れをなして移動することから、一族の結束を強める意味を込め、家紋のモチーフとして使われたとの説もあります。 柴田勝家ゆかりの地である越前地方では、人々にとって柴田勝家とお市の方が身近な存在であることに変わりありません。 空を飛ぶ2羽の雁を見かけると、2人が戻ってきたと感じ、偲ぶ人がいるとの話も聞かれます。 これは、1570年(元亀元年)、柴田勝家が「六角丞禎」(ろっかくしょうてい)に攻められ、近江国にある長光寺城に籠城していたときの話です。 季節は旧暦6月のはじめで、土用近くの暑い時期。 城の敷地内に井戸がない長光寺城では、六角氏の攻撃により水を絶たれ、甕(かめ)に蓄えておいた飲料水も枯渇しつつありました。 水不足に苦しみながらも、応戦する柴田勝家軍の兵士達。 しかし、このまま水がない状態で生きながらえることはできないと考えた柴田勝家は、大勝負に出たのです。 すなわち、残り少ない水が貯蔵されていた甕を自身で割り、その様子を見ていた兵士達に向かって上記の名言を発しました。 その意味するところは、次の通りです。 「水甕を割ったため、いざというときに備えて貯めてあった水もすべて地面に還(かえ)ってしまった。 このまま迫り来る相手を打ち倒せなければ、自分達はこの城内で枯渇して死ぬ(土に還る)他道はない」 この言葉を聞いた兵士達は、2度と長光寺城に戻らぬ決死の覚悟を決め、武士としての面目を保つために出陣します。 その結果、窮地に立たされていた柴田勝家軍は勢いを盛り返し、大勝したのです。 なお、この甕割りによって兵士達の士気を鼓舞した逸話から、柴田勝家は「瓶割り柴田」(かめわりしばた)の異名を持ったと言われています。 これは、1583年(天正11年)4月24日に、柴田勝家が北ノ庄城で自害した際に読んだ辞世の句で、名言となりました。 現代語に訳すと、「夏の夜のように、はかなくも過ぎ去ったわが人生。 ほととぎすよ、私の名を後世まで伝えておくれ」といった内容です。 自分の名を「雲井」(大空の意)に知らしめるほどの偉大な大名になるまで生きたかったという、柴田勝家の悔しい想いが込められています。 また、柴田勝家と共に自害した妻・お市の方の辞世の句も遺されていますので、併せてご紹介しましょう。 「さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」 意味は、「寝ているはずの夏の夜に、死後の世界から来たと言われている鳥・ほととぎすが、この世に別れを告げているようだ」といった内容となっています。 柴田勝家が所持した名刀「にっかり青江」は、不思議な伝説を持つ大脇差です。 近江国(現在の滋賀県)の「中嶋修理太夫」(なかじましゅりのだいぶ)という者が、「八幡山」(滋賀県)辺りに化け物が出るとの噂を聞き、深夜の山奥へ向かいます。 するとそこで、子どもを抱いて佇む女の人に出会ったのです。 女の人は、子どもを抱いて欲しいと懇願し、「にっかり」と笑ったのでした。 あまりの不気味さに、中嶋修理太夫はその女の幽霊を切り捨てたと言います。 翌日、幽霊の出た場所を確認に行くと、石灯籠(いしどうろう)が真っ二つになっていたとのこと。 この伝説が名前の由来となりました。 のちに、にっかり青江は柴田勝家の手に渡り、その後、養子の「柴田勝敏」(しばたかつとし)に譲られます。 1583年(天正11年)、柴田勝敏が賤ヶ岳の戦いで敗れると、丹羽長秀が本を奪い取り、豊臣秀吉へ献上しました。 本脇差は、備中国青江(現在の)で栄えた「」の刀工「青江貞次」(あおえさだつぐ)の作と伝えられています。 青江派は、平安時代末期に興り、鎌倉・南北朝時代に最盛期を迎えました。 室町時代に衰退するまで、多くの名工を輩出しています。 にっかり青江 「前田慶次」(別名:前田慶次郎・前田利益)は「関ヶ原の戦い」のあと、「私の主は上杉景勝ただひとりだ」と言い放ったほど、主君に対して最後まで律儀であった戦国武将です。 小説や漫画にも取り上げられる「前田慶次」とは、どのような人物だったのでしょうか。 前田利家の弟の息子と言われる「前田慶次」ですが、彼の詳しい出生や功績を示す資料は少なく、「慶次」という名も、実は本名ではありません。 今なお謎が多い「前田慶次」ですが、前田利家を騙して水風呂へ入れた隙に、前田家を出奔したり、愛馬である「松風」を贅沢に装飾したりするなど、破天荒な逸話が多数あります。 ここでは様々な逸話から「傾奇者」(かぶきもの)と称されてきた、「前田慶次」にまつわる名言や逸話、家紋などをまとめました。

次の

本能寺の変後の柴田勝家直筆の書状が見つかる

柴田勝家 最後

賤ヶ岳の合戦4-9 9.北の庄城の陥落 柴田勝家 お市 お市の方 勝家敗残の身で 北の庄城にたどり着くと、いち早く お市の方が迎えに出た。 勝家はお市の顔を見ると無様な身を恥じてかたがた一言 「かかる醜態をお目にかけ面目ない」と頭を垂れた。 お市は勝家が賤ヶ岳で敗れた事は知らされていたが、出陣の時のあの勇士の面影はどこへやら、身も心も疲れ果てた勝家の身を不憫に思ったのであろうか、一言 「覚悟はできております」と言っただけで、後は言葉が続かなかった。 織田家の再興の願を勝家にかけて嫁いでは来たが、今はその夢が破れたという事よりも、今まで自分を優しく包んでくれていた勝家がいとおしく、この人とならば何時死んでも悔いはないと思うのであった。 勝家は配下に命じ籠城の準備をさせた。 それは戦うというより、一族の死場所をつくったという感じであった。 先ず将兵の妻子には、城内に残る軍資金を分け与え縁故を求め城を出て、それぞれに離散させた。 城内の兵3千とはいえ、非戦闘員も混じっていたので、戦う能力のある者は2千ほどではなかったであろうか、これではとても広い城内を守る事は困難なので、二の丸、三の丸だけに兵員を配し、ここに立て籠もったのであった。 23日、 前田利家を先鋒に 北の庄城に到着した 秀吉は城を包囲すると共に本陣を 愛宕山においた。 前田利家にとって、この先鋒は生涯の戦いにとって最も苦しい戦いではなかっただろうか。 利家は秀吉とは幼き頃よりの友人ではあるが、二人の生涯の生きかたを見る時、利家は決して秀吉に心服はしていなかったのではないかと思われる。 賤ヶ岳で敗れて府中城に立ち寄った勝家は、利家の裏切りによって柴田方が敗れたのであるが、それに対しても恨みがましき事は一言も言わず、ただ長年の交誼を謝し、何も酬いることのできないことを詫び、今後は秀吉を頼られるようにと話して立ち去る、勝家の言動には何の恨みも皮肉も感じられなかった。 帰城後は人質に預けてあった娘「摩阿」を使者を送りつけ返している。 勝家の度量の大きさに敬服していた。 それに比し秀吉には勝者として従っているのみで、勝家に対する心情とはかなり異なった思いを胸に抱いていたと思われる。 勝家が送り返した娘 摩阿を秀吉は連れ去り、側室とした。 二人の娘までを人質として側室にされている男を真の友人として心腹できたであろうか。 秀吉の衰運を見るや、徳川家康に味方して行ったのも、決して利家の世渡り上手とのみでは片付けられないものがあると思われる。 利家の気持ちを察してか、利家は勝家の助命を条件に秀吉に従ったという説もあるが、これは全く後世の人の作り事であろう。 そんな事で許す秀吉でもなければ、秀吉の恩情にすがり、命長らえようとする勝家でもなかった。 秀吉は次第に包囲を縮め、激しい鉄砲合戦の末、本丸の土居際までは押し詰めていった。 そして城内に聞けよとばかり、 「御子息権六殿 勝敏 ならびに玄蕃允、山中にて生捕利他離、痛わしき御事よ」と城内に向けて怒鳴った。 城内でこれを聞いていた勝家も、もしやとまだ心頼みにしていた盛政も勝敏も捕らえられたとあり力を落としてしまった。 そしてこれ以上戦うも無駄、いよいよ最後を迎えたと覚悟を決めた。 城内には各門が固められたのみで、抵抗は止まり、明々とあかりがつけられ、最後の別れの酒宴が開かれる事になった。 それに先立ち 勝家は妻お市の方に向かい、 「勝家の念願かない、そなたを迎えたが束の間の縁でござった。 そなたは主君信長公の妹御なれば、秀吉とて疎略には致すまじ。 早く城を出て、秀吉を頼られよ。 」 これに対しお市の方は、 「去年の秋岐阜よりここに参り、今日の日まで厚きお情を蒙りましたが、宿世浅からぬ縁と存じます。 さきに浅井の元に死すべき身、今またかかる欺きを見るは、我が身にまとう運命と存じますれば、この後筑前殿にすがればとて、良き月日に逢えるとも思われません。 短き御縁とて百年の契の思い、身にしみて忘れ得ませぬ。 なにとぞ死出の道にお連れ下さい。 ただ3人の子女だけは助けて、果敢なき父や母の菩提を弔わせとう存じます。 」 「それほどまでに勝家を思うて下さるのであれば、共に手を取り六道の辻を越え申そう」 と二人の心持は固く結ばれて離れなかった。 お市の方が勝家に嫁いだ事について、一説には清洲会議で決まった事で、秀吉はお市と長浜城を勝家に与え、その他を思うようにしたなどと記したものもあるが、清洲会議では秀吉がお市のことに口出しできる力もなかったし、お市は徹底的な秀吉嫌いであったので、秀吉の言などに左右もされなかったであろう。 お市が勝家の元に嫁ぐ決意をした裏面には、信孝の仲介もあったであろうが、兄信長亡き跡の織田家の跡を案じ、織田家を潰したくなかったのであろう。 織田家再興の夢を勝家にかけていたと思われる。 また信長の家臣の中では勝家が最も織田家再興に熱意を持っていたと思われる。 勝家は三女にわけを聞かせ、直ぐに城外に出るようにと言ったが、長女の 茶々は15歳 記録によっては17歳とも13歳ともある。 もう世の憂き事も心得ているので、自分の将来を思い、母と共に死なせて欲しいと歎願して去ろうとはしなかった。 勝家は 中村文荷斉に命じ、母にしがみつき離れようとせない茶々を無理に引き離し秀吉の陣に送ったという。 賤ヶ岳戦記には 富永新六郎を付けて秀吉の陣に送ったとあるが、いずれが正しいかは分からないが、三人の子女が秀吉の元に送れた事には間違いない。 秀吉は三人の子女を連れ帰ると間もなく、長女茶々を自分の側室にしてしまった。 これが 淀君である。 勝家は三人のほかにも、自分の姉 末森とその 息女を 上村六左衛門に行末を頼み城外に出した。 おそらく死後の菩提を弔ってもらいたかったのであろう。 上村六左衛門は城を枕に勝家に殉じる覚悟でいたのに、意外な勝家の頼みに戸惑ったが、勝家に言われた通り末森殿と息女を粗末な輿に乗せ、椎ヶ谷の奥、竹田の里に到り、ここに草庵を探し当て、ここに二人を預け、急ぎ帰城せんと往還に出て行った。 翌24日の甲の刻北の庄城の天守に火がかかり、黒煙激しく立っているのを末森殿はるかに望み見て、北の庄の落城を察し、兄勝家も自害した事であろう。 この後どれだけ生き果てるべき身でもなし、世にあって憂き事を見んよりは、早く黄泉に行きたしと考えた。 息女も同じ思いで、疎ましきこの浮世に何ぞ心残り惜しかろう。 母と共に自害しようと覚悟した。 側にあった硯を取り寄せ、まず息女が 思いきや 竹田の里の草の露 母上ともにきえぬものとは と認めると、母も涙を押しぬぐい、 今ここに六十路あまりの日の数を ただ一時にかへしぬるかな と書き添えて、剣を抜き互に胸元に突き立て、自害した。 そこへ上村六左衛門も、北の庄城の落城を察し、胸騒ぎして、駆け戻って見れば末森殿母子の自害した後であった。 勝家殿からあれ程頼まれしものを、ただ城に帰り討死したい一念で、ここまでくればと母子を置いて行った結果が、かような事になった事を悲しみ、自分も後を追うべく、草庵に火をかけ死骸を消すと共に、自分も立ちながら腹を切り火中に飛び入って死んでいったという。 聞く者皆袖をぬらさぬ者とてなかった。 北の庄城最後の酒宴 北の庄城内の 最後の酒宴は23日夜遅く始められた。 勝家は一族および近臣80人余人を本丸の天守に集め24日の明け方まで行われた。 残る近臣達も家族はほとんど城外に落ち延びさせていた。 勝家は 柴田弥右衛門尉を呼び 「今宵は飲み明かすのだ」と城内の酒すべてを、各々の櫓に配らせた。 また中村文荷斉には、各地の戦いに主君より受けた恩賜の品々を大広間に飾りたてよ、この世の名残を告げるのだと、数々の錦繍綾羅、武具、茶器、文書、書画の類を所狭きまでに並べた。 勝家はその中から青磁の花器を取り上げ、 「これは信長公より、北の庄に赴く時、大国に任ずるしるしとして汝に与えるとて賜った蕪梨子の花入である。 この名器を我と共に滅ぼすのは畏れ多い故、そちにとらせる大切に伝えよ。 」 と言って 文荷斉に渡すと、文荷斉は恭しく押戴き、縁の方に立つと、そこの柱にうって粉微塵に砕いてしまった。 「さてはその方も勝家と死を共にしてくれる気か」 「今更何を仰せになります。 君亡き後に独り生き残って花を活ける文荷斉にはござりません」 この言葉は勝家も、余程嬉しかったのであろう。 顔面に笑を浮かべながら文荷斉に盃を差し出した。 お市も微笑みながら酌をしてやっていた。 これが死を直前にした夫婦とも見えないくらい静かな一瞬であった。 家臣の 中村与左衛門、大屋兵衛門、松浦九兵衛、佐久間十蔵、小島若狭守、柴田弥右衛門尉、村本甚五兵衛らも、平常と変わりなく談笑しつつ、酒を酌み交わしていた。 宴も終わり勝家はお市の方と共に奥に入った。 その時詠んだと伝えられる辞世の歌が残っている。 さらぬだに 打ち寝る程もなつの夜の わかれをさそう時鳥 ホトトギス かな お市の方 夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 勝家 契あれや 涼しき道に伴ひて 後の世までも 仕えつかへむ 文荷斉 24日午後3時頃より総攻撃に入った。 城内に残る兵はすべてこれが最後の戦いと心得ているので、一人として死を恐れる者なく、その反撃もまた凄まじく、矢弾つきるまで撃ちまくった。 秀吉もこれを見て 「さすが勝家よな、あの寡兵で、城を支えてもう幾時か、さすがは名将である」と感じ入った。 しかし感じ入ってばかりはいられない時の過ぎるにしたがい秀吉の兵もその犠牲を大きくしていった。 無論城内の兵も減って行くのであろう。 抵抗も少しづつ弱まっていった。 秀吉は最後に槍隊を城内からの乱射をくぐり抜け城内に突き込ませた。 その頃は城内の兵も残り僅か隣、煮の木戸、三の木戸も脆くも破られた。 勝家も今はこれまでと、戦いを止めて、天守に入った。 そして文荷斉に命じ階下に積み上げてあった秣に火を放たせた。 勝家はお市と共に自害していった。 城内に残る男女すべての腹を切るもの咽喉を突く者、それぞれの死に方で勝家に殉じた。 中にはまだ死に切れないのか、かすかに称名念仏の声がしていた。 しかし火炎はまたたく間に城内に燃え広がり、勝家がここに城を築いてわずか7年、天守を包みかくすようにして黒煙と炎の中に消えていった。 天守の鬼瓦は石でできており、この瓦のみ西光寺に残っている。 一説には、勝家は最後に火薬に火をつけ、天守もろ共爆破したとあるが、無様な遺体をさらしたくないのが武士の願いなので、火をつけて後形なく焼いたのが事実であろう。 しかし火炎が火薬庫に燃え移り一部では爆発したのであろう事は考えられる。 胸を締め付けられる思いでこの戦いを見つめていた利家も、すべてが終わると、ほっとすると共に、勝家に対しすまない様な気持ちで、心に合掌しつつ静かに頭を垂れていた。 北の庄が落城したのが24日の午後の5時であった。 勝家は僅かの兵で一日の間城を支え秀吉を悩ましたのである。 この時 勝家57歳 62歳ともいわれる 、 お市の方37歳であった。 柴田勝家像 お市の方像 この勝家の最後に一役買っている中村文荷斉については詳しい事は分からないが、いまダム工事の進む岐阜県揖斐郡徳山村の中村氏の祖先であるという。 賤ヶ岳合戦に破れ秀吉に許されることなく余呉町洞寿院に隠まわれ、助かった。 徳山則秀が、後徳川家康に仕え徳山城主となり、洞寿院の僧を招請して建立した徳山氏の菩提寺増徳寺の墓地の中に文荷斉の墓がある。 ああ 北の庄 西沢爽作詩 古賀政男作曲 1. 戦い敗る 賤ヶ岳 死なば柴田勝家が 青葉の城に たちもどる 涙を見しかほととぎす ああ 北の庄 英雄あわれ 北の庄 2.名残りの酒を くみかわす 灯くらき天守閣 散りゆく花の はかなさを いとしき舞えや わが妻よ ああ 北の庄 ほろびてあわれ 北の庄 (朗詠) 夏の夜の夢路 はかなき跡の名を 雲井にあげよ やまほととぎす 3.お市の方の月の眉 偲べと遠く四百年 流るる水に面影を せめてはうつせ足羽川 ああ 北の庄 いにしえあわれ 北の庄 秀吉は北の庄に柴田一族を滅ぼすと、更に手を緩めず、翌25日には 佐久間盛政も居城のある 加賀に兵を進めた。 当時 徳山則秀は 小松の城主であった。 徳山則秀はその時前田利家にすがって開城降伏し命乞いをしたと太閤記などには記しているが、これは誤りで、則秀は不破勝光や、金森長近のように利家と共に戦わずして戦場を離脱したのではなく、最後まで戦っていたので、敗れて余呉町の山中 菅並にある 洞寿院に隠まわれ、その後高野山に逃れたので、小松城へは帰ってはいない。 だからここで開城して降伏する事などありえない。 若し降伏した者があれば留守を預かっていた者であろう。 徳山則秀の娘は佐久間盛政の妻である。 盛政の縁で勝家に仕えたのであった。 その後戦い治まり、平和になってから後高野山を出て前田勝家の元に身を寄せたのである。 則秀は五兵衛とも言われたが、寺に隠れ百姓の姿に身をやつし、秀吉の目を逃れていたので一時芋堀五兵衛などの汚名を受け辛酸をなめ、徳川家康の世になり家康に仕え、徳山城主になったのであった。 秀吉は4月27日には佐久間盛政の居城である 尾山城 金沢 に入った。 留守居の家臣達も何も抵抗することなく秀吉は城を受け取ると、4月30日までここに滞在した。 富山城主の 佐々成政は 上杉景勝抑えのため、勝家に従い賤ヶ岳合戦には参戦せなかったが、勝家方であることは間違いないので、秀吉の北陸侵攻には一時緊張したが、自分の方から攻めない限り秀吉の方から攻撃される事のない事が分かると、早速使者を秀吉に送り降参した。 秀吉は成政の娘二人を人質に取り旧領を安堵した。 小松城跡 金沢城 富山城 かくて秀吉は北陸の巨星柴田勝家を滅ぼすことにより、北陸を平定してしまった。 お市の方の3人の娘は、どうなったのだろう。 まず長女 茶々は、秀吉の側室となり淀君として1593年、秀頼を生み天下人の世継ぎの生母として権勢を誇った。 しかし1615年大阪冬の陣、夏の陣で徳川家康と対峙して惨敗に終わり自害。 豊臣家は滅亡した。 次女、 初は京極高次に嫁ぎ、一度は滅亡した京極家を再興している。 三女、 江は徳川秀忠 2代目将軍 の正室となり、3代目将軍家光を生んでいる。 そうして徳川幕府は200年以上続いたのであった。 ・・・ 織田信長の血、浅井長政の血は、女系を通じて天下を制したのであった。

次の

柴田勝家とは?家紋や城、妻のお市や子孫について解説!

柴田勝家 最後

柴田勝家は1522年(大永2年)、尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市名東区)で誕生。 父親は武将・柴田勝義(しばたかつよし)と言われていますが生まれについては謎な点もあり、生まれた年についても1526年(大永6年)、あるいは1527年(大永7年)説が存在しています。 その勝家は若いころから織田信秀の家臣として仕え尾張国愛知郡下社村を領し、1551年(天文20年)に信秀が亡くなると子の織田信行(信勝)に家老として仕えることに。 こうして信行に仕えた勝家は1552年(天文21年)、清洲城主・織田信友との戦いで中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り翌年には清洲城攻めに大将格として出陣、30騎を討ち取る活躍を見せます(萱津の戦い)。 この頃から「勇ましい」男の雰囲気がありますね。 勢いをつけた勝家は信行を信秀の後継者にしようと林秀貞(はやしひでさだ)と共に画策、信秀の嫡男・織田信長の排除を試みましたが、1556年(弘治2年)8月に信長との戦いに敗れると降伏(稲生の戦い)。 このときは厳しい処分を免れ、信長と信行の生母・土田御前の強い願いで赦免されますが、これで信長の前には「歯が立たない」と悟ったのでしょう。 この戦いで敗れた勝家はこれ以降信長の元へ付くようになり、一方の信行は津々木蔵人を重用するようになると勝家と距離を置くように。 1557年(弘治3年)に信行が謀反の計画を企むと勝家は信長に事前密告、信長が「病気を患った」と偽って清州城に信行をおびき出すと家臣に暗殺させてしまいます。 これによって信長の家臣となった勝家は信行に代わって尾張・末盛城主にも抜擢。 この時代にはこうしたしたたかさも大事なのですね。 こうして信長の元で家臣になった勝家ですが、早くから信頼を置かれていたわけではありません。 信長にとって重要な戦いである「桶狭間の戦い」や「尾張統一の戦い」、「美濃・斎藤氏攻め」においては重用されていませんでした。 信長からすると家臣にはなったものの「一度は私を貶めようとした人間だから、いつ同じことが起こるかわからない」ということでまだ勝家のことを疑っていたのでしょうか。 しかしその勝家にようやく活躍の機会は巡ってきます。 1568年(永禄11年)の「上洛作戦」に重用されると「畿内平定戦」などでは常に織田軍の4人先鋒の武将として参加。 信長の重臣として大活躍すると、1570年(元亀元年)6月には浅井・朝倉との「姉川の戦い」に従軍。 こうして織田軍への貢献を続けた柴田は激しい戦闘姿勢から「鬼の権六」と恐れられるようになり、その他「鬼柴田」や「かかれ柴田」と呼ばれることも。 これらの名は勝家の実力を知らしめるにはうってつけの名前でしょうね。 その後も1571年(元亀2年)9月の「比叡山焼き討ち」では殺戮戦に加勢、1576年(天正4年)には「北陸方面軍司令官」に任命、前田利家らの与力を付けられ90年間一揆の続いた加賀国(現在の石川県南半部)の平定を任されることに。 1580年(天正8年)3月には一向一揆の司令塔・金沢御堂を攻め滅ぼし一向一揆を制圧すると、1580年(天正8年)11月にはついに加賀平定を実現。 こうして平定を実現した勝家は織田家の家臣・佐久間信盛が失脚すると名実ともに織田家の筆頭家老に昇進。 かつての謀反行為からじっくり戦績を挙げて、ようやく確固たる地位を築くに至ったのです。 こうして信長のもとで確固たる地位を築いた勝家でしたが、その地位は長くは続きません。 1582年(天正10年)、君主・信長が京都・本能寺にいたところを家臣・明智光秀が謀反を起こし、信長は命を奪われてしまうのです(本能寺の変)。 君主の死という一大事件。 本来であれば君主の敵討ちに出たいところですが、勝家は信長の死を知りません。 死を知らない勝家は越中国の魚津城・松倉城(富山県魚津市)を攻囲していたところでしたが、事件を知った6月6日の夜から全軍撤退して北ノ庄城へ。 「一刻も早く信長公に勝ちを捧げたい」ものですよね。 しかしそれから勝家の到着は遅れ、近江に出動したのは出発から12日も経過した18日。 羽柴秀吉の軍が「山崎の戦い」で光秀を討ってから5日も経過したあとでした。 信長から信頼を得てきた勝家にとって「君主の敵討ちができなかった」ことは「重臣として情けない」気持ちもあったでしょうが、その後の勝家にとってはこれが運命を大きく変える出来事となってくるのです。 信長の敵を討つ機会を逸した勝家は苦しい状況を迎えます。 信長が撃たれた「本能寺の変」後に行われた「清洲会議」では信長の跡を継ぐ織田氏の後継者問題について話し合いが行われ、勝家は信長の三男・織田信孝を推薦。 信孝は信長の側近として活動、朝廷との交渉に顔を出すなどの実績を挙げていた人物で、勝家としては「信孝であれば実力もありそうだし、秀吉に対抗する意味でも絶対に推しておきたい」と考えていたことでしょう。 しかしそのような勝家の推薦が通ることはありませんでした。 織田氏の後継者に選ばれたのは秀吉が推薦した信長の嫡孫で3歳の三法師(織田秀信)であったのです。 秀吉は光秀を討伐したことで挙げた実績、発言力の大きさがあったのでしょう。 こうして後継者が決まった織田氏では遺領配分においても秀吉に大きく後れを取り、河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し勝家は北近江3郡と長浜城(現在の長浜市)を取得するにとどまり、勝家と秀吉の立場は逆転。 勝家はここにきて「信長公の敵討ちをできなかったのは痛かった」と感じていたことでしょう。 こうして行われた「清洲会議」の結果、三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人として付き、勝家は補佐する体制に。 これでは勝家にとって「明らかに不利」な状況になりますね。 後継者を決める「清洲会議」が終わると、勝家と勢いを増した秀吉との争いが激化していきます。 秀吉と対抗する勝家は滝川一益(たきがわいちます)、織田信孝と手を結んで秀吉に挑もうとしますが、秀吉は岐阜の織田信孝を攻め囲んで屈服させるなどして対抗。 大きな権力を握って「やり手」ぶりを見せる秀吉を前に、勝家の立場はより厳しさを増してきました。 こうして対立を続ける勝家と秀吉は1583年(天正11年)3月12日、北近江に出兵した勝家と北伊勢から戻った秀吉が「賤ヶ岳(しずがたけ。 滋賀県長浜市にある山)」で対峙、これが「賤ヶ岳の戦い」に。 このとき事前に勝家は毛利に庇護されているかつての第15代将軍・足利義昭に戦況を説明、毛利軍とともに出兵を促す書状を出しますが、毛利氏が中立を保っていたこと、足利家がすでに影響力を失っていたことからうまくいかず。 援軍を得られない厳しい状況、間違いなく勢いは秀吉に向いてきました。 こうして4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢・滝川一益と結び再挙兵、秀吉が岐阜へ向かうと勝家は賤ヶ岳・大岩山砦へ攻撃を開始。 しかし秀吉が美濃国大垣(岐阜県大垣市)から「美濃大返し」を敢行すると秀吉と対峙することになり、これで柴田全軍は総崩れ。 力尽きた勝家のもとに戦線を離脱していた前田利家が北ノ庄城を取り囲み、4月24日に「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」との辞世の句を残して妻・お市とともに自害。 62年の生涯でした。 お市の方(おいちのかた)1547年(天文16年)に戦国大名・織田信長の妹として誕生。 信長とは13歳離れており、通説では1567年(永禄10年)または1568年(永禄11年)頃に近江の戦国大名・浅井長政と結婚、この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結び、お市は長政との間に3人の娘を儲けます。 しかし1570年(元亀元年)、信長が浅井氏と関係の深い越前国(福井県)・朝倉義景を攻めたため浅井家と織田家の友好関係は終わりを迎えることに。 長政が「姉川の戦い」で敗北した後の1573年(天正元年)に小谷城が陥落、長政とその父・久政が信長に敗れ自害するとお市は織田家に引き取られ、信長の許しを得るて清洲城で兄・信包の庇護を受けながら過ごすことに。 長政との夫婦仲は政略結婚でありながら良好であったと言われますが、仲が良くても戦況によって関係を引き裂かれるのがこの時代なのですね。 そのお市が勝家のものに嫁ぐのは信長死後の1582年(天正10年)。 勝家と羽柴秀吉が申し合わせを行い「清洲会議」で承諾を得て再婚。 こうして勝家と再婚したお市でしたが、1583年(天正11年)に勝家が「賤ヶ岳の戦い」で敗れると夫と共に越前北ノ庄城内で自害。 37歳の生涯を終えてしまいます。 人生は最後まで戦乱に翻弄されたものとなってしまいました。 お市の死後も生き残った3姉妹のうち末っ子・江は後に江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠と結婚。 2人の間にはのちの江戸幕府第3代将軍となる徳川家光がいます。 福井城は越前での一向一揆を平定した功績により越前国北ノ庄を与えられた勝家が、1575年(天正3年)に築城を開始した城。 1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」に勝家が敗れ自害すると城完成を見ないまま城の大半が焼失しますが、1601年(慶長6年)から城の跡地に徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)が福井城を築城。 この時に城跡地は破壊されたため柴田氏時代の遺構を見ることは出来ません。 その後1993年(平成5年)から6度の発掘調査が行われ、本丸の推定位置である「柴田神社」地下から石垣跡と思われる石が発見されますが、本丸の正確な位置を特定するには至らず。 現在の柴田神社には勝家の像や「北の庄城」唯一の遺物や鬼瓦、勝家時代に造られた足羽川・九十九橋に使われたとされる石柱などが保存。 現在は「瓶割り柴田」とも呼ばれた勝家にちなんだ「瓦割祈願」、絶世の美女と言われたお市にあやかった「美(モテ)祈願」があるパワースポットとしても紹介されています。 住所:福井県福井市中央1-21-17 勝家の生誕地と言われる下社城(しもやしろじょう)は文明から永正時代(1460年から1500年頃)に築城された城で、柴田家の居城として使用。 1575年(天正3年)に信長が朝倉義景を滅ぼすと、勝家が越後・上杉謙信の押さえとして越前国・北庄城主に任命されたことで廃城に。 現在は跡地が「明徳寺」になっており、跡地には「柴田勝家公誕生地」の碑が建てられています。 住所:愛知県名古屋市名東区陸前町 福井県福井市にある西光寺(さいこうじ)は、吉田郡岡保次郎丸に建立された真盛派(しんぜいは。 天台宗の一派)の中心寺院。 朝倉氏が滅亡後の1575年(天正3年)に勝家が「北ノ庄(福井)城」を築城する際に北ノ庄に移転、現在も福井市の左内町に存在。 長く柴田勝家の菩提所として知られており、境内には勝家と妻・お市の方の墓、天台宗の僧・真盛(しんせい)の供養塔、朝倉貞景寄進とされる梵鐘なども残されています。 住所:福井県福井市左内町8-21 幡岳寺(ばんがくじ)は滋賀県高島市マキノ町中庄にある曹洞宗の寺院。 開基は近江高島藩主・佐久間安政(さくまやすまさ)で開山は無外桂言。 慶長年間に建立されたと伝わり「賤ヶ岳の戦い」に敗れて自害した叔父・勝家と叔母・お市の方、刑死した兄・佐久間盛政の菩提を弔うために建立。 寺号の幡岳は勝家の戒名「幡岳寺殿籌山勝公大居士」に由来しており、創建当時の勝家や安政の位牌が現存しています。 住所:滋賀県高島市マキノ町中庄336.

次の